紀念寫生(大まごつ記)
真野紀太郎マノキタロウ(1971-1958) 作者一覧へ
黙念子
『みづゑ』第四
明治38年10月3日
九月十五日は吾等の紀念日で、毎年必ず汀鶯と共に寫生會を催す事になつてゐる。今日は行徳へとの事で、朝の六時迄に兩國の柯亭宅に會する筈であつたのに。つい寢忘れて大久保の宅を出たのは約束の時間を過た後であつた。生憎四谷で停電、めざす米澤町へ着いたのが七時三十分、嘸汀鶯は憤つてゐるであらうと途中も氣が氣でなかつた。
〔汀〕實は吾輩も遲れたが、併し兩國へ來たのは六時半であつた。通運丸の切符賣塲で待てゐたら、先生電車から飛下りて疾風のやうに柯亭の家へ走つていくので、呼止る事も出來なかつた。
さて船はときいたら七時半のは出ない。此次は八時半との事。べンチに腰を下して朝靄に包まれた大川のスケッチをやつた。そのうち誰かゞ此次の船も來るか來ぬか知れぬと云ひ出した。係りにきけばあてにはならぬといふ。どうも氣になる。銚子行のは行徳へよる筈だからと、電話できいたら八時半に出るといふ。あと十五分、急げッと大橋迄川蒸汽、夫から駈足、蠣殻町できけば其船なら大橋から出るとの挨拶、オヤオヤオヤ
〔汀〕電話での聞きやうがわるいからさ、又も四五丁あとへあとへ
辛ふじて間には合つたが中はお客が一ぱい。暑い事苦しい事、
〔汀〕お負けに兩國で待つてゐた人達が澤山ゐて、遠方御苦勞といはぬ許り二人の顔を見てにやりにやり、極りのわるい事石油の臭ひ、ガッチヤガッチャと喧しい響、船は小さく天井は低く、丁度青梅鐵道そのまゝの體裁。
〔汀〕お見たて實に御尤も、まさに其通り
二時間ばかりで一軒家に着いた。此船は行徳迄ゆかぬ故爰に上陸。この際少々失策をやつたが極めて些々たる事さ。
〔汀〕おつと些細にあらず。吾輩代つて説明しやう。さて船が一軒家へ着かんとするや、黙念周章船縁へ出たところ、スゥーと棧橋がよつて來て太腿を咬まんとするに、駭いて飛上つた拍子、寫生箱は肩からズルズルズル水の中ヘサブン。船の中では笑ふ。餓鬼共は集まる。吾輩は急いでスケッチをやつたが、あまり氣の毒だから是だけば内々にして置かう
川岸の土手をゆく事二三十丁、行徳へ着いて梨子にありつき、夫から鹽濱へと志したが、半道ばかりときいてゐたのに一里も歩いて漸く來た處は浦安村。
〔汀」浦安村は此川の下流で、今上つた一軒家からまだ下の方だ。後戻りもこの位やれば中々氣が利いてゐる。
それでもまだ濱へ出られるつもりで無性に歩いた。終に海が見えだした。同時に元氣も出て土手の端て迄往たが。其先は芦許り、下は泥水、岸へはとても往けぬ。
〔汀〕横に道があるから入つて見たら、燒塲の跡らしい穴が二つ、さすがに骨は殘つてゐなかつた。
詮方なしに後へ戻つて人に道をきゝ、行徳迄二里あると嚇かされ、崩れ土手きいふ心細い道を辿つたが、養魚塲やら鴨塲やら、澤山の入江を迂回して、千辛萬苦の末鹽濱へ着いたのが午後の三時。
〔汀〕休む處もなく、風もなく、上からは烈しく照附る、この間の暑さ苦しさ、咽喉は乾く、爾側の川に水はあつても飮めず、實に冷いやつ一杯壹圓でも惜しくはないと思つた。
飮むものがないので辨當をやる氣にもならず、折柄の干瀉に白帆の二三點、兎に角箱を開いて寫す景二枚。さて行徳はこゝより二十丁、其地の徳願寺に知る人あれば、お茶の御馳走に預らばやと田甫の一本道を急ぎに急いだ。
〔汀〕一心といふは恐ろしいもの、默念の足の早さは非常で、汗をふく間もなく、吾輩も少々參つた、それに足の指も痛み出して大閉口
寺は中々に立派で有名な菖蒲田がある。早速凉しい客室へ通されて、憧れぬいた御茶にもありつき、味のよい枝豆も頂戴したが、此時の美味は生涯忘れぬであらう。
〔汀〕見る間に三杯の鐵瓶を空にし、二鉢の豆は皮許りにした。默念の飮んだり食つたりするその早業は、さつきの田甫道と正比例をしてゐると思つた。
此寺に傳はる應擧の幽靈の幅がある、極めて悽いものだ、これを寫したり、友人への紀念はがきを出したり、ついに日の暮迄遊んで仕舞ふた。
〔汀〕幽靈の幅は珍らしいもの、庭には池もある花もある、心ある人は拜見を願つたらよからう。但赤斑の大きな日本犬が、人を見るとウーウーと呻りつけるから御用心。
中山の停車塲迄はこゝから一里、途中には淋しい田甫道がある、こゝで汀鶯が素敵に怖ろしい怪談を始めた、人のわるい男だ。〔汀〕狐でも出はせぬかと吾輩も少々恐かつた。
踏切りを通ると汽車は今出る處で間に合はぬ。是を最後の失策として、一時間を茶店の床几に、明月に送られて家へ歸つたのはまさに十時、あゝくたぶれた。
〔汀〕隆慶橋の近處へ來ると、とある家でガチヤンと音がした、と思ふと大變だと女の金切聲がする、見ればランプを墮したらしく熾んに焚え出した。バラバラと集まる人、布團を出せ、灰をかけうと大騷ぎ、其内幸に消えて仕舞ふたが、おくれて出て來た人逹は、もう消えたのかとさもさも殘念そうであつた。
又曰く、浦安は寫生によい處だ、水もある船もある、網も干してある、あてにはならぬが爾國から數回船が出る。行徳はあまりよくないが、鹽燒く釜は見て置てもよい、鹽田も一寸おつなものだ。
この最よりの小川には名も知らぬ浮草が澤山ある、野の花も少くない、採集家は出かけ給へ、屹度珍種を見出すであらう。