寫生について

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第一 P.7-8
明治38年7月1日

寫生について 大下藤次郎
 研究するため、〔三〕、瞬間の現象を寫すため〔四〕繪の組成に要する材料を得るため〔五〕、その他種々なる目的に分れてゐる故、その描寫の方法も素より一樣ではない。先づ第一の塲合には、其寫生畫をその儘美術的の繪にするといふやうな考を去つて觀察しただけ正直に、其物の本質を誰にも解るやうに寫さねはならぬ。例へば樹木を描くとすれば、全體の形状色彩などの正確であるべきは勿論、幹や枝の硬柔、葉の厚薄、その濕ひの度迄も現はさねばならぬ。乍併博物の標本とは異ふから、同じ寫實にしても、唯外面のみでは充分1、ない。徒らに精緻の筆を弄したとて、觀察が粗で為つたら、單に機械的になるはかりて、眞の寫實とは言へない、否却て大體の趣を失ふ恐れがある。夫故まづ其物の特質を見取つて、それに力を入れなければ、决して内部に含まれたる精神を描き現はす事は出來ぬ。竹を寫すに杉と同一描法にてに.决して其竹の勢を示し難いであらう。要するに物質寫生といふのは、織物を寫せば絹か木綿か毛織であるか、その光澤や粗密の相違、即ち特質を見極め、それを現はすべき適當な描法に從ひ寫生するといふ事で、從つて對象によつては少なからぬ時間もかゝれど、がゝる研究的寫生は尤も必要であるから、初學の人は多く此方面に從事せられたい。
 第二の繪にするための寫生は、第一に比して、頭の働きが餘計に入用である。まづ位置の選擇が容易でない(平凡な場處を立派な繪に仕上るのは專門家すら難しとする處である)、その場處は形も整ひ、色も豊富で、明暗の調子もよく,その上自分の伎倆で出來る範圍内のものでなくてはならぬ。物質寫生の素養を持たぬものは、爰に到て種々なる困難を感ずるのが常で、木一つ石一つよく描けぬものに、多くの木や石や其他の複雜なものゝ集まつてゐる、大なる景色が寫し得らるべきものではない。岩が綿のやうであるとか、手拭がブリキ板に見えるなどの批難を受けるは當然である。猶此種の寫生には、物の位置を變へたり、有るものを削り、無いものを添え、又は赤に見えるものを黄に、明るきを却て暗くするなど、繪にする上に其必要があれば、必ずしも目に映じたる對象に拘泥するには及ばぬが、自由のあるだけそれたけ責任もあつて、取捨に幾多の苦心を要するのである。又單に自己の研究としての寫生なれば、よし出來榮は面白からざるも、一部に滿足すべき經驗と効果を得れば、目的は粗ぼ達ぜられてあるが、繪とする爲めの寫生は、一部よりも全體の調和が肝心であるから、畫面が散漫に流れぬやう、全體としての調和を失はぬやう充分注意せねばならぬ。(つゞく)
 注、イは組たて。口は寫すぺき對手、物體。

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