我が水繪(三)
石井柏亭イシイハクテイ(1882-1958) 作者一覧へ
栢亭生
『みづゑ』第七 P.7
明治39年1月3日
私の水繪は、三十六年に至つて、其春大平洋畫會に出た中川滿谷兩君の諸作から、物象の瑣末な處に拘泥せず、其大體を捕捉し、調子で見せると云ふやり方を少し學んだ形跡があつたが、それも永くは續かず、三宅君が紫瀾會の會合に持參された緻密な習作(此年の秋白馬會に出品されたる)を見てから、又打かはつて今度は細佃條描きに耽る樣になり、描法も片端から一部分づゝ相應に仕上げて行つて、全體に及ぶと云ふ風になつた。
此秋紫瀾會が平生の習作を列ねて、先輩諸君の批評を乞ふた時、三宅君は雑誌『精華』へ懇切なる批評を送られて、私の作す處の餘り多方面に亘る事を戒められた。忠告は有難く受取つたのであるが、これは一つには私の性質で據ない事と思つた。專門を早く定めなければ研究が深刻に行かぬと云ふ事も一理あるけれど、人も山も海も原も花もとりどりに面白く思ふ間は、其中の山なり海なりを無理に專門とする譯に行かぬ。又其樣するにも及ぶまいかと思ふのである。
私の作す處の片々たるスケツチに止まつて居たのは、これは悲しいかな餘業への爲めで、着實な丁寧な研究をするには時間が餘りに乏しかつたからである。
暮から正月へ掛けて銚子へ旅行した。此時は豚毛の油繪筆と普通の水繪筆と交へ用ひて、私が今迄畫いた中で最強壯なものを作つた。豚毛の筆に水氣の少ない繪具を含ませて畫く時には、何處となく油畫じみた強い、そして物の境の和らいだ繪が出來るかと思ふ。があまり強く紙を磨擦すると紙が傷んで繪具が染込から、一寸加減ものである。
はた其頃から後は私の作品に他からの影響を見る事が大分少くなつて、兎に角私自身の作風を形造つて來た樣に思ふ。部分々々の寫實に力めると共に畫面の調子を整へる事も今迄よりはいくらか増しになつて來たかと思ふ。私が新詩社の人々と三宅君とに隨伴して赤城へ旅行したのは三十七年の夏であつた。前號に大下君眞野君等の赤城の紀行が出て居た其序でもあるしするから、私は少し其時の事を述べたいと思ふ。餘り立入つた事を曰ふのは三宅君に對し失禮ではあるか、恕して貰ひたいのである。
私は恥かしながら山と云ふ程の山へ登つたのは此時が初めてゞあつたので山の特殊な景象の美に感ずる事最深く、登山の翌朝直ちに大沼の畔森林の中に入つて、葉末から落つる雫に幾度か畫面を洗はれつゝ一枚の水繪を作つた。三宅君も其時下の方の水際へ行つて描いて居られたので、君の畫かれたものと自然とを見較べて、種々感ずる處があつた。山上湖に立迷ふ霧の濕氣を帶びた灰色は能く君の畫中に摸されたか、畔湖のじめじめした處に生ふる樣々な植物は君の省く處となつて代ふるに普通の短かい芝原の如きを以てせられた。私は一寸疑問を抱かさるを得なかつたが、其時は默して了つた、其後湯の澤に宿つた時、私か大沼及小沼の絆で畫いたものに對つて、君が曰はれたのは、余り後生大事に種々な物を畫き過きる、これは無くてよい、それも取つた方が宜い、又肝腎な山上湖の感じが乏しいと云ふ樣な意味である。無論此評言も中つて居る處はあつたらふ。が私の方からは又三宅君の畫に對して余り物を省き過ぎて形を變へ過ぎて不自然に見えると曰ひたかつたのである。丁度反對なので可笑かつた。如何に自然の或現象雲霧光線等の感じに重きを置くと云ふても、畫の布置配色等の上に妨げのない限りは、其塲處に存在する草木をありのまゝに描寫しても差支ないであらふ、又そう云ふものを保存して置く方が、其場處の印象を人に傳ふる便になりはせぬかとは、今でも私の思ふ處である。
兎に角三宅君の水彩畫に一種技巧上の熟練を認めない譯には行かぬ、それにも拘らず近時黒人側から君の畫に對する不滿の聲を聞くのは、君が自然現象の感じに重きを置かるゝあまり、山水草木個々の特性を疎かにせらるゝ傾向あるに因するのではあるまいか。
人體の調子を整へる事、遠近を分つ事、瞬時的印象を捕ふる事、秀麗なる彩を著くる事、皆固より大切であるが、樹が如何に堅く地に根附けられて居るか、樹によつて幹の膚枝の組立か如何に異るか、石が如何に硬く土が如何に柔かいか寸毎に分毎に自然の御手の働いた跡を追蹤する事は、其畫を堅實ならしむる所以であらふ。私は如上の考へを以て三十七年の秋二三の景色畫を試みたが、眼疾は私に此研究を續ける事をゆるさなかつた。以上は私の水繪に於ける經歴である。長談義の讀者を倦かしめた事一通りではあるまい。
此間鹿子木君と三宅君との間に『水彩畫專門』に闘する争論の有つた時、鹿子木君は水彩畫專門家なるものゝ余り多く出づる事は望ましくないと云ふ樣な事を曰はれて居る。が事實上今の處では左程多勢は居ない。則ち白馬會に三宅君太平洋畫會に大下丸山兩君、トモヱ會に石川君位なものである。他は油畫と水彩と併せてやる人々である。今迄は初學者が習慣上墨畫水繪油畫と云ふ順序に修得して行つたものであるが、黒田教授等が其變則であり又弊害ある事を稱へられて以來、美術學校あたりの學生には、水彩畫をやるものは少くなつたたゞ多いのは素人の水繪を畫く人である。油畫より道具が輕便であると云ふ事も之れに與つて力があるであらふ。兎に角素人の畫をいぢる人が増えたのは即ち洋畫趣味の曹及で、悦ぶ可き現象である。そして此方面に於ける三宅大下等諸君の功勞は大なるものである。
水繪は油繪と異つて大望ある作に適さない事は無論である。が水繪の風景畫が其價値に於て必ずしも油繪の人物畫に劣るものではあるまい。或人がラフアヱルコランは人物二人以上組立てられない人だと曰つて、之れを貶しめて居たが、少し可笑な事である。畫家によつて種々長短がある人物を澤山に組入れる事の才が乏しくても、二人なり一人なりの人物を旨く畫く事の出來る人は、又それでよいのではないか。畫品乃至畫家の優劣は、斯くの如き標準を以て一概に判じ去る可きものてはあるまい、水繪に一種の特色ある以上は、私は其仕事の小さいからと云つて、此畫料を固守する人々を輕視したくないのである。(完)