ちゝぶ日記

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鶯生
『みづゑ』第二
明治38年8月3日

 葉月四日前橋行列車は八時上野を出づ。斜に差入る朝日遮らんとて、惣ての窓を閉ちしため風も通はず。人々たゞ暑しとのみ云ひて扇子遣ふ音のみ高し。青き稻田、青き桑畑、變らぬ景色に欠呻催さるゝ正午の頃本庄驛に着、停車塲前なる江川屋といへるに入りて晝餉を命じ、大宮郷行の馬車の出づるをまつ。風なく日は照りて、身を置くべき處さへなし。この日、本年に入りての尤も暑き日なりと人々云ふ。馬車は一時に發すべき定めなるを、暑氣つよしとて、四時に近き頃迄待たされぬ。乘合の客せまき室に滿ちて身動きも叶はす。車は西に傾きし日に向ひて進みゆくものから、さきにも増して暑く、肌着は汗のために水に浸せしやうになりぬ。
 上毛の三山、日光足尾の山々も漸くものゝ影となりて、ひとり前途に秩父の諸山の近づくのみ。本圧より二里程兒玉の町を過ぐ。明日は舊暦の七夕なりとか、家々に立てる笹の葉には、赤き白き黄に青に、さまざまの色紙の風に舞ふさまいと美はし。三里にして太駄といふ馬繼場あり。このわたり右も左も小高き岡にて、道に沿ふて小流あり。うす紅なる石竹の乱れさける、白き山百合の殘んの香をはなてる、とりどりにめでたし。皆野近くにて日はくれぬ。
 九時大宮の町に着きぬ。月は入りたれど星明き夜なり。親切なる乘合の一人に送られて、知人關氏を訪ふ。今霄は夜も更けたればこゝに一泊する事と定めつ。浴し衣を更へ、荒川の鮎に夕飯も濟ませ、新しき蚊帳の快よき香りに誘はれて、いつしか夢に入りぬ。
 五日空くもり時々小雨あり。主人に導かれて秩父神社ヘゆく。塊を母會の森といふ。社殿小なれども古き建物とて、見るべきもの多し。左甚五郎の作なりといふ龍虎の彫物もあり。社前南の方に近く聳ゆるは武甲山にて、形容峻烈、濃き紺碧の山色は、折から連りに動く白雲のために、一層光彩を添へて頗る壯大の觀を呈せり。宿を關氏のゆかりなる角屋といふに定めぬ。此家にて第一の室新坐敷といへるに通されしが、うす暗くして蠅多きはいとはし。午後荒川の岸にいで、二三のスケッチを試む。鮎漁る男、水に遊ぶ童など面白き添景の人物もありて、夏の河原も無趣味にはあらざりき。
 宿に歸れば、風呂の加減よしとて浴衣もち來る。糊硬くして身に添はず、恰も新しき敷紙に包まれしに似たり。
 

