秋のたより
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
汀鶯
『みづゑ』第八
明治39年2月3日
四
偖も昨日迄も今朝迄も、共に在りしK氏の歸京後は、急に淋しく相成、例の歌留多も隅に投やり、只T氏と顔見合せ居候折柄、宿の人々の爐のほとりに來らずやとの勸めにまかせさらばと臺所へ參り、焚火の前に集まり申候。これよりは昨秋此家に宿られし淺升先生の御噂やら、近傍の風景談など出で、興に入り申候。此邊數年前迄は、猪も熊も居り、山奥一里程大丹波邊には今も猶鹿の鳴く音をきゝ得べく候由につき、其村の事たづね候に、六十戸程人家あれど極めて未開にて、此土地にては一口に大丹波者と申て輕侮致候趣、主人は得意になって話し申候。私共には此小丹波さへ新聞一枚なき世にも稀なる處と存居候に、まだ此上もあるものにやと少なからず呆れ申候。此夜はK氏の殘せし布團も占領致し、甚だ暖かに夢を結び申候。
五日、川合あたりを寫すべく川下の方へ參り十數町、河原に三脚据へて稍色づきたる山色を寫し候が、この日風立ち空曇りて、寒さ耐えがたく大に苦しみ申候。歸つて承れば、T氏も晝頃より筆を洗ふて歸られし由に候。
多摩川の沿岸、山々にては杉檜の巨木夥しく、夏中斫りて皮を剥ぎ、秋の水多き頃筏に組みて流し申候。其流れゆく樣の如何にも壯快に、巧に岩を避け瀬を越し、急奔して去る状、眞に奇觀に御座候。之に乘して下りたらんには、途中の景色一層面白からんとの想像にて、旅人の便乘を許すべきかと、宿の主人にたづね候處、隨分危險ながら一人位は差支なきよしにつき、K氏歸京の折にも、機會あらば乘りて下れと勸め置候ところ、この日川の間近にて寫生致居、目の前を通る筏を見るに、繋ぎ合せし材木は、人の踏むごとにぐらぐらと動き、瀬を越へ淵に入る時、前後の流に浸る事一尺あまり、乘組の筏師は、半身を水にして、岩あり洲ある毎に棹を振りて奔走するさま决して平氣の沙汰にてはなく、殆と目の色さへ變り居申候。誠に寒心すべきものにて、愉快は去る事ながら、其危さも又一通りに無之まづまづ千金の身を托すべきものには無之と考へ申候。
近くに景よき處なきやと主人に尋ね侯處、此外れの瀧の上には水こそ尠くはあれ、多摩川よりも廣き河原ありて、瀧もあり、面白き岩もあり、風流なる炭燒小屋もあり、それはそれはよき景色との話に、さらばそこにと明日の空のまたれ申候ひし、さても其結果は如何に。
明くれば十一月六日、好天氣にて暖かなるに氣も勇みて、足取も早く、やがて瀧の上に出で、河原を遇き同じ流れを右に左に渡りて、杉の林の闇きを出て、落かゝる如き岩間をくゞり、凡そ一里程ゆけども主人の話せし如き廣々とせし場處なく、炭燒小屋はあれど繪にもならぬに、更に數町を進み候ところ崖崩れて路は絶え、想像せるごとき處へ出づべくも無之候まゝ、詰らぬ小瀧一つ寫して宿へ歸り申候。素人の申こと、あてにならぬは承知の上ながら、一日を空ふせしはいかにも殘念に存候。
この夜も二人ぎりの淋しく、相も讓らず樂しみは食物にて、餅やら芋やら澤山に詰め込み申候。T氏のあまり貪り食ふに、かくては胃をや傷めんと申候に、T氏は、たとへ死すとも憾みなしと眞面目に答えられ候。これにて我々の境遇御推想あり度候。(十一月七日小丹波より)
##五
この頃引續きての好天氣に、一日位ひは雨もほしく、半製の繪の始末、知友への手紙といろいろ用事も有之、降れかしふれかしと願ひしが、曇りし七日の空に雨なく、かくては宿にも居りかね、畫嚢を肩にT氏と同し塲所に寫生を試み申候。例の木も草もあまりに明かに見え過ぎて、筆遣ひのみ細かくなりゆき、繪具は万遍なく行渡りて居れど、色も調子も統一なく、ほとほと情なく相成申候。さはれ何も稽古と、暮色手元に逼る頃まで強て筆をつゞけ申候。
宿に歸ればK氏よりの書状及新聞着致し居候。同氏は分袖後行先のみ急がれて繪も出來ず、筏に乘らんと談判せしに、澤井下迄は隨分危險にて泳きを知つてゐうかと脅かされ、恐縮して徒歩小作迄ゆき、夫より汽車にて歸京、其夜は半肉やら餅菓子やらに充分滿足を得たが、何と羨ましからうなど申添有之候。新聞は久し振にて樂しく繰返し閲續致候。
