デビット、コックスの傳記及作品

青人
『みづゑ』第四
明治38年10月3日

 氏は又忙しき中を一八二六年にはハーランド、ペルジユーム地方へ寫生旅行を試みぬ。しかし此の時代の作品の多くはヒヤフオートの附近或はウエーの廣野、ウエールス等にて得たるものなりき。一八二四年には著述家となり『風景畫及水彩畫法』を出版し、一八二五年には『青年畫家の友』を出版しぬ。共に氏自身の手に成りしものにして、美麗たる製版なりき。一八二〇年は『ハウス市の風景』六枚を發行しぬ。それより六七年後には、デウイント、ハーデイング、ウェストール其他知名の畫家と共に、ワーウイックシヤイアの歴史の挿畫を描きぬ。この挿畫は氏の親友ウヰリアム、ラッドクリップが彫刻したるものなりき。如斯間斷なく仕事を續けしかば、相當の埋合せのなかりし筈なく、徐々にその位置を進め、やゝ幸福なる境遇に立至れり。最早貯蓄も充分なりしかば、地面を買入れ、自らの設計にて、小奇麗なる草舍を建つることゝはなりぬ。それよりして二年に垂んとする頃干ポンド内外にてこれを賣拂へり。そは今し田含を去るの時期至れりてふ决斷もて、再び倫敦に根據地を定めんためなりき。かゝる確乎たる地位を棄てゝすらも倫敦へ行かんとしたるには、勿論大いに熟考したる上なりしなりき。倫敦へ行かんには、作品を買ふものとも直接に交はることをも得、且つ氏か名聲の盛なるをもて、門弟も思ふがまゝに集むることを得べく、自ら自己の仕事も増加する理なりと賢くも考へけるなり。家屋賣却の金額と十三年間の貯蓄とを合すれば、當分生計の心配なく、其内には充分なる收入をも必ず得らるべしとで心に成算しつ。
 

