秋のたより

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鶯
『みづゑ』第五
明治38年11月3日

 一
 前略、此度の寫生旅行、かねての御約束に候ひしにどうやら御都合よろしからぬ趣、眞に遺憾此上なく候。ついて旅中のありさま漏れなく知らせよとの仰拜承致候。例の暢氣連中の事ゆへ嘸かしくさぐさの面白き出來事も起り可申候まゝ、御耻かしき不文ながら、そのおりおり書き綴りて御笑ひに供へ可申候。前にも一寸申上候通り、參るべ先きは武西多摩川の奥小丹波あたりを中心として、附近の景勝をあまねく寫しとらん計畫、出發は本月の木、同行者は牛込のK氏及び不同舍のT氏に御座候。當春以來田舍の風景に接せず、旅籠屋の糠臭き飯もやゝ戀しく覺え候折柄とて、旅中の光景など目に見るが如く思はれ、はやくその日の來れかしと樂しみまち暮し居候。いつれ後便は彼地より差上可申候草々(十月二十五日本郷にて)
 

 ##二
 御約束申上候通これより旅の日記御報申上候。さて私共はいよいよ十月三十一目の一番汽車にて出發の事に取極め候故其前日は用意萬端に忙しく暮し、道順よければとのK氏の御觀めに從ひ、同夜は巾ケ谷なる氏の御宅に一泊、翌早朝支度もそこそこ、草鞋はき占め外に出でゝ時計を見るに、新宿一番列車の時刻に幾詐もあまさず、急がすは乘遲れもやせんと、今食事せしのみの小腹の痛むも構はで夢中に奔り、息せき到り着けば停車塲にては未だ切符も賣出さず見れば發車には猶十分餘も間有之、あまりに慌てしを吾ながら心耻しく有候。やかて待つ間もなく汽車も來り、私共もプラトホームに立ち出で候て、T氏や在ると車中を見れは、遙か後方の窓より長々と首をさし出して笑みつゝ招ぐはその人なり。これより三人車を共にし、語りつ笑しつ程なく立川驛に着いたし、爰にて青梅行の輕便鐵道に乘換申候。この鐵道はその名の如く、玩弄物のやうな小なものにて、頗る不思議に思はれ候ものから、例の惡口揃ひとて何の角のとこもごも批難致候處、はしなくも鐵道君の小癪に障りしにや、汽笛一聲進行を始むるや否、上下動俄かに烈しくその響は百雷もものかは、膝を交へ顏を接しても互の言葉は通ぜず、とんだ復讐に止む事を得ず沈默を守り候もおかしき事と存候。拜島、福生、羽村、小作など小さな停車塲に一人二人客の上下するを見、やがて青梅に着致候時は未だ九時前にて、多摩沿岸の連山眼前に横はれるに、そのなつかしき秋の色を見て私共は思はず踴踊致候。これよりは各々荷物肩にして甲州別街道とよばるゝ砂利道をたとり候か、脚こそ忙しけれ口は皆暇なれば、不相變のむだを叩き申候、私のいでたち、黒の背廣にズボンは半を疊み上げ、黒の外套草鞋、脚胖、縁廣のアメリカ帽、畫嚢斜めに肩を聳えて先登に歩み候を見て、K氏まづ評して陸軍士官の馬丁と申候。