デヴィッド、コックスの傳記及作品
青人
『みづゑ』第二
明治38年8月3日
デヴィッド、コックスの時代は英國派繪畫史中殊に主要なるものの一なりき。實に英國水彩畫の今日あるは氏及び同時代の畫家諸氏との力に俟つ處大なり。就中氏が作品の如きは十八、十九世紀の傑作中に入るべきものなり。氏がリーノールドに呱々の聲を擧げゝるとき、ゲーンスボローは猶餘年を繋ぎつ、ロームネーは實にその成功の頂點に達したりき。コンステーブル、ターナー、ラオエンス等はうら若き少年にて。ホップナーは其の作品を展覽會へ漸く出陳し初めける頃なりき。コックスが榮譽ある作品を出して、世の名聲を博し、高位置に進める頃にはデウィント、コプレー、フィールデイング、ジェー、イス、コットマン、クローム、サムエル、プラウト及其他有名なる諸書家が猶生存へたるものあり、また死去せられたるものありき。而して此の時代は健全にして活氣あり嚴格なる繪畫の進陟に熱精をもて勉め、精實なる確信を博して、高尚なる理想的の畫派を建設するに全力を盡したりき。
此の時代に古典派より純粋自然派及准自然派に移りたるは極めて明瞭なる事實にして。實に此の十八世紀には、繪畫を描くには或一定の形式的の觀察を要すること、又論議せんには餘りに神聖なる一定の方式的の慣例、又餘りに絶對的にて殆ど他に融通のきかぬ方法等の勢力を占め居りしなり。時態如斯なりしも漸次世の進むに隨て、かゝる狹隘なる獨斷的の愚論は自ら打破せらるゝに到りぬ。彼のリチャード、ウィルソン氏の(コックスの先輩)の古典派の如き或る度までは自然を研究したるものなる事は充分認め得べきものなりき。此畫家諸氏は舊來の描法の墨守を遜けて、自己の依て以て最瓦とする描法を湛揮するの権利を求め、年を追ふて、觀察の範圍擴がり徐々に其の作品中に各獨特の力を増したりき。但し此變化は急激ならざりしかば、結果に於ては殆ど見能はざるものなりしかども次で十九世紀の初期に到りて、諸氏の製作したる作品の上に活動し來り。遂に此の勢力が最頂點に達して、プレラファイライト《PRERAPHAE-LITE》の革命に依て古典派を衒ふ一派の殘餘を全然滅亡せしむるに到りぬ。
デヴィッド、コックスは勉めて意を近代的着眼點に注ぎしため、氏が作品に於ては自然派の思想の勢力を誤らずして大に成功しけるなり。こは畫題に關するのみならで、描法に於ても然りき。偉大の法式の後には傳來の描法なく、組立の特殊の方則に至つては精細の主張もこれを律すること能はず。直接神來の感興に對しては習慣の重きをもこれを隨はしむること能はざるなり。コックスの作品には自然に對する最も明白なる同情を表して、未だ曾て一つも誤らざりき。直接の印象に對する受容力を常に大に有しければ、風景畫家中の偉人として作品の成功したるも全くこれに基因し。爲に觀察も敏捷に正路を誤なく進みけるなり。氏は一七八三年四月二十九日バーミンガムの市外なるデリテンドのヒースミルレーンに産れぬ。父は蹄鐵銃槍等軍用品製造販賣者なりき。デヴィッド、コックスは幼時は地方の小學校に初等教育を受けしも、早くより父の助手として鍜冶職に就きぬ。かゝる勞働的の職業に對しては、蒲柳の質なる氏の堪へ得べき處にあらず。然るに偶然の出來事は氏をして特種なる方面に職を轉ぜしめたりき。そは曾て氏が脚を撲ちてそを治療する間に、慰藉にとて繪具箱を與へられしに、繪を描くことに非常に興味を覺え遂には斯道の初歩練修の爲に繪畫の學校へと入ることとはなりしが。多大に滿足なる進歩にて十六歳の時には、バーミンガムの附近の地方にて盛に産出せらるゝ、美術工藝品の製造家へと弟手入りを爲し遂に氏は玩弄物製造に依て美術的伎倆を多樣に顯はすの機會を得たりき。氏の師はフィールダーとて小匣、釦其他小間物類を高妙なる意匠と良好なる趣味もて製造したる人なりき。作物は細畫もて装飾したるものにて、少年コックスは特に此の職業に從事し、暫時にして其技術に熟達しぬ。此の頃の作物の一ニ箇は今猶氏が家族に保存せらるゝとぞ。氏にして若し此の職業を永續したらんには、後には有名なるものとなるべかりしが間もなくそは師たるフィールダーの自殺によつて巳むなく此業を中止したりき實に氏が師と仕事を共にしけるは僅々十八ケ月、年齢僅に十七、これを以て生計を立つること、蓋し難事たりしなり。
