色彩應用論
榕村主人アコウムラシュジン 作者一覧へ
榕村主人
『みづゑ』第七
明治39年1月3日
天空。空氣。雲。
空間及空氣を藝術の語では天空といふ。此天空の色を繪具に寫すのは甚だ困難のものである。でこれを寫すに當ツては、天空は藍色の穹形であるといふ觀念を去ッて、單にこれに似通ふた色彩で模寫せねばならぬ、空氣そのものは見るべからざるもので、水蒸氣などが加ッて初めて見えるのである。で天空は平地よりは高地で見る方が濃厚に見えるのである。空間を模寫するには其空間に雲や霧があるので、甚だ便利でこの雲や霧が地面と天空との調和を計ツて居るのである。水の如きも亦これと同じである。空氣も水も共にこれを透して見れば、その物の色を變ずるものである。
空氣や天空を描くには油繪具よりも水繪具の方が便利であるのは水繪畫家の僥倖である。實に近代水彩畫は此點に於て他に優る處がある。
雲に就ての藝術的研究を始むるに先立ツて、雲の現象の原因を極むるの要がある。それは何んな雲が何時何處に現はるゝかを知るが爲めである。この雲や空の觀察は土俗の人の經驗に依ッて得ることがある。雲の通常の區分をいふと、天氣の晴朗な時に高く薄い雲の現はるゝのを巻雲といふ。次は積雲で、上の方が圓く、下が程好く平である、この雲は午後に現はれて、夕陽に對して甚だ美しい形と色とを現はすのである。この雲は多くは晴天に限るが、層雲と伴ふと常に雨となる。で層雲即第三雲は夕方の水蒸氣が沈んで、低い處に出來る雲である。
巻積雲俗に青魚雲といふのは、甚だ美しい。これも雨を示すもので、日光の多少に依ツて濃淡がある。此雲は空中を飛散し行くものであるから、畫家たるものは精密な觀察をして筆を下さなければならぬ。
コンステーブルの研畫日記を見ると、空氣の爲めに起る結果を研究するに、筆と繪具ばかりでなく、チョークや色紙等までも用ゐて、迅速なスケッチをした事を記してある。
空氣の調子を容易に現はすには、色彩を一抹したのを乾くを待ツて、これを水で靜かに洗ふのである。しかし猶自然の調子を模するに充分でなければそのスケッチの裏に覺書を記すも一法であらう。
初學者の參考の爲に、左に空氣の灰色の表を掲げる。聊かこれに依ッて得る處もあるであらう。
空氣の灰色表
コバルドブリユー
1クリムゾンレーキ
2ライトレツド
3インヂアンレツド
4ブラオンマダー
5ライトレツドとブラツク
6セピア
フレンチブリユー
7クリムゾンレーキ
8ライトレツド
9インヂアンレツド
10ブラオンマダー
11ライトレツドとブラツク
12セピア
インヂゴー及コバルト
13クリムゾンレーキ
14ライトレツド
15インヂアンレツド
16ブラオンマダー
17ライトレツドとブラツク
18セピア
猶これを全性質の色彩と換ゆるも宜しく、この塲合にはその用ゆる割合に變化がある。例之はクリムゾンレーキの如き、カを弱くし、更に純清を望む塲合はローズマダーかマダーカーマインを換用する。カを強くするには、パープルマダーを用ゆる。ライトレツドの換りにはヴエネシアンレツドを用ゆる。また純清の赤即ち黄味を帶びない、混交して緑色を呈さないものには、ブラオンマダーやパープルマダー等がある。
前表に關して、諸色の用法を左に説くべし。畫紙の準備として第一の着色は天空、霞、遠景、等にはエローオークルとブラオンマダーとの適宜の分量を混合したる、ニユートラルオレンヂを用ゆ。
天空等に頗る純清を要する塲合は、カドミユームとローズマダーかマダー力ーマインを用ゆ。
これに暖か味を加へんとには、ライトレツド、ヴエネシアンレツドまたはインヂァンレッドを淡彩傳色す。
第一の着色が乾いた上で、豫望の調子を得んが爲めに、帶藍の灰色を塗るのである。猶ほ思ふ通りの色となるまで、コバルトや、他の純粹なブリユーを幾度も重ねて塗るのである。すると光線の部分は他の豐富な色と對照して明になる。水彩畫に於てはコバルトは空氣や遠力を描くには最も必要なもので、時にはインヂゴーの少量を混じる。
着色に緑色を帶ぶるときは、ローズマダーかクリムゾンレーキを淡彩し、またはフレンチブリユーを塗る。
フレンチブリユーは美しい深い調子があるが使用困難なるが爲めにコバルト等の上に重潤するを可とする。
インヂゴー及ブレシアンブリユーも大いに必要の彩料にて、インヂゴーの如き、天空及遠方を描くにはやゝ重く、緑色に傾く嫌あれども、東雲の天空等には頗る必要で深い鼠の調子が得られる、コバルトのやうな冷い生な色がない。
ライトレツドはブリユーと混じて、空氣の含んだ色が得られる。黄味を含んで居るので、緑色を帶ぶる傾向がある。
ライトレツドにブラツクかコバルトブリユーを混ずると美しい銀色の鼠の調子となる。ヴ子シアンレツドをライトレツドの換りに用ゆることがある、共に雲の陰影を描くに用ゆる。インヂアンレツドの淡彩は天空の深い和い調子や暴風雨の雲に必要であるが、少しく重過ぎる嫌がある。
ブラオンマダーと混じたるものは遠景と中景とに必要である、美しい鼠と深い豐かな海老茶色と變する處に用ゆるので。
日出日沒に於ける紅の雲にはローズマダー、マダーカーマイン、クリムゾンレーキ、を用ゐ時にインヂアンレツドまたはパープルマダーの少量を用ゆ。紫の雲には以上の色にフレンチブリユーやコバルトを混じて用ゆる。
東雲の空や暗い雲に強い力のあるやうにせんとにはフレンチブリユーやインヂゴーにクリムゾンレーキ、インヂアンレツド、パープル、ブラオンマダーをまじへ、最中和の調子を得んとには、アイボリーブラックまたはオルトラマリンアツシを加へる。