夜の稽古
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
ふぢ
『みづゑ』第四
明治38年10月3日
私共待ちにまちたる好時節到來、山に紅葉をさぐるもよく、水に蘆花を寫すもよく、こゝ二ヶ月の間は彩筆ことに忙しかるべく候。かく我等の喜び狂ふに引かへ、君には日に日に晝の間短かくなりゆくに、勤めある身には三脚たつるひまも殆どあらじと喞ち給ふ。實に常日頃この道をのみ樂しみ給ふ君の御事とて嘸々口惜しくも思召さるべく存候。近頃は朝の一時間夕の半時間を僅に寫生に慰め給ふよし、御勉強のほど我等の切に耻入るところに御座候。思ふに曉、夕の風は膚に寒かるべし、さはれ清く澄める空の色は秋の朝に於て見るべく、霧こめてしめやかに樹も草も消えては現はるゝ露けきありさまは、秋に於て尤も美はしかるべく候。ことに夕陽の雄大にして色も形も變化に富めるは、ひとり此季節に於て見るべく、此際に於て朝夕の御研究は、たとへ僅かの時間なりとも益する處極めて大なるべしと存候。猶夜ながのつれつれを空しく送り給はじとなれば、一二時間墨繪の御研究もよろしかるべきか、墨繪なれば、鉛筆にても木炭にても、燈の下にて充分描き得べく候。また毛筆練習のため彩畫をとの思召に候へば、セピア、二ユートラルチント、其他何にても強き暗き色にて、一色畫を御試みに相成候はゞよろしかるべく候。寫生の材料は、最初は可成一色のもの、假令ば素燒の壼とか鐵瓶とかを選び、形と陰影を極めて正確に寫し、其調子を悟り、漸々色の多種なるものに及ぼさるべく候。勿論此際とても、其色を見ずして單に明暗の調子にのみ注意して御寫し被遊候はゞ、自然に丸味のつけ方、影の工合など覺へ可申候。寫生の方法は、晝間の静物寫生と同じく、寫すべきものゝ後には無地の紙又は布を垂れて、バックを作り、其品の大小に應じて適當の塲處に畫架を据へらるべく候。燈火は物の所在と、自己の手許と二個あれば申分無之候へ共、机の上などにて小さなもの御寫生の時は、一つにても間に合可申候。材料をてらす燈火の位置は、なるべく陰影の調子の面白く出るやうに可然御工風ありたく候。かゝる寫生は最初こそ甚だ無趣味の感有之候へ共、飽かず御勉強に相成候へば自から興味を生ずべく、他日戸外寫生試み候おりには、少なからぬ助と可相成事確に御請合申上候。右は時節柄思つき候まゝ御參考迄に得貴意候以上。