デヴィット、コックスの傳記及作品

青人
『みづゑ』第三 P.9-10
明治38年9月3日

 氏の畫運日に非なるも、美術に關しては、心中大いに期する處ありしかば、勉強をば曾て停めたる事はなかりき、幸にもダルウイッチに家を構へければ、實地に田園の風趣に接して、人をして羨望に堪へざらしむる畫材を得るの便を得たりき。實に自然の美景に接して、神來の感興を直に畫題に上ぼせたるなりき。これと同時に地力的の風景を單に其の儘に再現せしむることは得せざりき。風土記的の描法は氏が望む處にあらず。氏は巧に空氣を描きて、一日の中にも或は同季にも、好く色彩の空氣の調子を識別して描き別けゝるなり。

山家丸山晩霞氏筆

 氏は又自然を師とする他に、膝をヴエラスクウッツ、ガスパーボージン、ルイスダエル及其他の大家に屈して教を受けぬ。かゝる諸大家に就て、研究しけるも、自己の流派を造出する困難は依然たるものなりし、然れ共自己の確信に依て、觀察したるものを表現するに、要用なる科學的の基礎を得たるは言ふまでもなし。氏が此の熟心なる時代にいかに位置を進めけるやは、一八一三年にウオーターカラー、ソサエテー(今日はローヤルソサエテー、オブ、ペーンタース、イン、ウオターカラース)の會員に選ばれたるを以てこれを證するに餘あるべし。蓋し此會は一八〇五年の創設にかゝれり。氏は其の數年前に將に倒れんとして餘命を繋ぎつゝありしアッソシエーション、オブ、アーティスツ、イン、ウオーターカラースに入會しぬ。此の會は幾干も。なくして不幸にも頽敗し了んぬ。此の會は初めより困難ありて、最後の展覽會には作品物を會場の持主のために差押を受け、公賣の上、場賃を什拂ふに至りぬ。コックスも不幸者中の一人なりき。しかしながらウオーターカラーソサエテーの方は常に繁昌にて、出陳の繪畫にて取入も少なからざりき。氏は今三十にして、妻子を養ひつゝあり、而してその生活費としては、一ッに繪畫を賣るにありき。如上の場合なれば。ウオーターカラーソサエテーの會員に選ばるゝと同時に、これを利用して、ファーンハム兵學校の畫學教師の位置を求めたりその位置は實に榮譽あるものにて、給料も卑しからで、人々には畏敬せられつゝありしかども、間もなくその軍隊的の職務の窮屈なるに飽き果てつ。かゝる仕事は氏の如き自由を愛し家庭的の趣味を有する人の、好くする處にあらねば、十ニケ月の終に辭表を呈出し、好んで以前の困難の位置に立歸りぬ。是にて獨立は得たれど生計の資乏しくファーンハムにて給料の幾分を貯蓄しけるも、今は殘り少なになりもて行き、ダルウイッチの家を疊み、門弟にも分るゝに至りぬ。折好くも此時ヒヤフォードの女學校にて畫學教師の入用とて、給料は年百ポンド、時間外には内弟子を取らんも可なりてふ條件附の廣告を見ければ、殊に近郊には畫材の豊富なるものから、早速校主と約束を結びぬ。かくて一八一四年の末にヒヤフォートの町外れに風雅なる佳家を設け。こゝには十三年間居住しぬ。學校外に内弟子を教ゆるに忙しかりしも、郊外の寫生にも時間を費すことを得たりき。同時にウオーターカラーソサエテーにも規則正しく出品しけれは、年々の倫敦の參觀人にも、美術界に此の人あるを認められつゝありき。
 

応募雨大橋三平筆

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