日本と水彩畫(三)

丸山晩霞マルヤマバンカ(1867-1942) 作者一覧へ

丸山晩霞
『みづゑ』第九
明治39年3月3日

 我が皇室の祖なる大神の鎭座まします伊勢の大廟を奉拜せしとき、我は未だ甞て覺へざる敬畏崇高の念に打たれた。伊太利羅馬法王の宮殿なるバヂカンのサンピートル寺院、又はロンドンなるウエスト、ミンスター寺院、巴里のノートルダム寺院、其の他歐米及び西亞のあらゆる寺院を參拜したが、かばかり深き崇高の念は起らなかつた。其の建築を比較したなら、一は素にして淡白に、一は華麗にして濃厚に、金銀寶玉を鏤め、美を極め麗を盡し、燦爛として人目を眩するばかりである。されども、我が大廟に敬畏崇拜の念を起こせるは、國組大神の遣訓を尊奉する臣民なればなり。大廟の建築は、汚穢を忌み給へし國祖大神が、素淡を主として、清淨、無垢、潔白を表示せられ給ひしに因り、草木に豐富なる日本國なれば、良材中の良質を選み、節なく瘤なく、其の面の滑澤なる檜を用ゐて作り、良茅を選みて屋根となしたる故、至て質素を極む、されど幽玄淡雅にして、燦爛たる装飾を施したるものより麗しくある。日本臣民の性情は、恰も大廟を見るかの如くである。儒教佛教の日本に渡來すると仝時に美術もい這入つたのであるが、日本的といふ一種の特調に感化されて、日本の宗教日本の繪畫として大に振興されたのである。佛教と儒教相和し、美術もこれに和して大に發展し、時勢の變遷と共に多少の盛衰あり、作家の性情又は流派等に因りて多少の節制こそあれ、日本的美術の今日に至る歴史は續て來たのである。明治に至り時勢は西洋畫を學ばしむ、之れ西洋畫にあらずして、流派に差違ある一種の日本畫である。
 日本人の衣食住は如何。温帶なる日本國には四季の別るゝありて、その折りからに替ゆる衣服は、山野草木がその折その折に脱き替へる瀟洒なる衣と等しく、至て淡白である。さらは食は如何に、温帶の口本には甘露の雨の順に至りて、草木爲めに潤ひ、世にも稀なる米産國なるが故に、淡白なる米と菜食を以て滿足して居る。さらば住居は、いふまでもなく瀟洒淡白にして、彫を施した柱より、寧ろ杉の糸柾を好尚するのである。
 日本人は古代より淡白にして、洒落、脱俗、隱逸の風あり。此の如き特質より一種の習慣を馴致せし故、その好尚は他と全然趣味を異にして居る。歐米の文物一度日本に入りしより、長足の進歩をなして、大にその風習に化せられたのであるが、先天的性情即ち、大和魂は拭ひ去る事は出來ない。日本的特質を備へ、秀麗なる風景を愛し、清楚を高雅優美のものとして、他を卑陋醜惡となす意向あり。古來吾が美術家の品題とする處は、多く汚穢を排して清楚を採る、色彩に至りても濃厚を排して淡白温和の色を選む、これ等を好尚する日本人の性情が、尚日本の温和なる氣候の如くにして、新緑滴る初夏の山河の如し。日本畫家の畫題を選むや、古來より風景に尤も多し、果て無き蒼海に颶風の襲ひ來て天をつく激浪や、あるは氷河の激流する嵯峨たる峻嶺等を選まず、柳樹の蔭を流るゝ小河、或は松樹茂れる小丘等である。余は以上の所見により、然して日本に於ける凡ての點より、日本人は水彩畫を好尚するのである事を信す。
 日本の文化が欧米の如く開け、欧米と等しく凡てが化せられたなら、油繪も適應するのであらうが、現日本にありては油繪は到底水彩畫の如く迎ヘられぬであらうと思ふ。
 日本の家屋は木造にして、松、杉、檜、柾、の如き材を川ひ、家作に於て曲線なく、彫刻なく、その装飾に至りても瀟洒にして妙想を現はし、床、違ひ棚は何れの座敷としても備へつけられてある。かゝる淡白なる座敷、或は廓下等を飾る額として、水彩畫は大に滴して美を添ゆるのである。濃厚なる色彩を以て描かれたる油繪の額を飾ると、それのみ際立ちて眼に立ち、美しき座敷もこれが爲に害さるるのである。壁へばはでやかなる色彩にて描た、色の調和をなさぬ畫を見るやうである。又は石古りた青苔の小庭に、赤き牡丹の花を捨た樣である。
 余は去る年歐州に於て、日本人の筆になりし油繪と、歐洲人の筆になりし油繪とを、仝室に飾つてあつたのを見た。そのとき或る日本の畫家があつて、之を批評していふのに、日本人の描た油繪は、凡てが薄ツペらで水彩畫を見る樣で、彼の油繪に比ぶると畫になつて居らぬ、實に恥づ可きであると歎息しておつた。併し余は日本人の描きしといふ畫を見て、大に讃美したのである。凡てが薄き調子で、水彩畫の樣である處が日本人の特調が現はれて居るので難有い、日本人の描た油繪が、彼我の區別も見分けのつかぬのは、吾は决して賞めぬ、寧ろ歎息するのである。薄調でも濃調で何でもよい、日本人の特質が畫の上に現はれたなら、上の上乘たるものであると思ふ。
 何故であるか、兎角に日本の洋畫家で、巴里に留學したもの及び其人達に就て學ぷ青年の洋畫家の多くは、何でも巴里風でなくてはならぬ、巴里では、巴里では、と、一も二も無く賞揚して、巴里巴里を絶呼して居るのが、余には彼等の深意を解する事が出來ぬ。日本の畫家が畫を學ぶ爲め、巴里に留學するは誠に結構の事である。現今繪畫の尤も盛大を極め居る所は巴里である、米人も歐洲各國の人も々こゝに學ぶのである、大に巴里に學ばなくてはならぬ。然しながら、各、國々に於て各々異れる固有の性情あり、その性情は國々の特調となつて、それが畫の上に現はれるのである、畫は巴里に學ぶとも、日本人は矢張り日木人であるから、大に巴里で修養した筆にて、日本の特調を描き現はせば、それにてよいと思ふ。巴里の諸先生の筆に似ぬとも、これ等に懸念するの要はあるまいと思ふ。日本は何れで學ぶとも、日本人の特調さへ描けばそれでよし。如何に苦心しても、困難しても、巴里人ならぬ日本人が、巴里のサロンに出品して、巴里人の描た畫と少しも違はぬといふ畫は必ず出來るものでは無い、著しも巴里人と等しき畫を作る考へなら、日本を捨てゝ巴里人にならなくては無圖かしいのである。日本人が、何を苦んで巴里に醉ふのであるか。大日本帝國民であるといふ事を忘れては、誠に困るのである。余は以上述べたる點より、日本の水彩畫を以て成功する國である事を自覺す、然して余は水彩畫研究の爲め歐米を漫遊し、到る處の畫堂に就て親しく觀察し、又は到る處の風土人情宗教といふ點より、又更に悟る處ありて、自覺の念を高めたのである。歐米に比較した日本國は、水彩畫國であると信ずるのである。迂愚も不顧して聊か所感を述ぶ讀者幸に高見を寄せて余の愚説に訂正を給はらば余にとりては眞に無上の光榮である。(完)

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