かゝる困難の位置に立ちながらも、美術家たるべき素志は抂げざりき。差當り或る仕事を求めざるべからず、かくて遂にバーミンガム劇塲の書割畫師の手傳とはなりぬ。此の劇塲は悲劇俳優マクリーデーの父の管理に關るものなりき。かゝる仕事にてコックスは再び美術家の生活を初めぬ。其業は書割畫師の爲に繪具を粉にし、又は材料を準備するにあれど。曾てその順序を誤りしことなく、下働きの位置なりしも、書割の主要なる原則をも處理し、又故實、描法等をも研究することを得たるなりけり。然るにある時コックスに對して好機會は來りぬ。そは劇塲管理者が或特殊なる書割を望みしも到底田舍書割畫師等の成し得べくもあらざれば、倫敦のイタリアン、オペラ、ハウスの書割畫師にてデマリアてふ人をばバーミンガムに聘して描かしむることゝはなんぬ。コックスは續いてこの畫家の手傳を爲し居たりしに。デマリヤはコックスの尋常一樣の凡才ならざるを看破しければ、徐々に書割の一部に筆を下さしむることゝはなりぬ。これよりしてコックスの手腕あることを劇塲管理者の知る處となりて、永く下働とのみにては置かざりき。
氏がこの劇塲に勤めけること四年。迅速に直接に畫を描ける經驗は後に到りて、大に用をなしたりき。廣き大いなる風景畫を描きて佳良に見ゆる樣せんとには、表現を正直にし、苟も戯筆を却け、繊巧に陷らざらんことに勤めざるべからず。舞臺の構造にも合はせ、均一をよくし、自然を觀察して、畫の組立をも考へざるべからざるなり。かゝる觀察が後日自然の偉大なる通譯者となるに預つて力あるは言ふをまたず。氏の繪畫には書割風の分子處々に散見すれども、これが爲に威嚴を添え、好結果を現はし居るなり。氏が繪畫は演劇風ならで、壯嚴なる線、驚くべき空氣の調子等は劇曲なりしなり。
氏がマクリデーの許を去りしは、書割畫の多かりしが爲ならで、地方巡業に、それからそれと珍重さるゝものから、間斷なく巡廻する事の厭はしく思ひし爲なりき。而してウェストミンスターブリッヂ、ロードの圓形劇塲の所有主たるアストレーの勸誘にて、一八〇四年に倫敦へ上りてサーレー其他の劇塲の書割を描きつゝ、時日の經過と共に、表情に就て、清新なる描法を研究し初めぬ。こは後年水彩畫家たる動機を作りしものにて、繪畫仲買のポーサーが氏の繪を稍賛して、氏をション、ヴァーレーに紹介したりしが。ヴァーレーの畫室を訪ふてより諸畫家とも交を結び、繪畫に關する專門の知識を廣むるの機會を得、又書割と繪畫との異同をも理解するに至りぬ。氏がヴァレーより繪畫に就いて得る處ありしは言ふ迄もなきなり。
劇塲の書割を描きつゝありし間も氏は折あれば必ず郊外に出てて寫生を試みぬ。倫敦に移りてよりも、忙中閑を偸んで田園の遊行を試み、畫題を求めたりき。一八〇五年及一八〇六年とには、常に處々の風景地の巡遊家なるヴァレーの勸誘にて、ノースウェールに寫生を試みたりき當時の作なる初期の繪畫は一ダース、二ギニー位なりき。それよリポーサーの手にて展覽會へ出品しけるに忽ち、名聲を博して、陸軍大佐ウインサー後にプレーマウスの伯爵の知遇を受け、終には此人の推薦にて、繪の賣價をも増加し、門葉も多く加はるに至れり。されどこれが爲に氏が書割畫家としての勢力は徐々に削減し來りて、遂には全く劇塲との關係を斷つに至りぬ。氏が名殘の書割な描きけるはウォルヴァーハンプトン劇塲なりき。さはれ此變化は氏の生活に進歩を與へず、以前よりは多數の仕事をなして、漸くやゝ滿足なる收入を得るに止りき。門第にば各十シルリング宛の小畫を描きて、教科用として賣り。又自作の小品は數シルリングか大作は五六ポンドに賣るゝやうなりぬ。氏はその所得の少きを恨みながらも、一八〇八年に地主の娘マリー、ラッグと結婚しつ。ダルウイッチ、コンモンに家を持ちぬ。その翌年に一子を擧げぬ。此時此青年畫家は年齢僅に二十有七、いよいよ新しき眞面目なる責任の起り來れるなりける。これが爲に職業にも精勤せざるを得ざるに至り。絶えず作品は次より次と製作しけるも、多くは至極廉價にすらも賣れざりき。或物は十二枚、あるは二十枚を一括し、仲買の手より畫手本として教師等に賣りぬ。又多くは引破リつ、其内の大いなるものは、單に板紙を以て覆ひ置きて、額縁代の儉約をなしける程なりき。(つゞく)
一ギーニーは約十圓五十錢、口一シルリングは約五十錢、ハ一ポンドは約十圓