こは外套姿のそれに似通ひたればとの事にて、T氏も賛成と叫ぶ。怪しかる事を申ものぞと振返りてT氏を見るに、縞の綿入古ぼけし袴の腿立ち高くとり、脚胖に麻裏羽織なければいでたち甲斐々々しきに、小さからぬ柳行李を棒の先につけて肩にせる工合、どう見ても長井兵助あちらでも御用と仰やるの手傳とよりは見えず、私はこれを道中の物貰ひと評し候。次にK氏はと見れば、怪しげなる色の洋服、祖父の代よりと思はるゝ帽子(その頃は珍物なるべく候)色褪せし脚胖の樣子、草鞋の穿き工合、風呂敷包持つその手つき、何となく慧かしげに油斷のならぬ風體に、これをば田舍廻りの欺僞師と評し申候。かく詰らぬ事ども言ひ爭ひ興じ盛んに妙論卓説を吐き出し、その間には隨分前人木言の名説も有之候ひしか、あまりに深遠なるものゝみにて只今記憶を逸し候は殘念に存候。桃の名島二股尾をも過き。それより澤井に出で、漸く多摩川畔の好風景に接し申し候。私は御嶽山道万年橋迄は前年參り候事有之候へとも、紅き梢清き水さながら新しき景を迎え候に異ならず、これより後はかたみに風光の美を賞するのみかくて日も草臥れ脚も疲れ肩も痛みを覺え候ころ漸く目指す小丹波に着し、永屋と申に宿を定め申候。
 宿屋の椽にて晝食をすませ、私はK氏とうちつれて前の岸を下り、河原に出でゝ秋酣なる渓間の景に筆執り申候。黄に、紅に、緑に、たゞわけもなく彩られて、纒りたる調子を捉えがたく、根岸や三河島の、空許りの漠とした景色とさまかはりて、色も形も複雑を極め候ものから、さらぬも鈍き手腕はますます憶して畫面徒らに汚れゆくのみ、時しも小雨ふりいで川風さむく、到底一度に仕上るべき見込も無之候まゝ、あとは明日の事と又崖を上りて宿へ歸り申候。この邊の旅籠屋と申ものは普通の農家にして、只客のための座敷三三供へあるのみに候。修學旅行なればとて、旅籠料直切りしにも拘はらず、一番よき部屋に通し、僅か許りの茶代を與へしに、俄に菓子求め來りて出すなど、所柄とて憎からぬもてなし振に御座候。浴★も終り、かねて思ひしよりは上等の夕飯にもありつき、さて時計を見れば未だ六時前、何の用事もなけれど臥床に入るにはあまりに早し碁將棊の如き遊び道具も見あたらず、今日は終日のお饒舌に談話は最早飽きたリ、せめては歌留多といふものなとあれかしと。宿の人に問ふにまだ見たこともなしといふ、思ひたちし事なさぬも口惜しく、さらばとて俄に紙をたち筆を走らせ、吉野の山の白ゆきにも紛ふべき風流なるもの造り出して、夫よりは數番の合戰、T氏連りに敗れていよいよ菓子散財の運命を擔ひ、札を擲ち嘆して曰く、『惡友に誘はれて惡戯に敗れし』と、その右ひやうの如何にも毒々しとて、爰にまた言葉の花をさかせつ、さて各々臥床にもぐり込みてしとしとと降る秋雨に誘はれていつか鼾の聲と相成申候。以上朝飯まつ間の辻りかぎ幸に御判讀をいのり候。(十一月一日小丹波より)
 

