簡易寫生法
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
ふぢ
『みづゑ』第二
明治38年8月3日
どうしたら早く繪らしいものが出來るでせうかとの御尋ね、これには御答に苦しみ候。早く上手になれる道は注意して勉強するのみに候へ共、あなたの御趣旨はそれにてはなく、寫生畫の纒まらぬにもどかしくて、繪の巧拙や手段の如何に拘はらず、只々他人に見せてうなづかせ得るものを、作りたしとの御覺召★存候。短氣は繪を習ふ上に尤も禁物、當然踏むべき順序は避くべからざるものに候へ共、一日も早く繪葉書でも描いて、友人を驚かし度とは、誰しも願ふ處なるべく存候まゝ、爰に尤も簡易なる寫生法を御傳授可申上候。
如何なる程度迄寫すベきやとは、初學の方々の誰も困難とする處と存候。精密に寫さんとて、畫面を黑にするも、臆病に筆をつけ兼ねて、印象の不慥な淡彩に止むるも、共に其道を得たるものには無之候。私の申す簡易なる方法とは、物をあまりに見過ず、又輕んぜすして、其寫すベき物の大體を、單純なる彩料にて着色する事に候、假令は爰に、雲あり山あり森あり水ある一の景色を寫さんとする時には、先づ其空は、實景が上部は藍に、下部は緑に近き色に見え候とも、それに拘泥せずに、其空の中に尤も多き領分を占むる一色の繪具にて全體を塗るべく、雲は單に大體の形を殘し置くのみにて、雲の陰の如きは描かずともよろしく候。次に遠山は、よしその山の皺の稍明かに見るとも、そを描かず。是も一色に、又近き山も、遠き山より稍濃く、色も明かに出すのみにて、些細なる濃淡には眼を閉ぢ、森も草も小さき形や色を見ずに、只著しき點だけ調子を分け、河原の小石も、水上の波紋も、最も際立ちて見える處だけ其趣を示して、他は皆適當の一色にて描き、最後に其景色の主となるべき塲處に稍注意して強き色彩を用ゐ候へば、繪葉書的の極めて淡白なるものを得べく候。但しかゝる寫生は、輪廓最も大切にて、形暖昧なるときは、决して目的を達し得られましく候。且着色も近きは明かに強く、遠きはその反對に、また遠近の度も稍烈しく區別し、暖色寒色など使ひ別ける事尤も必要なるべく候。猶ほ寫生畫拜見の上、重ねて貴意を得べく候以上。