水彩畫景色速寫法

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第八
明治39年2月3日

 これは早く景色をスケッチすると云ふ速寫法、一つの場處へ一週間も十日も通ツて、ノンキに閑にあかして寫生すると云ふ閑人には、入用のない法だからそう云ふ方々は讀まないで好い。一週間に一度日曜日の休み位に漸く都合を付けて、併かもグズグズすると半日位しか閑がないと云ふような人、停車場へ來て見た處がまだ時間までには一時間も間がある、待ッてる暇に一寸一枚やろうと云ふような人、こう云ふ方々には持ツてこいと云ふ法だと僕は思ふんだから、一つ解りやすくお談し申しませう。
 第一に繪具箱から吟味しなければいけないが、繪具の數は少ない程スケツチがラクに出來る、まづ八色あれば澤山だが、通常十二色一箱になツて居るのだから十二色でもよいが、成るべくは少ない方に習慣を付けたほうがよかろう。それで其色を並らべる順がきまツて居る、明かるい色から段々と暗らい色へと並らべる、箱入の繪具はこう云ふ風に注支通りに並らんで居ないから、自分で並らべ換へる、例へば假りに僕が使ツて居る色と、並らべてある順序とを云へば、まづ左の九色を左の順に並らべる。
 ヂーボンガ
 ーカーヲ、ーロエイ
 ドツレ、トイラ
 ナンエシ、トンーバ
 ーダマ、ズーロ
 ヤピセ
 トルバコ
 ゴヂンイ
 ンーリグ、スラプイサ
 即ち右が淡く左りに段々と濃い色になツて行く、最後の緑色(サイプラス、グリーン)は淡い方の色だが、手勝手から此處に置くが、之れは一番右にやツても差支へない譯だ。兎に角、こう云ふ風に色の位置を定め、又一度定めた以上は、始終同樣で决して變へてはいけない、暗闇でも何色はどこにあると云ふことが分るように繪具の位置に馴れぬといかぬ、そうなると、空を塗ろうと思ふと、自然に無意識に、空の色の處へ筆が行くようになる、之れが極めて大切な事である。又た、色數が少ないと、色を混合する場合に、色の牲質に馴れ易い爲め、早く思ふ色合を調合することが出來る。是等は些細な事のようで實は最も肝要なる事である。それから次手に一寸筆のことも云つて置くが、筆は一本で充分である、二本も三本も使ふと、持換へる爲めに手間がかゝる、若し二本を用ゆる必要があれば、一本の軸の兩方に筆を挿し、鳥渡振換へれば直ぐ使へると云ふ風にして置くと便利である。
 其次に筆洗のことであるが、筆洗を繪具箱の隅へ引懸けて寫生する人もあるが、アレは畫面へ水をヒツクリ返へす恐れもあり、其他何んとなく窮屈なので、僕は小なるカスガエを畫板の四方へ左圖のように打付ける(無論イーゼルは擔ぎ廻らぬ仕向だ)、それで筆洗を此カスガエに引懸ける、上の方を塗る時には、上の方へ筆洗を轉居させるなど都合の好いようにする。
 先づ此位にして置いて、彌々本文の方へ取掛ろうが、通例田舎の停車場の近所には好い景色があるものだ、假令へば遠くに森が見へて手前に一軒家と云ふ位置が有ッたとする、第一に畫面へ鉛筆で横に一本線を引く、即ち地平線だ、此地平線の在處が中々六ヶ敷説明を要する所であるが、今細かに話す暇が無い、一時間で汽車がくると云ふのだからソレでまあ手前を餘計にかこうと思ッたら地平線を上にやる、空を多く入れようと思ツたら地平線を下へさげる、と心得るのだが、畫面の縱の長さを三分した中央の一分の内で、畫の正中でなく、上か下かの處に地平線が來ると見た處が好い、コンドは此横線の正中の處へ、向ふの景色のドノ物體がくるかと云ふことを見る、一軒家を正中へやツては見た處が悪るい、何んでも主なる物は正中を避けて少し右か左へやる、遠景の杉の木を正中へやると定めることゝし、一軒家の位置もきまり、人でも來たら、其人の顔を地平線の處に置いて、其遠近は下へ延ばす長さできめる、ト云ふような風に畫の位置をきめる、これに少し馴れると、一二分間で出來てしまうようになる、コレから彩色だ、まづ向ふの景色を一生懸命に眺める、餘り眼を方々に動かさずに、正中の處を見詰る、そうすると自然に頭の中に一つの畫が出來る、向ふの景色の一番暗い處、一番明るい處、中位の處、一體の調子、空氣の色、皆チヤンと頭の中で仕度が出來る、此やり山力は初あは少し六ケ敷いかも知れないが、後の希望を持ツて耐忍してやツて居る内には、ヂキに出來るようになる、偖彌々頭でお仕度出來と來たら、筆を取る、これから色の塗り方になると、ドーモ一々此誌上で説明ができかねる、が要するに機敏に早く向ふの色を畫紙に塗ると云ふ稽古なのである、人々都合の好いようにやツてよい、種々理屈めいた畫法もあるが、概して有害無益だ、好い加減に自分でやツて居る申には自然と發明してくる、之れが一番確かだ、人がうまい畫をかくと、ドーして畫いたかと、其畫法をきゝたがるものだ、アレが宜しくない、自分は自分で都合のよい法を考へてやる、自分と人とは考へも違ふ、境遇も違ふ、とても人のやツた通りの法でゆくものではない、が假りに僕のやり方なお談すれば、先づ空から畫き初める、雲があれば雲を殘して青空を塗る、地平線に近づ又に從ひ水蒸氣なぞの色を見せる爲めに、紫とか其他の色を加へる、それが濡れて居る中に遠景の大體の色、續いて前景の色を塗り、それが濡れて居る中に家屋、前景、遠景等の陰の色をぬり、すぐ日向の色をぬり、中陰をぬり、陰の中の陰を塗る、一と通り調子が取れた處で、又前の順序で空から前景へとぬる、もう此位畫いて居る内には停車場で、ガランガランと鳴るから、急いで仕舞はなければいけない、スケッチは未成て終るが、頭には充分出來上つて居る、其晩寢床に入ると、眼底にありありと景色が見える、田舎屋の垣根の竹も一本々々見える、其側に咲いてゐる野菊まで美しく見える、未成のスケッチは自分の頭の中にある眞景から、仕上げる事が出來る、併し若しモ一度現塲へ出かけることが出來れば、ソレに越した事はない、併し僕は一言したいのは、寫生と云へば初めから、絡りまで景色にばかり頼み、自分はラクをして居るものゝように考へる初學者もあるが、畫をかくと云ふことは、手でかくのでは無く頭腦でかくのだから、頭の働が鈍なれば、寫生に十日掛ろうが二十日掛ろうが、本當の畫は出來ない、要するにスケッチの研究は一目して自然の色を見、又た之れを正しく見分ける事が出來るように、頭が機敏になるための稽古に外ならんのである、まだお談したい事も有るか、書盡すことが出來ないから此位にして、又何にか考へが出た時に致しませう。(完)

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