我が水繪(二)

石井柏亭イシイハクテイ(1882-1958) 作者一覧へ

栢亭生
『みづゑ』第六
明治38年12月3日

 他の藝術に於ても同じ事であらふが、繪畫には獨創を尚ぶ。獨創と云ふものが有つて、人樣々の特徴を具ふればこそ面白いのてある。(尤も完全な絶對な獨創と云ふ事は出來得べきものでないが)、然るに我々の作品には往々他人の影響の多くの部分を占めて、獨創の甚乏しい事がある、イヤ此塲合の方が却つて多いかも知れぬ。丸山鍵策君の諸作に吉田博君の影響を認め得た、三十二年の明治美術會展覽會に私の出品した大小十枚程の水繪は、白馬會の低調の畫の影響を受けた爲めであつたか、甚だしく淡つぽいもので、其最暗い處でもヲルトラマリンとクリムソンレーキに多少の澁味を加へた淡紫色に過ぎなかつた。尤も此頃低調は畫界に蔓延して、渡部審也君が海邊の數圖から、滿谷國四郎君が尾の道港の、船舶の圖吉田君が耶馬溪の瀧等にも及んで(以上の例は油畫であるが)居たと思ふけれど、此等諸君のに皆調子が整つて居るに引替へて、私のは只滅茶苦茶に淡いので其れを會塲で見た時は自分ながら弱いと云ふ事を感じないでも無かつたのである。
 

