アルフレッド、パルソンス氏を訪ふ
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
汀鶯
『みづゑ』第一 P.14
明治38年7月1日
アルフレッド、パルソンス氏は、ローヤルアカデミーの會員にして、花を描く事巧に、夙に水彩畫に名あり。十數年前吾國に來遊せしとき、百餘枚の水彩畫を作り、東京美術學校に陳列して、有志の士に其技を示せし事ありき。吾友三宅氏の、水彩畫專門に志を定めしも、此時よりなりしと聞く。畫伯が彦根に於ける寫生畫二面、現に横濱英人某氏の應接室にあり。余は縷々その繪に接して、白己の研究に少なからぬ資益を得たりき。余の曾てロンドンに在りし時、一日、吾國水彩畫界に因縁淺からざる、この老畫伯の畫室を訪ひき。
さゝやかなる鐡門によりて、案内の絲を引けば、彼方にベルの音鳴り響き、やがて少女の出て來で余を導くなりき。長き廓下を傳ひゆけば、片側には水彩、鉛筆などの小さき繪あまたかゝり、他の側にば、さまざまの美はしき花さける盆栽數多く並びたり。畫室は奥まりたる方にあり。折柄老畫伯は、この春のアカデミーに出品すべき、梨畑の泊繪に華を揮ひつゝありしが、笑かたまけて出迎へられ、恰も故舊の如く親しく語られ、また近什の數々を所挾き迄取出して示されぬ。畫伯の油繪には世人も多く賞讃せず、余も又敬服の念を生じ難かりしかど、その水繪具にて花を寫せしものには、驚くべき巧緻の作ありて、觀察の精透、技巧の熟達、他人の企て及び難き點少なからず。但し色彩美麗に過ぎて、所謂俗受の傾あるは稍々惜むべし。畫伯が日本に於ける寫生は、猶こゝにも一枚あり。そは吉野山中子守神社の八重櫻を寫せしもの。今これを取て、近作薔薇園の圖に比するに、進歩の跡極めて著しきを見る。吾國の畫人、壯年の域を過ぐるや、元氣銷沈、進歩は愚か次第に後戻りをなすもの少なからぬに、畫伯の老て益々修養を加へゆくには、感服の外なきなり。畫伯は白髪白髯、頭に小なる縁なし帽を頂き、太きシガーをロにしつゝ、少しく腰を屈してよく語れり。日本語は既に忘れたりと言はれしが、しかも日本人との會話の呼吸を知ればにや、余が破れたるイングリッシュもよく通じ、畫伯の沈着なる物語りも粗ぼ解する事を得たりし。再び日本に來遊し給はぬかと問ひしに、道のあまりに遠ければと笑て答へつ。かく身はロンドンに住めど、時をり日本美術家の訪ひ來らるゝにより、吾が故郷の人に逢ひしと同じ心地のせられて、いと嬉しなど語られぬ。
余は、余にとりても尤も樂しき二時間を、こゝに過せし喜びを謝し薄暮この忘れがたき畫室を辭しぬ。