杉原一雄氏筆エハガキ

 氏が考察圖に當りて幾干時もなくして、ケンシングトンのフオックスレー通りに新家庭を營みて、教師として多大の尊敬を受け、作品も比較的に敏速に賣れゆけり。それより教授料を一課一ギニーに上ぼせ、作品の値段も引上げたれば。隨て金圓も自由に取り得るやうなりぬ。氏の趣味は依然として單一にて、家庭は到て靜肅に、些の街氣もなく、ますます繁榮に趣きければ、早くも晩年を安樂に送ることを得ける基礎を作りしなりき。倫敦に於ける第二の居所は一八四一年に終りぬ。此の頃は全體より出來事のなかりし時代にして。幸福に作品製作に從事し、常に繪畫界に名聲を持續しぬ。一八三二年には『オウンダリングインノースァントサウスウエールス』の挿畫を委托されぬ。此の頃カフレー、フィールデインググ、レスウィックキヤタモール等の畫家と交際し居たりき。此の以前に氏はこ度目の寫生旅行を試みぬ。カレース、アミールス、パリス等を寫生しけるが、倫敦に於ても十四年間の繪事旅行はエングラントとウエールスに過ぎさりき。一度はヨークシヤイアに行き、又ダービーシヤイアを過ぎぬ。父ステイングス.ランキヤスターレーキ、デイストリクトへも見舞ひぬ。また氏はホルトン、アベー。ハトン、ホール、バートン、タワー。ハートウィック、ホール等の有名なる所も描きぬ。如斯到る處の目に觸るゝものを畫題とし、巧に描寫して、これを展賢會へ出品したりしなりける。
 氏か此の年への發達史は重大なるものなり。其故は此の時に油繪畫家としての發達とも見得べければなり。ヒヤフオートにありし時、既に油繪を試みし事あれど、熱心に從事しけるは倫敦へ歸りし後なりき。持前の謙遜にて、自己流にて滿足なるものは出來へくもあらずとて、ダブリユー、ジェー、マーラー《WJMuler》の門弟となりぬ。マーラーは天才の青年畫家にて、その驚くべき成功は世の稱賛して措かさる處なり。氏はマーラーの描くを見て、油繪具の扱方を自覺し直に巧妙なるものを作製するに至りぬ。氏がマーラーより幾干を學びしやはこゝに言難し。そは氏の自然を描寫する法は舊の如くにて新觀察とては少しもあらさればなり。恐らくは氏は油繪に就て學び得たる處は、永く熱心に研究して形成したる確信を白山に表情するの補助を得たりといふて可なるべし。氏は白己が未見聞にて常に迷勝ちの油繪特有の技術の説明を聞くに過ぎざりしのみなれどこの新しき一派の技術は長足の進歩にて、忽ち雄大の筆を振ふに至りぬ。氏は年齢既に六十に垂んとしてその餘命を作畫に捧くるもやゝ困難になりもて行き、搗て加へて教師の任も永くは續くへうもあらず。さわれ衣食の料には不足はなくヽ子息も父の跡を充分に襲ふに至りぬ。されば己が單一なる嗜好を樂む時節の來れるなりき。蓋し四十有餘年の間熱心に勉強の結果はヽ確に餘命を思ふがまゝに安樂に送らるゝ權利あるべき筈なり。
 かくの如くにして氏は成功を遂けたる倫敦を去りて田園に退引し、己が儘に悦樂に耽けらんと、一八四一年の夏に忙しき都會を離れて、バーミンガム附近の靜かなるハーボーンに隠れぬ。こゝに新屋を構えけるは、故郷のバーミンガムに近きにもよれども、又こゝに老益友を得る望もありし爲なりき。實にこゝに餘命を送ることは氏の生涯中最幸福の時なりき。氏は中絶せずして、油繪、水彩畫等に執筆し、畫題は時として家の周圍に求め、或は近傍の田園の好風景に取り。重大なる作品は時に氏の畫室より急速に出來上れるなり。當時の價格は氏が要求したるにもかゝわらず、其頃と今日の賣買價格に甚しき相違ありき。されど多数の繪畫を賣りて、樂しく暮すことを得たりしなり。ハーポーンに退隠してより、作品の多くは氏が名聲を更に高からしめ後年三千ボンド以上の賣買ありし作はこの頃の出來なりしなり。その頃氏はシーシヨアアットライルを一百ポンドに賣りぬ。こは氏が作品中最高の値段にてヽ其他は二十ポンドより七十ポンド位なりき。ハーボーンに移りてよリペデシーコートを見舞ひぬ。こはウエールスの少き村落なれども氏が名をして密接に聯想せしむるものなり。一八四四年の夏には倫敦の畫友と共にヴエールオブクリユートを寫生する爲に北ウェースに旅行しぬ。それより地方を緩々巡廻して寫生しつゝ、終にベレシーコードに到りぬ。こゝは好畫題の集中點にて、氏をして非常に感動せしめ、數週間をこゝ費すことゝなれり。翌年再び此の地に遊びて、遂に此の仙郷に又一年有餘の間停ることとはなんぬ。氏は如斯、生涯處々を巡歴しけるなり。實に此の地方は美の無盡藏にして、かゝる美術的の集合には氏は常にその中心となりてこゝに集り來る友人の爲に喜んで親切を盡しけるなり。かゝるウエールスにての畫家の集會と、年毎の倫敦の水彩畫會の展覧會一見に上ることにて、田舍に隔離し居ける身を、時の美術界に觸接せしめ居たりける。蓋水彩畫會へは、常に作品を出品しつつありしなり。
 

三浦半島永坂のスケツチ

 一八四五年の冬に氏の夫人は七十四歳にして此の世を去りぬ。殆ど四十年間棲者たり補助者たりし、最愛の夫人を失ひしなれば、氏は亭く悲歎の淵に沈みけるなりけり。氏は實に夫人に對して負ふ處少からさりき。夫人は賢婦にして、親切に内助の功著しく、殊に氏が初期時代の困難に際して好くこれを忍びて、氏を助けしなり。氏が教授の過勞に心疲れ、また望落膽して、如何ともする能はざるに至りしとき、又畫家としての成功の永引きし時に、もし夫れ夫人の内助なく、これに勵まされさりしならば、遂に氏の今日あることも或は得さりしやも知るべからず。しかも夫人は充分なる信仰を持して氏が希望を共に喜びつゝありしなり。

この記事をPDFで見る