八日、好天氣、ひとり氷川へ向け出發致候。途中の景色中々よろしく、特に紅葉は眞盛りにて美事に御座候へ共、このあたり餘りに山逼りて、見上げ見下すによけれど畫面に入り不申殘念に御座候。氷川へは十一時頃着致候。小丹波より二里と申せど夫よりは近く覺え候。山中の小都會、郵便局、裁判所の出張所なども有之候。町の中央三河屋と申に泊る事と定め、晝食後景を探りてスケツチ一二枚を得申候。此地右も左も高山にて、日の出る事遲く入ること早くまことに忙しき處に御座候。
宿は小丹波よりは幾分か勝り居、表面の床には高貴の御肖像あり、欄間には一枚壹錢程の石版畫漆縁の額に恭しく飾られ居候。机上の一書手にとり見れば近世日本外史と申もの、此書借金のかたに置くものなりなど筆太に認め有之候。一人旅の退屈なるに、早くより臥床に入りて、孤燈の下借金のかたをよみていつか夢に入り申候。
九日、晴、思ひし程よき處も無之候まゝ今日小丹波へ歸る事に致し候。途中日原川に沿ふて少しく上り、水車の寫生を試み候ところ、山陰にて日は照さず、霜は白く、脚下には清水湧きて冷たく、幾度か筆を投じて日あたりの高みへ駈け上りつゝ暖をとり申候。繪成りて後白丸に危橋を寫し、猶日の高き頃永屋へ歸り申候。
この日いつもの時刻よりおそくT氏は歸られ候。最初T氏は道端の畑の中に畫架を据えられしに、農事の邪魔なればとの事に後方竹藪の邊へ移され候處、昨日は農事休みゆへよからんと、前の塲所に居りしに、持主にや小作人にや、それでは對談が違ふとわるく皮肉の談判を受け、T氏大閉口にて段々其原因を探るに、その日一人の小兒の遊び居りしを、小作人の兒と思ひていさゝか小錢を與へしが、そは隣りの兒にて、小作人の不平甚しく、かくの始末とおぼろ氣ながらわかり候ものから、この日早速相當の賄賂を持行しに、俄に待遇かはりて、何處で繪をかくも差支なしと申、其上茶よ芋よと引とめられて、いろいろの雜談にかくは日の暮るゝをもしらざりしとの事に御座候。
幾日か朝夕を共にせし友にも宿にも分れて、今朝小丹波出發、辿り辿りて万年橋へ參り爰に一枚の寫生を致し、さて時計を見れば恰も午後二時、青梅の終列車には餘程ひま有之候まゝ、爰茶店の腰掛に鉛筆走らせ申候、詳しき事は歸京の後ゆるゆる可申上候(十一月十日澤井にて)
##六
徒然のあまり再びつたなき筆を染め申候。さて澤井にて草鞋をあらため、時早ければ牛の歩みのそれならねど、あたりの景色をゆるゆる眺めつゝ、兎角して青梅に着致候處下り列車の延着にて甲武線との接續覺束なければ、切符は立川迄との事、立川にはよき宿屋もあらぬよしにつき不得止當地一泊と定め、坂上本店と申に參り候。此家當驛第一の旅店、萬事行届き居快よく覺え候。こよひの夢果して如何。後便又々可申上候(十一月十日青梅にて)
##七
昨夜恙なく歸京致候。諸方よりの信書、書籍雜誌の類、机の上にところせき迄重なり居、この四五日の忙しさ思ひやられ申候。誰も同樣のことに候半が、旅行と申もの、出發のおりと歸京の時は尤も樂しきものと存候。未見の山水、行路の愉快など心に描きて其日の早や來れかしと相待申候は、興もつき目的も達し、なつかしき吾家、親しき友の顏、さては手馴れし道具の類迄も俄に慕はしくなりて、歸りを急ぐ心と其樂しさは同じかるべきかと存候。さて青梅にてはがき差上候後、樂しき夢に入らんと存候處、事も仇や、家大なれば人多く、女中共の足音もわるく耳に入りてうるさく、久し振にて二枚重ねし布團の上に横たはりしはよかりしが、時ならぬ夜半隣室俄に客ありて、あたり憚からぬ大聲に女中共を追ひ廻しなど致し、騒がしく夢なりがたく、氷川さては小丹波あたりの山家の、物靜なるこそ却て心安かりしをと今更なつかしみ申候。
明れは十一月十一日、八時過の汽車にて立川に着、日野の河原に十六切二枚を得、高き梢に夕陽の名殘をとゞむる頃大久保に着、K氏を訪ねて共に四谷門外三河やに會食、一盞の美酒に目出度此行を終り申候。T氏は澤井あたりに猶四五日滯留のよし、定めて立派なる作あるべきかと存候(十一月十二日東京にて)