長澤龍生氏筆

 ##三
 前便に引續き申上候、さて翌一日は身に染みわたる朝寒に夢を破られ、見れば雨戸の隙より青白き明りの障子にうつりて、淙々となる音、はらはらと板戸うつ音など耳に入りものから、雨なほ止まじと口惜しさ限りなく、起き出る張合もなく、再び深く衾を冠り畫迄も臥床はなれじなど云ひ合ひしが、K氏の小用にとて起ちて雨戸繰開き見れば、豈圖らん一點の雲もなき絶好の天氣にて、さきのはらはらの音は、朝嵐に誘はれて木の葉の散るのにて候ひし。この有樣に宛も狂氣の如く喜び勇みて、忽ち飛起き、朝の食事もこそこそに、大なる握り飯銘々腰に結つけ、T氏は好位地探險に、K氏と私とは上の方瀧ある方へ參り、澤へ下り橋を前にして寫生を始め申候。こゝも景色殊に勝れ居候ためか筆は心に任せず、この苦心是迄に覺えなき事に御座候。夫よりは昨凹の續きを描くべく崖下へ下り、またも戰をはじめ申候。私共寫生致し居候塲處は水澄みたる淵の前にて、深藍色の透きて清きに、流れてはゆく波紋の艷なる、をりをり岩角の群の見えてはかくるゝ美はしさ、勇も心も引入れらるゝ心地致され、屡々彩筆を止め申候。
 旅にて樂しきは、一日の業を終りてゆるゆると風呂にも人り、膝くつろけて茶菓に對する時に候。今日筆つけし繪を並べて、彼處はかく直さん、あの處は思ふやうに出來しなど、友とも語り自らも思ひて茶を啜るの快は、此境に在らぬものゝ窺ひ知り難き事と存候。兎角する程にT氏も歸り來り、是よりは鼎座又もや歌留多に耽り申候。
 こゝにおかしかりしは、K氏此夜思はぬ滑稽を演せられしことに御座候。皆々臥床に入りて後、昨夜の寒かり事を思ひ出でかけ布團を求めしに、これにてもと三枚を置きて參り候、K氏先づ跳ね起き、これこそ我のよと、中にて一番美しきをとり去り、殘りを私共に頒たれしが、さて後に見れはK氏の最初にとりし分は、何やら氣味わるき斑點數ありて、黒光りに光れるものに候ため少なからぬ嘲笑を買はれしは、聊か氣の毒にも存せられ候。
 二日
 この日も極めて好天氣、今日はT氏は油繪の大作にかゝるへく、K氏と私とは下流を梅澤、丹三郎邊の寫生を試み申候。道の板橋霜白く、花あざみ野菊の類のうら枯れて頼りなくたてる秋は淋しきものと存候。河井より橋をわたり、對岸棚澤より又川を越して、昨日の瀧を寫し終り、更に崖下の圖も仕上けて、夕煙たち昇る頃宿へ歸り申候。
 三日
 引つゞき人氣よろしく一同勇み居候。今日もK氏と共に上流棚澤へ參り、船橋と申崖下へ陣取り、山せまりて水深き幽境を寫し、爰に一日を暮し申候
 旅に在ての一番の慾は食物にて、朝夕の膳部、かゝる山里の事とて喜んで日に致すべき程のものは無之候へども、夫にも不拘いと樂しみにて、量もたしかに平生の倍は何の苦もなく、その上餅やら菓子やら饅頭やら、何にても手當り次第に口に入れ、猶洋食の、汁粉の、すしのと旨いものを欲しがり、よるとさはると食物の話のみに御座候。他に慾を滿たすの快樂も無之候ものから、かくはさもしく意地きたなく相成候ならん乎。
 K氏明日歸京の筈ゆへ、此夜駄菓子少々求め來りて送別會を開き候處、如何なる譯にや同氏の腰の邊より視砲を放つ事非常にて、T氏も時々應砲致され、私一人双方の攻撃に大閉口、否閉鼻仕候、續いてはK氏放發のレクチエア、T氏の駁論、實地試驗なども有之、最後の一發あまりに大に、紙障ために振い、幾間か隔たりし此家の人々に迄に天笑を致させ候。
 四日
 風立ちしも天氣よろしく候。K氏とは宿の前に袂を分ち申候。腰のほとりに大砲もてる愛嬌もの、一人歸すは誠に殘念、氏も永く留りたかりしが、勤めある身の是非もなやに候。新聞をよこせ、旨いものを送れと、肩にもある注文澤山、暫しは後ろ影を見送申候。
 私は一人昨日の船橋へ參り寫生をつゞけ申候。晝の辨當濟まして、不圖繪を立て置きし岩の方を見るに、四尺にも餘るべき青大將のいつの間にか三脚を搦み居候には一驚致候。午後は對岸坂下に桑の黄葉せるを寫し、昨目迄二人なりしを、今は孤影を踏んでうら淋しく歸宿致候、私は猶一週間程は滯在の筈、爾後の日記は其内又々可申上候草々(十一月四日夜小丹波より)

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