 六日くもり。武甲山も霧のために見えず。やがて雨ふり出したれは、宿に在て折柄訪ひ來られし關氏とかたる。
 七日小雨。我宿れる角屋は、この地第一位の旅舍にて、天秤肩にせる行商人、車挽の類は曾て宿泊させし事なしと誇り、割合によく行届居れど、給仕の女子共の不作法なるは快よからず。只多くの中に、十三四の人すれぬ小娘のありて、これのみぞやゝ床しと思にれぬ。
 海に遠き地なれば、食膳の淋しさに云ふ迄もなし。鮎のいろいろの料理、柳川、鯉こく等最早口に飽きたり。
 八日くもり秩父には晴天なきことかと怪しまれぬ。晝過る頃より雪間に日の光りを見る。町に出でゝ街道を寫すに、見る人前後を圍みてうるさし。前の家より一人の女房いできて、そのやうに近々と取まきては、繪をかく人のいかに暑からんと、集まれる人々を遠ざけ呉れしは、美の神の假りに姿を現はせしにもやと嬉しかりき。
 夕食の給仕はかの少女なり。生れは何處ぞと問ふに、本庄なりといふ。父母ありやといへば、さきつ年物爭して、父は高崎に住居し、己れは母と共に此大宮に住めりといふ。東京にゆきし事ありやと問へば、幼きをり一度ゆきぬ、都には兄のあれは、近きにこゝを去りてかの地に奉公する筈なりと答ふ。この家のさまの、かゝる白絲の如き少女に、よきことあるべしとも思はれねば、我は速にその事の實になれかしと心に希ひぬ。
 九日空雲りたれど後には晴るゝ望あり。三峯には往けずともせめては贅川迄もと、思ひ立ちて發足す。往手は唯濛々たる自雲の、深く深く山を掩へるのみ。一里程にして影森村あり。上田原を過て猶一里、荒川橋あり。此春新設せられしもの、白く青く生々しきペンキの色の、四方の景色をそこなうはいと惜むべし。橋を渡りて、石竹萩など美はしく咲ける細道を川に沿ふて上り、十一時贄川村につき、角六とよべる唯一の旅店に投ず。導かれて奥の間にゆくに、家古く疊破れたれど、南に面して河に向ひ、位置高けれは遠きを望み得べく、眺めいとよし。秋の紅葉、冬の雪、いかに面白からんと坐ろその頃の忍ばれぬ。僅かばかりの宿への心づけに酬ひんとてか、俄にとゝのへしと覺しき駄菓子の、そと悟りて集まれる蠅に、見る間に黒くなれる、山家の夏の厭はしき一つなり。風のよく吹き通すに、紙障たて切りて暫らく疲を休めぬ。
 楼前の眺めは、夜に入りていよいよ美はしくなりぬ。月光水の如く冷やかに、荒川の流れは、一筋白く輝きて水音かすかに、次第に細く暗く、終には夢の如く消え去り、對岸農家の灯は、汀の漣に映じて一層清凉の氣を加えぬ。
 十日夙に起きて戸をくるに、朝日まばゆく空に雲なし。二三日前秋立ちしときゝしが、山風身に染みて覺えぬ。都の方に御馳走なりとて、昨夜も今朝も膳に鮎あり。我はすでに、大宮にて此呑りに飽きしものを。
 携え來りし荷物の多くは此家に預けて、只畫具と三脚一本の洋傘のみ、身輕に裝ふて出發し、昨日に同じく荒川に沿ふて上る。一里程にして小さきトンネルあ剛。猶進む事十數町、遙かの谷底に數軒の茶屋と一條の橋見ゆ。左三峰山道と彫れる道標に沿ふて下る事半里あまり、漸くにして橋に達す。見下せば荒川の急流、矢の如く岩石の間を縫ふて淙々音高く走り、實に其名に背かす。この下流が花を泛べ盃を流す隅田川なるかと思へば、又多少の感なき能はず。あはれこの花、我が橋上の感を都の友に告げよと、我は帽に挿みし、石竹の一輪をとりて水に托しぬ。」登龍橋を渡れば直ちに山道にて、社へは五十二丁あり。赤き鳥居を入り、杉檜生茂りて晝も小くらき石道を上りゆくに、時ならねばか參詣の人にも逢はず、折々きこゆる老鶯の囀も、轉た淋しさを増すのみ。石標二十を數ふる頃、幽かに水聲きこえ、朽ちたる小橋ありて傍に二條の飛瀑かゝれり。その形常に變りて面白きに、歸り路には寫しゆかんなど心に約しつ。爰より十町にして茶店あり。更に十二町そこにも茶店あり。是より十町、正午頃漸く山上に達す。
 老杉の閲の烏居を越ゆれば、道少しく下り、惣門を經て右に本社あり。規模大ならざれど、釣合よき社なり。拝し終りて本坊へゆくに、帳塲と貼札ある處に、八字髯いかめしき祀官控えたり。兼て教へられしまゝ、半圓貨一個紙に包みて出すに、祀官は恭しく受けて、小童をよぴ御案内といふ、かくて導かれて樓上奥深き八疊の間に通されぬ。
 春期一ケ月の收入二萬金、參詣人の宿泊するもの一夜千に近しときゝしが、見渡せば升形に作れる巨屋、室の數は大小五六十もあるべく、よきあしき其料に応じて待遇するよしにて、只の十三錢より六七圓迄の部屋ありといふ。我が部屋には、床に楓湖の幅をかけ、疊の上には稍色褪せたる毛氈布きつめあり。廣縁には洗面所の設もありてよく行届居れど、男世帶の掃除充分ならで、何となく不潔なるは快よからず。
 室の中央には大なる獅噛火鉢あり。さきの祀官の、炭火あまた持來り、猶其上に炭を山の如く加えて去りぬ。曾て伊豆房州の地に遊びて、寒中火を要せぬ事もありしが、こはその反對にて面白し。程なく湯を運び茶を運び、大なる高坏といふものに、紅白の有平糖うづ高く盛り來りぬ。贄川の宿の駄菓子とさま變りて、これは又あまりに見事にて手を出し兼たり。
 疲れて苦しと思ひしも、勇を鼓して本社の寫生をなす。折々白霧たち込めて寸前を見分かぬ時あり。寫し終りて室に戻れば、風呂湧きたりとて浴衣と上草履持ち來る。浴塲は大にして清らかなり。
 本社より五丁にして奥の院あり。毎月十日に茶飯、十九日に赤飯を炊きて供ふるに、今も猶ほ眷属とよばるゝ狼のありて、これを食ふといふ。今日の夕餉はその茶飯なり。例の祀官來りて、白きもあれば御隨意にといふ。夜は長き廻廓の諸所にあまたの灯燈りて美はしく、海拔四千尺餘の山中とは如何にしても思はれず、いと賑やかなり。
 

 程經て膳部二つ運ばれ、神官來りて酒を勸む。酒は此山中にて醸せしものか、味極めて芳烈なり。肴には汁二種、口取、酢の物、甘煮、あへ物等ありて極めて叮重なり。盃收まりて後、砂糖かけたる冷し白玉を出す。不思議の饗應なるが、こは昔しよりの例にて、酒は何程にても飽く迄與へらるゝといふ。
 山上は夏も朝夕は袷ならでは凌がれず、蚊といふものは曾て見し事なしときゝしが、今宵はいかにしけんいと蒸し暑く、無しといふ蚊も、數多くいで來て耳元にうるさく加へて蚤さへ少なからで、中々に夢に入りがたし。十一時、十二時、一時と、各所に鳴り響く時計の音のみ高く、便所へと通ふ廊下の足音、近くの梢に名も知らぬ鳥の物すごき叫び、雨戸なければ、夜嵐は紙障を動かし、心靜まらず。とかくして二時鳴る。庭には拍子木うちて廻る。暫くして痩せたる男の部屋々々の油さしてゆく。燈火いや明かにして猶々眠りがたし。遙か離れし勝手の方には、早や味噌磨るらしき音きこゆ。手さぐりに蚤をとる事幾十、さすがに疲れを覺えて、少しくまどろみしと思ふ間もなく、社殿の方にけたゝましき太鼓の響、續いて本坊の雨戸くる音、早や人々の起き出る氣配に漸く結びかけし夢を破られ、我も澁き目をこすりこすり床を徹しぬ。この時枕頭のウォッチ短針Ⅳを指せり。

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