富士山

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アルフレッド パァソンス著 鵜澤四丁譯
『みづゑ』第一 P.9-12
明治38年7月1日

 日本の名山は其名歐米人の間にも知れ渡つて居て、其形は屏風や扇子に數限リなく描いてある。外國人の間にはフジヤマといふて、モントブランク、バイクスピークなどのやうに有名なものである。日本人はフジ、またはフジサンといふて、詩的にいふときはフジノヤマである。その名は何と呼ばれやうとも、此山には不思議な魔力を持てゐる。東京や横濱から電話線の霞に透けて見えたり、または駿河灣上の波越しに此山を見ると、必ず旅行者の記憶に留まるのである。富士山は海抜一万二千尺、わたりには肩を比ぶべき山がなく、麓が廣く山頂が挾く千秋に聳ゆる樣は、大志を抱くものをして欽仰措く能はざらしむろのである。
 休日の目的を完全に行ふには登山に限る事と自分は思ふ。若し休日に河へ往くと、見ろもの毎に寫生の位置などを考出す、そうなると舟を止める、自然遊びといふ目的に背く。それで物を見る嬉しさと、働かねばならぬといふ嫌悪な感じと、交々到つて心を迷はす。一體考へるといふ事は休日には禁物であるが、通例河では考へる時が多い。平坦な道路を歩行するのもこれと同じで、實際に歩行すればする程考へるものであるが、高山へ登る時は、惣ての思考をする時がなくなつて、單に肉體的の勞力ばかりになる。此境に到ると唯機械的に、忙がしい心臓の鼓動と、酷く重い脚を曳擦つて行くのみになる、それで山巓に達すると、言ひ知れぬ崇高の念が胸中に湧いて、足下に下界を見渡すと、半ば雲に隱れ、半ば現はれたる地上の、美はしい神祕的な、絶對的に描き得べからざる景致を見、同時に宇宙の廣大無邊にして、箇性の極微であるといふ感に打たれて、無我の境に入るのである。自分が数年前初めてミルトンの失樂園《パラダイスロースト》を讀んでから後にサンマアセットシャイアの山頂に登つてグラストーンバレーの平原を望んだ時に、アダムの朝の歌を讀むの感が心に起つた事があつた。
 

 『あなたは繪を描いて非常に愉快でせう』といふやうな事を人々が畫家に向ふてよく言ふ事であるが、これは繪事を打球や釣魚の娯樂と同一視してゐるのである。特に風景畫家の如きは、年中休日で遊んでゐるやうに見える。併しそれは見當違ひで、見てゐる間にずんずん變化してゆく空や、散り易い花などに對する煩悶勞苦の程は容易なものではない。そしてまた是をどうあれを何う描かうかと絶間なく心を勞する事を知る人はたんとない。
 さて横濵にゐる友人から、富士登山の同行を促がされたので、喜んで早速御受をした。時は八月の初週、丁度天候もよし、富士參りの道者をも見られるといふ。全體新しい興味のある國を漫遊丁るのに、總て時間づくめで、時計と相談して、もう何分で何處迄行くなとゝいふ人と同行する位嫌惡な事はない。併し自分の友人はそんな人ではないから、吃度諸處を見歩行くに充分時間を與へて呉れるであらう。
 出發の頃の天氣は何とも受合はれなかつた。日本には有強ちの蒸暑い日で、山の上には重い押付られるやうな濃い雲で、朝から晩迄覆はれて居つた、そして雲は谷合から徐々に立昇つてゐるやうに見えて、山巓に於ても快晴の見込はなさそうであつた。宮の下から蘆の湖までは、時々刻々にこんな雲に蔽はれて、霏々たる雨さへ加はつて來るので、快晴ならば心地よい歩行も、今日は洵に物憂かつた。湖畔の北方に仙石原といふ原があつて、家畜の群が處々に見えた。かゝる底は日本には他にあるまい、轉た自分の故郷に在る感じのせられて、懷かしい極みであつた。初めは乙女峠に通じてゐる道に合して、富士山麓の一村御殿塲へと出る筈であつたが、人夫が長尾峠を通るのが近道であるといふので、左側から登つて峠の頂.きの標示のある處へゆくと、霧の爲めに力角か解らなくなつて仕舞ふた。折しも爰に温顏有德の一老翁が忽然として顯はれた。吾等には救ひの神と思ふて其老翁の案内で、これから同じやうな道をとつて、凡そ半時間を過たと思ふ頃、殆ど身を沒する程の濡れた草道へ這入た。わたりは白い深い霧で、十ヤードも先は何物も見えない。こゝで老翁は道に迷ふた事を白状した。この道は聞いではゐるか、通るのは初めであるといふ事で、不得止また元來た道を歸つて、標示のある處へ再び出で、今度は廣い道をとつた。この老翁は年は七十四で、なかなか面白い人だ。リユマチスで惱んでゐるので、二十哩を遠しとせずして、温泉に來たのである。お易い事である爲めか、それとも温泉の効能か知らぬが、自身の行くべき道からは五六哩も離れた處まで、迷ふた道を正して、御殿塲への正道へ導いてくれた。
 霧が山の下へ下へと匍匐ふやうに下つて離れると、足下には海が見える。白砂の大曲浦、田子の浦といふて、駿河灣を抱いてゐる。これから緑の傾斜が上つてゆくのを見ると、それが富土であらうと思つた。併し殆ど二千尺餘の白雲の長堤が、全景を掩ふてゐるので、富土の頂きが何れであるか見分がつかなかつた。道は山側を通じてゆく、或は上り或は下りして、終に北方に下ると、耕作地があつて、軈て鐵道停車塲の茶屋へと着いた。ここには吾等の荷物と食料が待つてゐるのである。
 山へは四時登る事は出來るが、七月末から九月初旬迄の間でないと、途中に休息所が開けてないので、食料等の準備もしてゆかねばならず、その上雪を踏んで登るのは甚だ困難ではあり、天候不穩の時などは尤も危險である。それ故東海道線の一驛たる御殿場は、富士開山の七週間は人々の頻繁に往來する處である。
 

