富士山

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アルフレッド、パーソンス著 鵜澤四丁譯
『みづゑ』第二
明治38年8月3日

 二合目石室の内側は比較的に温い。小高い床には粗末な敷物があつて、この上へ布團を布くのである。頓て暗くなつたので、皆々寢に就いた。遲く著いた人々并びに宿の夫婦とも合せてこの小屋に十三人寢たのである。こゝは先づ少ない方で、項上では二十人餘も居つたと思ふ。尤も一枚の布團に二三人も寢て居るので確な計算も出來なかつた。かゝる富士山上ですらも日本の警察の監視を免かれることは出來ない、旅行券を宿の主人が檢める。苟もこゝに泊つたものは皆その住所姓名を帳面に記されるのである、朝の二時に宿の主人に起されて戸外へ出ると、頭上にたゞ富士ばかり、全部が穩やかに見える。そして富士の頂上近くには一痕の月が明に掛つて居る。下にはわれ等の蹈んで來た灰の傾斜や原があつて、猶遠い處には、箱根の連山が見え、更に地平線下は月光に輝く雲に半ば蔽はれて居るのであつた。勢のよい人は直に頂上へと出發したらうが、我等は戸外を暫時見たので、寒さに慄へたため再び堅い寢所へと這入つたが、それにしても出發した時は太陽は未だ出なかつた。道連れは汚い白い軍服を着けた若い歩兵と、上の石室を修繕する板を背負った面白い人夫とであった。
 石室から石室への道は曲折極りないが、別に道に迷ひもしなかつた。併し七合日の如きは飲用水缺乏で、僅に雪解の水を管から得るのであつた。奇麗に晴れた朝は富士が小さく見えた。これは何の山でも同じて、雲のある時は什麼にも神祕的で高いやうに見えるものであるが、これが日光に照されると、鼠色の灰や、藍色の溶石ヽ赤や橙黄色の燒土等、一山を形成する材料が、妙な輝いた色彩を以て活躍せしむるのである。
 七合目の上から道が左側へ廻はつて、寶永山の後を通るやうになる。われ等が灰燼や溶石の道を骨折つて登つて行く間に、頂上で日の出を見た參詣者連は、御殿塲を差してずんずん下つて行くのであつた。此の高さに至ると、薄や薊は失くなつて、矮い飾草などが物蔭に見へ、また僅に蘚苔が見える。富士には規則正しい高山植物がないのである。
 八合目の下の大溝には雪が澤山にある。これから坂が急になつて、溶石中を彎曲つたが、左側に鋭く突出した溶岩は空に對して餘程不思議な輪廓を爲して居る。われ等の前には奇妙な參詣者が居つた6これは佛教の僧侶でヽ什麼にも弱さうな風で、法衣と竹の笠とを著けて、二人の人夫が一人は僧侶の腰へ紐を附けて曳き一人は後から押して居た。これですらも此僧は度々風を得んが爲めに憇むのであつた。われ等が通過るときに、僧侶は病人のやうな微笑を堪えた。此の人々はわれ等よりも遅いので、これを通過するのは甚だ慘酷のやうな氣もしたが僧侶は遂に頂上へと登つたのであつた。
 大岩石の大溝を登詰めると、少さな木の鳥居があつて、銀明水といふのがある。これは噴火口の縁に湧く清水である。水嵩はあまり澤山ではない。こゝの守護人が茶呑茶碗へ一盃位づつを參詣者にくれる。本社とその周圍の小屋に噴火口の北方に位して居る。こゝは村山道の頂上で、銀明水からは僅の謝金を出して一對の梯子で上るのである。梯乎を上ると頂上に少さな龕があつて、馬の形が据えてある、その前には銅錢が置いてあつた。富士の噴火口への入口は三箇あるのみで、各入口には木の鳥居がある。
