白馬會の水彩畫

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第五 P.5-8
明治38年11月3日

 本年白馬會の水彩畫は作家十人、五十五點、其第六室にパステル畫と共に陳列されてある。かく多數の出品に不拘一の粗雜輕薄なるものがないのは、作家の苦心の跡も見えて洵に嬉しい。由來白馬會の水彩畫は、數年前迄は三宅、中澤兩氏の作を見るのみであつたが、近來俄に作家の數を増したのは、水彩書界のために尤も喜ばしい現象である事と思ふ。私は前後二回この會を見舞ふた。二度共單に瞥見に過ぎぬ放、批評などゝいふ大膽な事は出來ぬ。爰には只讀者に對する義務として、見た時に心に浮んだあるものを、次第なく書き立てゝ見やう、説の當否は讀者の判斷にお任かせする。
 

羽村のスケツチ

  ##中澤弘光氏
 曾て東海道五十三次のスケッチを出して其輕妙なる筆致に其才の淺からざるを思はしめた氏は、例年の多作に似て、今度は僅に五枚、何となく物足らぬ氣がする。人は三宅氏の畫に對すると肩が凝るといふが、中澤氏の作はこれに反して筆に苦しんだ跡が見えぬため、觀者を同化せしむる力に富んでゐる。氏は又色調の上に極めて大膽な處がある。あるものは寒い色で仕上け、又あるものは極めて強烈な着色をしてゐる。利根川の夜雨〔一六一〕は暗い沈んだ色で、調子も穩かであるが、一寸木版刷のやうに見える。雨中の趣きは充分ではあるが、夜とは思へぬ。夕暮位ひにして置きたかつた。舞子の顔〔一六二〕は思ひ切つて強い色で描いてある、そして些の俗氣のないのは感ずべしである。奈良の斜陽〔一六五〕も心持のよい描法である。
 ##湯淺一郎氏
 氏が此會へ水彩畫を出されたのは、慥か一二年前からであつたと思ふ。中澤氏と同じく油繪の傍に水彩畫をかゝれるので完きを望むは此方の無理ではあるが、出品の數の多い割に敬服すべきものは少ない。惣じて景色畫より人物畫の方がよく、花賣〔一七六〕の一幅はその中でも面白い出來である。大樹の蔭〔一七八〕は蔭の色が不自然ではあるまいか。ある評者は氏の水彩畫を見て新しい描法であるといはれたが、私はそれに同意されぬ。このやうな描法は續せぬであらう。色彩の單純なるも、奥行の見えぬも共に欠點とすべきものであらう。
 水彩畫で人物の描ける人は、中澤氏か渡部審也氏位ひのもので風景畫家に比して誠に少ない。湯淺氏も此方面に回はれて人物畫に一進路を開かれたら、吾水彩畫界の大なる幸であらう。
 ##本野精吾氏
 氏はアマチユアではあるが、其技倆は優に畫家として遇する價がある。三點の出品、何れも美事の出來である、希くはより大なる畫面に筆を執つて貰ひたい。但一寸御注意して置たいのは自然物を自分の型に強て嵌込まぬやう、今少し自由に虚心に觀察して、寫生されたい事である。
 ##矢崎千代治氏
 氏も又中澤、湯淺氏などゝ同じく水彩畫の專門家ではないが、私は氏の水彩畫を巳に十二三年前に見た事がある。その頃私はまだ繪の始めたてゞ、鉛筆さへも動かなかつた時であるからよくも覺えては居ないが、何でも色の寒い墨ぽい描き方であつたたと思ふ。今度の出品は四點で、何れも亜米利加での作らしいが、矢張り寒いやうな調子は殘つてゐる。併し何れも描いた畫で、塗つたのでも拵へたのでもなく、筆の力もたしかに見えて、全躰の纏りもよい。就中モデル寫生は中々の佳作である。
 ##橋本邦助氏
 氏が昨年出品した觀音堂や乘合馬車の水彩畫は、丈しい出來でまだ目に殘つてゐる。どこか中澤氏の面影が見えて、筆に活氣があり、色に趣があつて、將來頼母敷作家であると思つた。今年はかゝる半風俗畫的のものは一枚もなく、眞面日な風景畫で、四枚のうち一枚は紫陽花の寫生である。氏の意匠に富むでゐる事は、市中に賣つてゐる繪葉書を見てもわかるが、さて自然の風景を寫す力は、それに比して遙かに劣つてゐはすまいか、尤も斯道の大家三宅氏の直く隣りに并べられてあのるは少なからぬ損で、それがため多少見劣りするのかも知れぬ。海〔二〇四〕は空が軍過て肝心の海に力が足らぬ。泊舟〔二〇五〕は苦心の作らしいが、誰やらは藍色寫眞であるといふた。夜の色の研究は充分とは思へない。來年は氏獨得の風俗畫を拜見したいものである。
 ##三宅克巳氏
 氏の筆になりしもの十五點、中には三尺以上の大作もあつて、白馬會水彩畫中で重きをなしてゐる。其技術は歳と共に進歩して、その畫風は今や世に三宅式とよばれて、堂々たる一家を成した。氏は多忙の身なるに不拘、年々澤山の作品を公にせらるゝは、洵に敬服すべき點であらうと思ふ。さて私は氏の水彩畫の初期時代より、師とし友として絶えず其作品に接してゐるのであるが、私の見る處では、氏の畫風は最初より今日迄凡そ六回の段落があると思ふ。初期の作は、色彩の強烈な、筆に勢のある、尤も大膽な、且硬い繪であつて、當時淺井氏や渡部氏の淡雅なる低い調子の繪を見馴れてゐた目には、三宅氏の繪は少くしあくどいやうに思はれたが、原田先生の評に『三宅は不器用ではあるが色の天オがある』と言はれた通り、強い色の調節は甚だ手際よくやられた。紀念展覽會第四室にある京都清水の塔〔四四七、二十九年作〕は、第一期晩年の作を代表してゐる。夫から三十年頃に出來た繪は、日光や東海道の寫生で、色の調子は少し弱くなつた。米國ニユーヘブンの秋〔四四六、三十年]がその代表である。第三期は、英國の繪を見てから一變した畫風で巴里の町はづれ〔四四八、三十一年〕アントワープ〔四四四、三十一年〕のやうな、沈靜な空氣の多い繪が出來た。當時の作として、日光大日堂、彦根の雨など尤も佳作であつた。常に氏の作に注意を怠らぬ人は、今も猶忘れぬてあらう。夫から信州に一年を過さるゝうちに更に一變した。第四期ともいふべきものて、その頃の作には描法に苦心されたあまり、自然と餘程遠ざかつたものが出來た。點で描いたのもある。線て仕上たのもある。そして繪を描くのでなくて、ゑを拵える方に傾いたらしい、小諸城趾の夕陽、朝霧などはよいと思つたが、他は好ましくなかつた。次に再び英國へゆき、佛蘭西へ往き、巴里の獨立美術家展覽會の刺戟を受けて、忽ち今迄の主義を捨て、連りに粗い筆を遣ひ始められた。信州に於ける一年間の苦心は爰に現はれて、筆も面白く、色も心地よき大作が數々出來た。これを第五期とでもいふておこふ。第六期は歸朝以來の作で、諸君の目にも新しいが、昨年と本年とは多少異なつた點も見える。
 

