日本の春

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アルフレッド、パーソンス
『みづゑ』第九 P.6-10
明治39年3月3日

 花霞匂ふ香港を後に見て、支那海を五日の船路、眼界總て雨氣を含む灰白色の物憂さ、されどその五日目に見し岩成の諸島はミカド領域三千の島嶼の歩哨であつた。四角な帆に舷尾高き船の折々に見ゆるは、既やわれ等が極東日出つる花の國に近きを示し顏也。誠や見もし描きもせんとて夢にのみ仇に過ごし、年の幾干今しこれも實となりて三月は九日の夕、六時といふに、船は長崎港へと錨を下した、さわれ雨の長崎居り安からで、直に船路を紳戸へと志した。十一日の朝まだき、雪の小山の朝日に輝き、暴風雨の隱れ場に集ふ漁り舟等見つ、下の關の海峽を過ぎて、瀬戸の内海へと入つた。幾日となき單調な灰白色の洋をのみ見し眼には、陸地を見なからの航海は誠に壯快で。こゝの島影かしこの岩間に小村も見ゆれば、白梅の花も霞と打見られ、畑の豆の木、耕す人まで手に取る如く雪を頂く九州四國の連山は呼べば答へんばかり。直にこゝへと上陸して描かんとも思ふた、素より日本の到る處に材料は澤ではあらうが、こゝ程の好景はあるまじと、心もときめいた。誠に内海諸島の如き好風景は未だ曾て見た事がない。輕快な小舟でこゝを巡航し、夏を暮したらんには、危險もなくいかばかり愉快な事であらうと思ふた。しかし船長の語るを聞けば、思はぬ潮流や颶風、暗礁等のあるといふ事である。
 翌朝神戸へ著した。上陸一時間前に神戸を去る六哩許の處に梅の名處のあるのを耳にしたので、そこへと直に發足した。岡本は神戸の北山の麓に位して、坂を少しく昇ると、高い家の前に茶見世が床几を並べて、梅見る人々の便を計って居る。われは道具や畫架を擴げたまゝで、肌寒い風や雪嵐にも憶せず、日本で最初のスケッチをしたのであつた。村の四面は薄紅梅の木で、田には蒼縁の若草これを見越して大坂灣や大和の諸山が雪暴風雨が過ぎたり、日光の水に映じたり。それが遠山の雪に輝いたりして、時々刻々に景色が變化して行くのであつた。初めての國で仕事を初めるのは、何となく心の噪くもので。前々から試みて居る地方の色彩や空氣やと比較して見ると、半ば無意識に使用して居る色彩が全く別種のものであることである。曾てわれは腰の痛みを覺えたことはなかつたが、寫生二時間後寫生具を離れると腰が立たなかつた。次の二週間リーマチス性の腰痛に侵された爲めに梅林以外は見る事が出來なかつた。佛教の地獄の畫には奇妙な苛刑を描いて居るが、これにリーマチス性の腰痛の人が日本の路を六哩も人力車で乘通す苦痛をも追加したらばと思ふ程であつた。
 われは四月の十三日に神戸倶樂部の友人や娯樂に告別の辭を殘して、桃山の桃花や町を見んとて大坂路は止めにして、奈良へと志した、小山に續く狭い道には見物人が群集して、矮少な木の果實園には差掛の茶店や休息所があつた。かゝる賑ひの樣子は繪になるやうな箇所が多いにも關はらず、さて繪としやうとすれば、全體にまとまりがつかない恨みがあるのである。新しい柵や小屋、粗末な竹の建物に莚のだらしなく掛つて居るのやら、雨天の爲に泥土塵埃で不潔な道等が皆人物や花を惡くして居るのである、斯る風であるから、畢竟するに日本は大きな廣い繪畫の出來る國でないので、興味ある小品や愉快な部分的の繪の出來る處であらう。これは風景に於ても眞實で、山や樹木の形が壯大他いふよりは寧ろ美しい方で、耕作地も牧場や殻物の廣大な場所がなくて田畑が少さい區切りがしてあつて多くは稻田でまた畑にはこゝそこに種々な野菜が植つて居やうといふのである。
 稻を植えるには猶早いと見えて、大坂から奈良への鐵道線路に沿ふた饒野には田は未だ耕さずにあるのもあり、また耕作の準備をしたのもあつた、皆未だ灌漑はしてないが中には苗代の美しい緑に覆はれて居るのもあり、また菜の花の強い淡い黄で一面になつて居るのもあつた。
 