 例に依て雲が掛つて來て、遠方は折々見える程であるが、噴火口には一見する價値があるので、巡つて見たが頓では寒風肌を劈く詐りなので、避難所へと逃こんだ。茲でわれは=何處の山でも同じであるが=、山地の人間の第一の目的は、屋根の下を求めるにあるといふことを知った。山地の人は粗造で不愉快ながらも、少さな煙たい一室を得れば、直にこれに入つて泊る、宛ら世界の賭王國の榮華の極みとも比せられて。われ等の一室も餘り贅澤なものではない。入口の處に明り取りの孔があつて、爐には榾がとろとろ燃えて居る。こゝでわれ等の料理もしたのであつた。頓で床板のぎしぎし鳴る上へと寢に就いたが、壁の隙間洩る風の冷たさは宛ら水を注ぎかけらるゝにも似て居つた。其内に眠つて居つた人々が起出したので、日の出の近いのを知つた時の嬉しさ。
 朝は清く輝いて居つた。われ等は岩角に布團を布いて蹲踞まつて、太平洋の灰色の一直線を凝視めて居ると、其上に徐々に描いた線が見えて來るのであつた。これが神に近づく第一の兆であるとしてある。神官は一番大きな岩の上へ坐つて、御幣を振つて祝詞を上げると、太陽は直に上つた。これは毎朝行ふのである。こゝにかくも廣い神秘的な青海原があつて、遙の地平線下に、大きな橙黄色の球が上るのであるが、われ等が初めて見る頃ろは既に中天にあるのであつた。かゝる事は實に日常の出來事であるのに、目新しくて、珍らしいので、多少奇蹟のやうに思はれて多くは感謝の念が起るのである。同碑に日沒は人に安心を與へる。しかし何故に仕事の初めと了りが嬉しいかは一寸と迷ふ問題である、わが思考はプレヴナ附近の早い朝の柔和なるトルコ人に及んだ。今し日はブルガリアの草なき山に上つた。トルコ人はその馬車の馭車臺より振向きて、嚴に前額に手を觸れて、車中の小弟等にお早うといふのであつた。誠にこの禮儀深い崇高な樣が、この貴重な瞬間に、甚だ好く調和して居るのである。
 橙黄色の日光が閃々として眩きばかりになつた頃、噴火口の周圍中での最高所てある劍ケ峯の麓へと廻り着いた。富士の蔭である西方を望むと、麓から數哩に渡つて、和かな藍色の大三角塔が擴がつて居るのであつた。また日光を受けた遠山の暗い處や、空中へ聳えて居る蔭が、地平線の薄霧や雲の上に明に顯はれて居た。その輪廓の確然して居ることは、われ等二人の影が顯らかに見えるやうであつたのでも知られる。しかしわれ等が手を動かしても、餘り少さなので、その影は見えなかつた。われ等が朝餉に歸ると、多數の參詣者は社前に朝の祈祷を唱へて居つたセンゲンサマといふのが山の女神であつて、その御名はコノハナサクヤヒメといふ美しい名である。噴火口の北方にも女神の宮がある。また日本の處々にこの分社がある。この第二の社前に旗が立つて居つて、日本字が記してある、その下に英語で「天禮拜塲」とある。惟ふにこれは文明と合理的宗教の盡力ではあらうが、この華愛づる女神の名を蔽ふて、數百年間平和を祈つて居つた、この富士山上から神位を掠奪したのを憤慨せずには居られなかつた。旗に接近してまたこゝに清水があって、これを金明水といふて居る。こゝには少さな小屋があつて、箸や御札を賣つて居る。それから十錢を投ずると、朋友への土産に金明水を入れるブリキ製の鑵をくれる。參詣者の多くは一ツニツづつ必ずこれを携へて居る。正式の富士參詣者は白木綿の廣袖の上衣に同じ股引、脚絆、手甲、草鞋を着け傘の代りに大きな笠を被つて、薄い蓙を肩に掛けて日光と雨とを防ぐ。頸には珠數と鐸とを掛け、用意の草鞋二三足、小さな箱に荷物を入れたのを脊にして、先を紙で包んだ八角の杖や丸い長い杖を携へて居る。婦人の衣服も男子のと同樣であるが、たゞ上衣の上に短胴服を着けるのみである。われ等の見たのには、何れの婦人でも珠數と鐸とを掛けて居ない、これは恐らく男子が持つてやるのであらう。婦人がこの神聖な山に登るのを許されたのはつい近年の事であるそうな。

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