我が水繪(一)

石井柏亭イシイハクテイ(1882-1958) 作者一覧へ

栢亭生
『みづゑ』第五
明治38年11月3日

我が水繪(一) 栢亭生
 畫術上に於ける私の經歴は單に素人畫家的のものであつて、何等の順序も立たず、何等の基礎的修養も無かつた。これは勿論境遇の爲に餘儀なくされたのて、これからは新たに出直して、確かな修養にかゝらねばならぬ。が今迄の素人畫家的經歴の一通りを御話する事は、此雜誌の讀者の多數(と見て差支もあるまい)なる素人畫家諸君に多少の參考ともなり、又或興味を與へる事もあるかと思ふので、鳴呼がましくも斯樣な題目をかゝげ、私自身の水繪に於ける經歴、水繪に對する考へ、周圍の諸君の作品に就ての所感等を並べやうとするのである。
 初めから御話しなければならぬ。私は十四の歳から印刷局の彫刻課へ勤めて居つた、こゝは御承知の如く有價證券の圖案と彫版とをやる處で、私は其處に見習生として入つて居たのである。彫版をやるには多少墨畫の素養がなければいかぬのて、毎日佛蘭西版の眼鼻耳顏と云ふ樣な初學の鉛筆畫手本の臨模をやつた。私の家では父も祖父も日本畫を畫いたので、畫の趣味は疾くから私の頭腦に浸み込んで居て、種々ないたづら畫きをするのが唯一の樂みであつた。で今稍規則立つた墨畫の模寫も、窮屈や面倒と云ふ感じより面白さの方が先へ立つてずんずん精を出してやつて行き、畫いたものは本多忠保氏に見て貰ひ、直して貰つたのである。
 其頃同じ室に河久保正名君や石川欽一郎君も居られて、種々と畫の話は出る、石川君は職務の間にチョコチョコ道具を出しては景色人物など樣々な水繪を畫くと云ふ風で、それを聞きこれを見る私の頭腦が、何時とはなしに本職の彫版から、下地は好きな繪畫の方へ移つたのである。私はそれ迄に明治美術會の展覽會などで水繪を見、其淡麗な(古い水繪は大概そうであつた)處に惚れ込んで居たのであるが、眼前に水繪が如何にして作られるかを見たのは、石川君の塲合を以て最初とするのである。
 

靑梅のスケツチ

 さあ水繪がやつて見たくなつた。豪氣な道具立をして居る譯にも行かず、小さなスケッチング、ブロックを持つて、日曜日に郊外へ飛出したが、石川君の作法が初めから終りまで實物を見て畫くと云ふ方でなしに、戸外では只輸廓だけか左もなくば一寸した下塗りをするに止まると云ふ風(石川君は今でも此法である)であつたものだから、私もこれを見眞似に、戸外では輸廓丈取つて來て、家で廉繪具を淡く塗り附けると云ふ、御手輕な事をして居たのである。
 其間に局の方の墨畫稽古は、進んで古大家のデツサンの模寫石膏の寫生などに赴き、又彫版の練習は始められたのであるが、水繪熱は愈熾になり、横綴で畫の二枚づゝ入つたフォスターの手本を買つて來、セピヤ畫、次いでは着彩のそれをも模した。圖取とかタツチの入れ處とか抑揚とかの典型に染まる弊はあるが、これは其後寫生に力めさへすれば拔けてしまふものであるから、初學者が或程度迄模寫をやる事は妨げないと思ふのである。
 其頃又或人から英國出版の水繪の手本を貰つた。それはたしかフレデリック、ジヨーンスと云ふ人の景色畫であつたが、此人は一體に赭つぽい畫で、パレットはライト・レツド、ヱロー・ヲーカー、ヲリーヴ・グリーン、コバルト、ペー子ス・グレーと云ふ樣なもので成り立つて居る。私は此手本も模寫して見たが、今から思ふと馬鹿な話で、戸外寫生をやる時に、一つあの調子でやつて見ろと、其手本の説明書にある通り、先づ畫面全體にライトレツドとヱロー・ヲーカーの淡いウォツシュを流して、それからコバルトで總ての陰影の部分を畫き、そして漸次に仕上げて強いセピヤのタツチに終るのてあつたが、出來上りは向ふの自然と似も附かぬものであつた。
 私はこゝに話頭を轉じて、其頃の洋畫界が如何樣であつたか、又水繪にはどの樣なものが有つたかを述べたいと思ふ。明治廿八年は京都に博覽會が開かれて、黒田清輝氏の裸體畫が上方贅六を驚かした年であり、又今の白馬會の頭領株と明治美術會の故參とが相携へて展覽會をやつた最後の年であつた。其處には紫灰色の低調の畫と暗褐色の畫と相並んで、不統一ではあつたが、日本の洋畫の總べてを網羅して居つたのである。水繪には淺井先生の戰地寫生の、能くは覺えぬが筆力と雅趣とを具へて、而かも色の濃厚ならざる幾枚と、三宅克巳君が洋行前の、色調の強いそして丁寧な景色畫の多數と、中澤弘光君の京都の寫生の、褐色を省いて赤青黄の原色を大膽に用ひた幾枚が、今尚記憶に存して居る。
 其翌々年の展覽會には樋口艷之助と云ふ人の露西亞風景の水繪が出て居た。こつてりした重い畫であつたが、クロモ畫臭くて私は好まなかつた。庄野宗之助君は既に其頃から旨い水繪を出して居た。渡部審也君の坊主が落葉を掃いて居るのも此時分の作であつた。大下藤次郎君も奇麗な景色畫の多數を出して居られたと思ふ。
 私が十六で父を失つた明くる年、三十一年の正月に、父の緑故で淺井先生の處へ伺つて、それから時々畫いたものを持つて行つて、批評を願ふ事になつた。初めて持參したものを今出して見ると如何にもひどくて、能くこんなものを人に見せられたと思ふ位であるが、それても先生はそうがみがみ叱ると云ふ方でなく、其内自然に分つて來ると云ふ風で、ぼつぼつ教導されたのである。其年の春明治美術會の創立十年紀念展覽會へ私は初めて二三枚の水繪を出品した。無論成つて居ないのであつたが、相應に自惚もあつて、他の人のと比べて馬鹿に劣つて居るとは思はなかつたのである。(未完)

この記事をPDFで見る