小暮赤城一の鳥居

 其時丸山君の出品な下手な土佐畫にも劣れりとか罵倒したる『日本新聞』の評家(怒らくは中村不折氏か)は、私の畫に就いて、塲處の撰み方は面白いが、どつしりした處がなくて、かりそめの戯筆のやうである、そしてこれは日本の洋畫の通弊てあると曰はれた。此小言は私の上に少からぬ利目があつた。三十二年が私の爲めに記臆すべき年であることは、如上の理由によつてばかりではない。それは三宅君が洋行後の諸作を初めて公にされた年に外ならぬからである。實に三宅君が此時の諸作は洋畫界に少からぬ注目を惹いた。則ち大下君の所謂『第三期』であつて、それはどの樣な作風であつたかと曰へば、けばけばしい色彩や達者な筆使ひを避けて、全幅の調和もよく、濕ひがあつて、重みがあると云ふ鹽梅、彦根の森を畫かれたとか曰ふ『深林』の小幅は、衆口の賞讃した處のものである。總べての物が大きく觀られて居るにも拘らず、家屋の羽目板などに木目が畫かれてあつた事は當時私の首を傾けしめた一つであつたが、今から見ると、彼時代の君が諸作は大分装飾的資質を帶びて居るかと思ふ。
 三十三年の春に催されたものが明治美術會最終の展覽會で、其處には横濱の某氏が藏すると聞くアルフレツドパルソンス氏の水繪が二枚、參考品として出陳された。兩圖とも色彩が濃厚で、華麗な丁寧な畫であつた。點景人物などは感心しなかつたが、躑躅の花に蜘蛛の巣のかけられた處まで畫き抜いた細個條仕事には驚いたのである。鍋島侯爵が所藏せせらるゝ伊國畫家(松岡氏の師と云ふ)の人物畫が同じく二枚、其作風パルソンス氏と甚だしきコントラストをなして出て居たのも、此時の事であつたと思ふ。
 日本新聞の評、三宅君の畫パルソンス氏の畫、之れだけのものが私の上に或働きをなして、其後の作は追々と濃厚に傾き、自然の觀察も稍注意深くなり、今迄は野外寫生をやるにしても、大概一日で畫き上けて居たものが、二三日或は四五日を費すと云ふ樣になつた。敢へて眞似ると云ふ氣でもなかつたが、其頃中景遠景の森木立等を畫く時、少し三宅君にかぶれた形踪もあった。三宅君の影響は、他の諸君則ち大下丸山兩君の作の上にも及んだ事があると思ふ。自分では如何思はれるか知らぬが、他たらは左樣見へたのである。
 私は此頃既に油畫もいぢり始めた。(それは水畫より尚弱い拙いものであつたが)そして繪畫は益面白くなった。印刷局では實に彫版家に仕立てやうとして私を入れたのであるのに、私の考へは年の長けるに從つて之れに逆らひ行き、將來繪畫を以て立たんとする企望は、到底翻へす事の出來ぬ樣になつた。彫版も決して賤しむ可き業ではないが、今一方にそれよりも面白い繪畫と云ふものがあつては、彫版は次第に念頭より離れずには居ない。終にそれは私の爲めに糊口の業と云ふに過ぎなくなつて一週一度の日曜日に繪を畫くと云ふ樂があればこそ殘る六日間を毎日八時間づゝ、進まぬ業に從事する事が出來たのである。そして此哀れな境涯は、まだ古くもない、三十七年の春まで續いたのである。實に此頃に於て畫作は私の唯一の慰藉であり又愉樂であつた。單にアマチュア的に畫をやると云ふのなれば、此愉樂を得て心安く呑氣に暮されるのであるが、私のは繪畫の專門家にならうと云ふ企望を抱いて居たのてあるから、少ない時間を以て出來る丈多くの研究をなす可く非常に苦心したものである。一週を隔てた日曜毎に通つたのでは、春の花も散らふし、秋の紅葉も落ちてしまふ、問には兩も降る空も曇る、到底充分の研究は出來るものてない。其處を無理にやらうと云ふので、出勤前或は歸宅後衣服も替へずに近所の朝夕を寫した事もあつた。恐らくは此讀者諸君の内にも、斯かる経驗を甞められた人もあらう。
 三十三年に淺井先生が歐州に行かれてから後は中村不折氏に畫いたものを評して貰ひ、又同好の友人間に紫瀾會なるものを組織して、月次の會合に忌憚なき批評を交換する事となつた。三十五年の春には、明治美術會中の青年諸氏の新たに創立したる、太平洋畫會が初めて展覽會を開き、其處に吉田中川兩君の酒落な又器用な亞米利加仕込の水繪と、丸山君の佳作『森のもれ日』等を陳列した。
 此間私の畫風には大した異動もなく、少しブラッシユを達者に働かせ過ぎる嫌ひがあつた、大概な色には赤黄青の三色を混合すると云ふ流義で、クリムソン・レーキ、ガムボーヂ、インディアン・レッド、ヲルトラマリンの種々なる配劑は重に影色に充てヴァーミリオン、クローム・リモン、コバルトの調合は日向のそれに用ひる習慣であつた。そして他の諸色はほんの補ひに過ぎなかつた。
 

第十七回一等横田順三

 三十五年の夏二週日の暑中休暇を利用して岩手に旅行した。保養の爲めの休暇も私は寫景の爲めに忙しく暮したのである。其夏から秋へかけて私の水繪は潤濕の乏しいガサガサしたものになつた。それは調色皿や筆の不潔にも因するのであらうが、又一面ボデー・カラー(具入りの色)を用ひた爲めでもあつたらう。尤も遠くの山や森などに使ふと云ふのではなく、只高光の個處に用ひた丈であるが、全體が乾燥して困るのであつた。それで水彩の透明質を尚ぶ人達はポデー・カラーを以てする事なく高光を巧みに殘し又はぺン・ナイフを以て紙を剥ぐ等の手段を川ふるのである。尤もボテー・カラーを用ふれば透明を欠くと極つたものではない。
 此年の秋白馬會に、三宅君が再度の渡歐後の諸作が出て居つた。作風大に變つて、大下君の所謂第五期のそれである。巴里市街の建築などの非常に面倒な處を細密に畫かれたのや、コローの家を畫かれたのや、皆夫々に面白かつたが、其中にもノートルダムの小幅が最良いと思つた。快活な色を出す爲めに、或色を塗つた上をナイフでガサガサ削つて、其處へ又他の色を箝めると云ふ樣な手段を用ひられると共に白然重潤淺染の法に從はれる事が少くなつた。(未完)

この記事をPDFで見る