 氏の作品に對しては、世上の毀譽はさまざまで、讃める方では、老熟此上一點の加ふべきものなしといひ、歐洲の展覽會へ出しても立派なものであるといふ。好まぬ方の人々は、其畫風は年々版に捺したやうて、繪も又版のやうに活氣がないといひ、自然を寫しながら、自己の作つた型に押込んて仕舞ふため、自然の美處に對して盲目であるといふ。何れも其半面を説破してあると思ふ。要するに多くの人は其第三期の作を以て、氏の畫風中尤もよいものとし、其頃の繪を以て、氏が水彩畫に於ける高潮と認めてゐらるしい。併し私の好春なのは巴里時代の研究の作である。第三期頃の作は、决て惡しくはないが、色も單純で、何となく寫眞じみてゐて、根よく勉強さへすればいつか眞似の出來る性質の繪であつた。反之、第五期の繪は、筆には力があり、色彩には活氣があり、見てゐて繪が動くやうに思はれる、さて今度の繪はといふと、取出でゝ傑作と思はるゝものもないが、さればとて惡作は一枚もなく、皆手際よく出來てゐてよく揃ってゐる。その中で私の好みを強て言へば、小品で冬の午後〔二一〇〕といふので、格別これといふ處もないが、只何となく冬の午後らしい感じがする大原の寫生其一〔二〇九〕は前景が不確と見た。森林〔二一四〕は樹の幹に日は射してゐるが、地面にそれが見えぬ。朝〔二一七〕は出品中の大作で、氏の尤も力を入れたものであらう。左の方に黒い森が大きく出て、遠景は薄緑りの雜木林?前には小流があつて、空の映つた水が見える。天色には朝の趣きが充分見えるし、遠景もよく朝日の輝いた樣子が出てゐる。森の丸味はいやな感じがした。前景水のあたりは心地よい描き方であるが、地面の工合は要領を得ぬ。この繪は大作としては可なりよく纒まつてゐて、色の調子も愉快ではあるが、物の説明が不充分で、筆者の苦心は明かに認めらるゝに拘はらず、私は何等の感興も起らなかつた。否私のみでなく、二三の評家も同樣にいふてゐる。何故であらうか。それは思ふに、筆者は其技巧のために腐心せる結果、最初描かんとして得たる自然に對する感興を、畫きつゝあるうち漸次失ふたゝめでばあるまいか。即ち技巧のために、其精神を忘れたのではあるまいか。序に氏の特有の畫題について一言して見やう。氏は常に好んで雲と森を描かれる。雲と森を以て自己の本領とするといふやうな事もきいた。此方針は私も大賛成である。一人で油繪やら水彩やら、風景も人物もと、八方に手を廻して、是といふ特色となく終るよりは、水彩畫の風景と極めて、其内から一の題目を捉え、絶えず研究してゆくといふのは確によい事で他人の企て及び難いあるものを占有する事が出來る筈である。乍併、今三宅氏の繪について見るに、其雲や森に對して、力を盡して研究せらるゝに不拘多くの人々に充分の感興を起さしむることが出來ず、却て其畫題に飽きて、又してもといふやうな待遇を受くるのは何故であらうか。思ふに氏自身は、氏の感ぜし處を充分描き現はさんとし、又既に畫き現はせしと信ぜらるゝ時もあらんが、他の觀者に同樣の感じを與ふる事の出來ぬのは、氏が美として寫す雲や森の輪廓色彩が、多くの人の要求する雲の美、森の美と、其ポイントを異にするためではあるまいか。こは私一己の憶測に過ぎぬけれど、研究に熱心なる三宅氏の再考を煩はしたい、そして雲及森の匿れたる美點を捉えて、一大発展を試みられん事を切望する。妄言多罪

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