田子の浦

 宿屋は富士參詣者で充滿してゐる、明日登山しやうとするもの、山から下つて來て疲れた足を洗ふてゐるもの、または大きな笠と金剛杖とを束にしてゐるものなどが、喋々として何事か話してゐる。夕飯後旅行者の一團は、茶屋の前に集まつて、歌と踊りとで吾等を歓待してくれた。奏樂の一隊は二挺の三味線と、棒で叩く鐘と、竹の笛であつた。踊手は皆小さな娘で、年は十歳から十五歳位まで、着衣は普通の袖の長いキモノで、その身體や、細い手や、足の働作が甚だ美しくて、變化に富んで居つた。演奏は歌と對話と混同である。音樂は調子がなくて、外國人の耳には嫌惡な氣のする不思議なものであつた。併し日本の眞正の國民樂には、人をして魂飛び魄躍らしむるものがある。
 翌朝未明には宿は沸くが如くであつた、參詣者の多くは早立をして日の暮迄に山巓に登り、そこに一泊して下山するのであるが、我等は山上に二夜を明かさうといふので、別に急ぐ必要はない。我等の重い荷物は、馬の背で山の北口吉田迄運ばした。三人の人夫が案内者なり運搬者なりで、これに外國人の腹に必要な堅い食物や餘分の衣類を持たせて往つた。昨夜の踊子共は村の通りを流して歩行いて居たが。畫見ると皆穢くて、その動作も决して美しくはなく、人を惹着ける力などは無論なかつた。
 御殿塲から頂上への道は古い火山灰の床上である。初めはだらだら登りで、小路が野中に曲つて、紅白の花の生籬のある小家が處々に點在してゐる。數哩ゆくと悄々急阪となつて、火山灰は粗く、稀に耕作地を見るやうになる。この邊は灰色の廣野で、たゞ藪と野生の花とがあるばかり。霧は猶晴れない。何方を見ても風景は見えず、若しこの花がなかつたらこの旅行は實に物憂いものであつたらう。時には草刈が草の大束を背負ふて宛ら草の歩いてゐるやうに見えるのや、小馬に積んで歸るのもあつた。小馬は前の方に形の醜い首を突出して、下の方には細長い脚が四本、股は猫のやうで、後脚の膕は牛のやうに、重荷を背負ふて、のたりのたりと歩いてゐる。日本畫の馬は、このモデルを見て初めて解した。實に田舎馬のやうな無格恰なものは他にはあるまい。石地を多く歩くので、足には大きな藁の沓を履かして、蠅除けに木綿の紺の四角な布をかけて、また腹には紅い紐や房の附いた飾りをつけてゐる、そして參詣者を馬返しの茶屋迄乗せて來る。
 耕作物がなくなると全く燒石のごろごろ道になる。こゝに豊富な植物は、白いすいすいとした花の咲く薄で、これは山の麓迄ある。また釣鐘草の種類があつて、紅い花で黒點が見える。此方面の植物は干七百六年の噴火のために枯死したので、山の北方よりは豊富でない。山へ登れば登る程險岨になつて矮い細い杉が一面で、太郎坊といふ小宮の傍の茶屋の處で止まつてゐる。ここで參詣者は杖を買ふて上る。杖は樺製の八角に削つたもので長さ殆ど五尺許り、それに燒印が押してある。項上へ往て數錢を投じると、神官が、頂上へ來た標に赤い印を捺してくれる。午後、可なり早く第二の避難所へと着いた。大きな濕つた霧の一團がたえず山側に逼つて來る。この先に暫時何もないといふので、こゝに一泊する事とした。富士の道は順序よく十個に分けてあつて、休息の小屋がその境としてある。御殿塲道から二合目の小屋は廣く出來てゐて、溶石の塊で築いてある、下から見ると穴のある壁のやうに見えるが、上からは何も見えぬ。煙筒なしに火を焚く上には雪が澤山積重ねてある、そして家根へ管をかけて水を取る仕掛けになつてゐる。
 

川口湖

 此地の午後は甚だ荒凉たるもので、上を見ても下を見ても、紫がゝつた鼠色の火山灰ばかりで、處々に薄や薊が青く見える。こんな景色が霧の中をどこ迄も續いてゐて、この長い斜傾線の單調を破るものとしては、たゞ寳永山の小高い處が見えるばかりである。(つゞく)

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