繪畫の樂み(羽仁氏の需によりて)

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第三 P.7-8
明治38年9月3日

 繪書を家庭の娯樂に加へて頂きたいといふ事は、早くから申上たいと思つて居りながら、我田引水の嫌ひがありますので差し控へてゐましたが、御望とあらば有體に私の考を申上ませう。
 山川草木その他の自然界は天然の繪畫です。我々は大いなる繪畫の中に棲息してゐるのでありますが、我々にこの大きな自然の繪畫を見る目がなければその美しさが充分に解りません。それでその目を養ふ方法は種々ありませうが、繪畫を學ぷと申すことは慥にその中の最も重なる一つであらうと存じます。
 繪畫は音樂と同じやうに、獨りで樂しむ事が出來て、そしてまた多人數で樂む事の出來るものでありますから、家庭の娯樂としては尤も適當であります。殊に其の樂みの範圍が極めて廣く、假令ば旅行先から送つた一片の繪葉書が、家に殘つてゐる家族を慰め、且それが永久に保存されて、いつ迄もそのをりの紀念になると申すやうに清くして深い樂みを味ふ事が出來ます。またこれを實益の方から申ますなら、繪を描くと觀察力が非常に鋭敏になりますし、天然に對する同情も深くなりますゆゑ、自ら無暗に花を手折るとか、小鳥や蟲を無慈悲に扱ふとか串すやうな残酷な芝に遠ざかり、知らず知らず我々の品性を高尚にする事がどれ程であるか知れません。そして家族の一人に繪畫の素養がありますと、家庭全體の趣味を高める事が出來ます。繪を描くと、自然色の配合や物の位置按排等に對する注意が深くなりますゆゑ、服装とか室内粧飾とか申うへにも、實際多くの利益を受けるのでございます。此點に於ては、殊に御婦人方に繪畫を御學びになる事を御勸めしたいと思ひます。
 以上は繪畫を學ぶ上に於て、何人の上にも來るべき利益の重なるものでありますが、更に人々によつて豫想外の利益を得た實例が、私の只今茲に擧げ得る限りの範圍に於ても隨分數々御座います。ある大酒家が、繪をはじめてからは、前夜に大酒をすると翌日思ふやうに畫がかけなくなるので、知らず知らず酒を過さなくなつたといふ人もあり、また或會社員は、年來の夜ふかし朝寢坊であつたのか、不圖した事から繪をはしめてそれか段々面白くなり、出勤前に寫生にゆくといふ樂みの霧めに朝起きをした、朝起きをしていつにない運動をするために夜ぼ早く眠くなる、そのやうな事でいつの間にか宵寢の早起になつて仕舞ひましたま 前の人は、同し原因によつて永年の胃病が全快したといひ、秋から冬になると極まって風邪を引く人が朝夕の寫生あるきのために外氣の刺撃に馴れて、全くその習慣を脱したといふこと、わるい遊びに耽つてゐた人が、繪を習ひはしめて始終寫生に出てゆくので、よくない友達が折角やって來ても留守勝ではあり、夜は疲れるので早く寢て仕舞ふため、こちらからもあまり前の友達を尋ねてゆかぬと申やうの事から、追々疎遠になつて、此節では全くやめて仕舞ふたと申事を、その妻君が大層喜んで話して居られたやうの事も御座います。チト賣藥の能書しみてゐますが、實際の事で作り話ではありません、殊に繪畫は子供を教育してゆく上に、種々の塲合に其必要がある事は申す迄もありません。
 さて、このやうに娯樂にもなり實益もある繪畫を、世人はナゼ打捨てゝ置かと申に、繪を習ふといふ事は餘程六つかしい仕事だと思つてゐるからで御座いませう。それば專門家になつて立派な繪を描くのにはなか むづかしい、生涯を擧げてその研究に委ねる外に、天才の必要もある。併し自分の娯樂のために繪を描いて見ようといふのは、决して入り難いものでも困難なものでもないのです、殊に四弾畫は規則立つて勉強が出來るので一層たやすい事と思ひます。初學の人は、とかく最初から立派なものを描く積りで、それが巧くゆかぬといつて失望するのでありますが、それは無理な話です。初めは一本の鉛筆と一枚の紙とで、手近のものを何でも寫して見るがよろしい、臨本を模すもよく、一寸した花や小道具などを寫生するのもよいでせう、そして段々形がとれ調子が腹に入つてから彩色に移るのでありますが、面白味はこの頃から追々出て來るので御座います。それで繪を習ふのは、塲處もいらず、材料の費用も至つて僅かで濟みますから、繪を習ふと思ひ立つてゐる方は、今日只今からでも始める事か出來ます。やつて見たい心はあつても手を下す事を怠つてゐる人は、一生涯この高尚な樂みを知らずに終るので御座います。(寡庭の友娯樂號より)

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