デビツト、コツクスの伝記及作品
青人
『みづゑ』第八
明治39年2月3日
氏は其夫人の歿後數週間執筆も得出來ざりしが、漸々日數の經過に連れて、絶えず業務を續くることの最艮の慰藉となるやうになりぬ。
かくて再び大作を初め、水彩畫會の作品も怠らず出品し、初夏の頃に畫友二三とボルトンアベーへ行きぬ。父ベテシーコードへも度々行きぬ。夫よりして以前の如く氏が多忙の生涯は續けられたり。實に氏の斯業に熱精なる、一八五四年迄の十年間に展覽會へ出品せし水彩畫の數百三十六枚に達せり。此頃は實に氏が天才の發露しける時なりき。これにて生涯待望しつゝありし目標點に達し終に世の美術愛玩者が氏を英國大美術家中に指を屈するに至りぬ。
貴重なる氏の生命に損傷の起りし初めは、一八五三年の六月なりき。其年の春、激烈なる氣管枝炎に侵され數週間臥床しぬ。これが癒ゆるや否や、卒中症に罹り。それが爲に甚しく衰弱したれど。周到の沈意と精熟の養生とによりて回復し、比較的に健康なる身躰とはなりぬ。されど視力も記臆力も虚弱となりて、仕事に對する勇氣も以前の如くならずして。氏の繪畫は認識せらるゝ程に變化しぬ。畫には締りのなくなり、印象不明瞭に、色彩の高雅なる處消失し了れり。さわれ充分に回復するや否や、家守と其他二三の友人とベテシーコードの秋を探りぬ。其後三年はこれを續けつ。漸々衰弱し行きながらも、郊外にて畫を描くことを勉めたりしが、それすらいよいよ困難になりもて行きぬ。此の愛惜の箇處を訪ひける最終の秋は一八五六年にてありき。
氏は身躰いよいよ虚弱となりしにも關わらず、バーミンガムの友人が氏の肖像を其市の畫館に寄贈せん爲にとて招かれて一八五五年にエデンバラーのサー、ジョンワッソン、ゴルドンの許へと旅行しぬ。又翌年の夏には、肖像を子孫に遺さんとて、倫敦のボキザルの許へと行きぬ。晩年にも旅行を續けしかども、一八五八年には家を出つること能はず。其冬病殊に篤かりしも、翌年の春に至りて回復し、水彩畫會の出品畫を仕上ぐる程とはなりぬ。これ即ち氏が最後の作なりき。六月の初に又就蓐し、其第七日に極めて平和に永き眠に就きぬ。こゝに感すべき逸話あり。そは氏が最後の夜に、居間にてこれまで描ける繪畫を出して見てありしが、頓て寢所へ入らんとして、こゝを見捨つることの殘惜しくて、しばし躊躇へ、『繪畫よさらば』と悲しげに言葉をのこして立去りぬ。實にこれ氏が生涯愛しつゝありし美術品への訣別の辭たりしなりける。
デヴイツド、コツクスが繪畫の主義を正當に了解せんとには、氏が性質の光に照して觀察するの必要あり。凡そ心の不思議に平均したる人にして初めて不幸に堪え事を成すことの得出來るものなり。己の職業を献身的に愛着するものにして初めて困難に打勝ち其目的を成遂くることを得るものなり。固守の力なき人は果てしなき困難に堪ゆること能はす。又勇氣を失ひ空しく出精の時を經過せしむるものなり。さわれコツクスの表面に現はれたる處にては冷靜にして正義の方向に對しては、迷ふことなく、充分なる出精力ありし。氏は若年の頃より兩親に良く教練せられぬ。殊に母親の力に依ること多かりき。母は實に賢婦人にして氏が熟心なる思索家となり、作畫に忠實に直覺的の信者となりしものは、母親の指導預りてカありき。氏が信條の實地に對して誠實にて終に英國大家の列に入りしも、母の管理宜しきにより形成したる性質に基くものなりき。
氏に秀オたりしも、これ普通の秀オならざりしことを記せざるべからず。少くともマーラーの如き感情的の天才にてはあらざりき。恐らくは氏が生活に追はれて間斷なく仕事を餘儀なく續けざりしならんには、氏がなしたるよりは、より早く世の注意を引けるなくべく而して其發達も迅速なるべかりしなり。されと其實際は種々の困難の爲に進歩も妨けられ、甚だ遲々たりしものなりしかども、恐らくは或事情の許に、徐々に成熟しけるものなるべし。氏は先づ前進するに先立ちて、自己の位置の絶對的に確實なることを確信し居たりしてふことが、氏の性質の重要なる部分にてありき。氏は白己の才能を誇らす、されと自ら誹謗をもせざりき。氏は機に會し、繪事を成すに當つては必ずこれを成遂ぐるの力あることを自覺しつゝありき。氏の作品の評價に對しては、氏が常に繪畫の教授に多忙なりし爲めに、より良好なる貴重の作を製るの時間なかりしてふことを、慰藉として望みつゝありき。この慰藉を壯年畔代に求めしこそ、正當なる快樂の源泉なりしなれ。ハーボーンにて暮せる頃に、氏は前の困難の埋合をなしぬ。友人間には尊敬を受け、良好なる鑑賞家には稱賛せられければ、喜んで大飛躍を試みぬ。されど成功は以前仝樣遲々たるものにて、自然界の大課目を忠實に探くるの人たりしなり。
作品が絶對的に筆者の人格を表はすべき畫家は誠に少きものなり。氏が運筆の勢、清新の調和ある色彩、意匠に關する健全なる思想、沈靜のなき、野鄙なることを常に避くる事等は、氏が確信を自然的に證定するものなり。氏は言はんと欲する事に委曲の辭を用ゐず、其意義を明白に直接に言顯はすなりける。氏が作品中の未成品は氏が充分なる研究と精確なる智識とより來れる實際の簡略法なれども、仝時代の人々はかく自然を視るの明なかりしかば、これを罵倒憤慨したりしなりき。氏は十九世紀の初頃の風景畫家が壮嚴なる古典派に對して告白したる信仰に關する傳説には無論反對なりき。この理由がコックスの長所の一たりしなり。氏は寫實家にして詩人なりき。自然界の熱心なる同情者にて、巧に美點を寫出す人なりき。氏は人の感動したることをまとめんために導くの能力は或は欠けしやも知るべからざれども、自然を觀察するに敏捷にして决して誤りなき能力はありしなり。氏が作品は氏自身の意思より出でたるものにて、他派の描法を以て自己の確信を描くことは敢てせざりき。否能はざるなりき。吾人は氏の率直簡約が今日にあつては氏の最も貴重なる特性として歡迎するなり。これ實に計り難き價値ある技術上の遺風を後世に傳へたるものなればなり。
されど仝時に此の遺風の貴重なることを、充分に實現せらるゝことの甚だ遅々たるは明白なり、コツクスの眞價を世人が知りたるは、氏が死後數年を經たる後なりき。(次號完結)
img;0265_02.jpg/煙一等山崎公平