 日本に於ける生活に關しては種々な本を讀んだ積りであつたが、さて初めて日本の室へ荷物を据えて生活に慣れる間は殆ど困つた。何もない天幕などでは、自分の身を入れる餘馳があれば好のであるが、日本の室は自由過ぎて困る。室の三方は暗い屏風で、一方が明い不透明な障子、こゝが出入の場所である。室内に物を置く卓子もなければ、腰を掛ける椅子もなく、背を暖める暖爐もない。たゞ清淨な疊が敷かつてあるのみである。歐羅巴風のトランクは情無い程不似合で、宿の主人が氣をきかして外國人だといふので、粗末な卓子を持て來て其上へは白といふ名ばかりの木綿の縁の縫はない片を挂けてくれた。かゝる野卑なる器具は人に耻辱を與ふるものであるが、宿の主人はこれを以てよしとし決して不愉快なものでないと心得て居るのである。しかし讀書や書きものをするにはこれも使用せねばならぬ。誠夜永を床の上に居るのは宛ら數遍仕峯を續けた程に骨が折れるのである。召使女が出て來ると物が陽氣になり、面白くなる。先づ最初には坐布團が出る、それから火の起ツた炭を入れた火鉢、茶と甘い菓子が出る。これが實に嬉しかッた。何となく家庭にあるの思がするのであッた。何處の茶屋でも必ずするのは、客が泊り客であらうが、休息の客であらうが、必ず茶(澁茶ではあるが)と火鉢を出して、馴々しい歡迎の語を述べるのである。菊水屋は奈良の春日大公圍の入口にある。其外側には花崗石の鳥居があツて側面には石燈籠が並んで居る、また杉並木の下の路の兩側には宮まで石燈籠が密接列をなして居るのである。其數の多いので、口碑にも數へられないとしてある。そここゝには巡禮者が休息して茶を飮む爲めに小屋が出來て居る。また馴れた鹿が通行人に菓子や胡桃を貰はうとして集ッて來る、朝から夕方まで見物人が引きもきらず。奈良は大阪に近いので群集の内の多くは商人で、洋服を著けて居るものもあるが大概は日本服である。路傍に繪を描いて居ると種々な風俗が見られる。老百姓は白か紺の脚胖を着け、藁の鞋を履いて、大きな帽を頂き、着物の裾を折ツて帶へ挾んで、頭は中央を剃落して、後髪を昔通りに曲げて結んで居る。青春の美しいムスメは立派な絹の着物を着て、派手な緋の下着で、廣い帶を締めて、黒塗の下駄に白足袋といふのである。杉は可い所であるが古い藤が春日公園では見ものである。今はこの宮は帝室の有ではあるが其昔は大藤原家の有であッた。でこゝで神聖な踊りをする小女は紋章に藤の花を着けて居るのである。それで藤蔓はこゝには何れへも這廻るにまかせてあるのである。
 雨天の爲に全く戸外寫生が出來なかつた時に奈良觀光にと出掛けた。興福寺の五重の塔、大佛、大梵鐘から二月堂、石燈籠の並列して居る處、少さな龕、また茶屋等を見た。
 奈良公園は芝生が少い、一體日本にはこれがないのであるが、實際平地の草花の少いのには一驚を喫したけれども、香のない菫や黄白の蒲公英は澤山にある、濕氣ある溝にはジロボーといふ少さな紫の花がある。しかし英國の雛菊、毛莨、櫻草等が牧場の春を飾ッて居るには比へ物にはならない。恐らくは山野の荒蕪地には美しい花も咲いて居ッたであらうが、平地は透間なく耕してあるので雜草の花咲くまでは成長する餘地がないのであらう。
 既頃櫻の早いのが咲初めたので、處々を逍遙して、櫻花を研究したり、オナヲサンに日本語か習ふたり道を聞いたりした。この娘は年は十二才で菊水ホテルでわれの附添となッて居るのである。或夜劇場で近世の茶番狂言を見た、巡査と昔風の日本紳十、支那人、英國人とで滑稽を演じた。なかなか可笑しくて面白いが、事が單調に流れて劇的組織を欠いて居る感じがした。此劇は奏樂場も齊唱も其古演劇からの仕來りもないので、日本ではこれを初めて見たのである。
 興福寺の向側に可なり少さな宮があるが、奈良見物の人々は必ずこれに參詣する。庭中に石が積んであツてそれから水が流れて居る。これはサンカチユの母の涙だとしてある。サンカチユは神鹿を殺した爲に自殺したので、母が死骸をこゝに葬ツたものである。日毎に參詣者はこゝの水池で案内者に悲慘な物語を開かされて、賽錢を投ずる。日本では家族的の愛情が強い、親子の愛情や子供同士の愛情が愉快に見える。子供を手荒く打ッたり、こづき廻はしたりする事はない。通路でも子供の泣いて居るのや、喧嘩をして居るのを見た事がない。しかし孝行も過ぎたるは及ばざるに如かずで、我のこの國にあツた時に、殺人事件があツた。種々詮義をすると殺人者の母親が眼病で醫師が處方をしたには人の生膽を食はすれば立處に治するとあるので、孝行の一心に母の眼病を治さうとて自分の妻を殺したのであツた。
 日本美術が日本美術品評者の稱賛を博して居るものは、多くは日本の故實を知ツたものでなければ解することが出來ないが、古代の木彫は西洋美術と仝く殆と通俗である。で屡寫實の最頂點に達したものがある。佛像はそれ相等の由來があり、解剖學も誇大にし表情も不自然で、四肢も隨意の數にする等が、彼等の眞技を損して居るのである。しかし、大名僧等の立像は製作が單簡で品位があるのである。知己の竹内氏は興福寺の重もなる彫刻像を模造してシカゴの博覽會に出品した。其後東京上野の美術博物館に陳列した。古昔の巨匠中では運慶は恐らく有名なものであらう。此の彫刻家は十二世紀の名家で。氏の作品乞食僧は京都の三万三千觀音にある。痩こけた老僧が薄い衣を着けて、左の手に施物を捧げて居る、實にローヂンの作と比肩すべきものである。(つゞく)
 

おもちや一等小林華秋

 アルフレット、パルソン氏は英國現時の水彩畫家なり此紀行は曾て吾國に來朝せし畔の紀念にもと紐育にて出版されしものなり。

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