發行の辭

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第一
明治38年7月1日

 世に美術といへる高き趣味ある娯樂を知らずして、一般人士の嗜好漸く卑俗に傾かんとするを嘆じ『水彩畫の栞』一篇を艸して、青年士女の注意を求めましたのは、今より四年前のこの頃でありました。然るに、幸ひ機運の熟せる折柄とて、其書の杜撰なるに拘はらず、多少刺戟の功を奏せしと覺しく、近來水彩畫の普及は、全國到る處小アーチストを見ざるなきの盛況を呈し、旦美術に對する世人の嗜好も、數年前に比して實に隔世の感ある程進歩して參りました。洵に喜ばしい現象ではありませんか。想ふに水彩畫の今日の勢を成せしは、かの隆替常なき、一の流行といふやうな淺薄なるものではなくて、確に社會の進歩に伴へる、即ち時代の要求であると思ひます。何故なれば、水彩畫は今や、單に娯樂としてのみでなく、實用上習得せねばならぬといふ要素を供へて居るからでありませう。されば私は今後の發達に向ふても、出來得る丈け力を盡して見たいと思ひます。
 私がこのやうな雜誌の發行を思ひ立ましたのは、一昨年の秋でありました。歸朝後、さる地方へ旅行致しました時、その地に水繪具で寫生をしてゐる少年を見ました。私はかゝる僻邑に同好者の一人を得て、少なからぬ興味を覺え、其人と語り、其人の繪も見ました。然るに、此少年は畫才の見るべきものあるに拘はらず、都門に遠きため、眞の水彩畫なるものを知らず、勿論技術上の新説を聞くの機會もなく、自分の執りつゝある作畫の、方法が正當なりや否、進歩しゆくべき溢を知らねば常に不安を感じて、繪を描き乍らも充分の慰みが得られぬといふ事を見出しました。想ふにかゝる迷路に立つの人は猶他に多かるべく、此際專門畫家の技術上の講話、意見、さては泰西水彩畫の名作を、不充分ながらも同好者に知らせる機關があつたなら、斯道の進歩發展の上に、幾分の益あらんと其時深く感じました。
 爾來、雑誌發刊の事を、二三の人々に圖つて見ましたが、恰も水彩畫の栞發行當時と同じく、誰も率先して此事業を起すものなく、不得已私自ら修業の餘暇を割て、其任に當る事になりました。若し此企が、私最切の希望通り、水彩畫に遊ぶ士女の伴侶となり、倶に娯しみ、共に進みゆく媒となる事が出來ますれば、洵に幸であります。
 明治三十八年六月
 大下藤次郎識

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