寫生の話(水彩畫講習所に於ける講話の大要)

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第十
明治39年4月3日

▽戸外寫生の必要は今更言ふなまたぬ、臨本ばかりに頼ってゐると形式にのみ流れて仕舞ふ、繪を學ぶものは是非變化の多い自然物に對して研究せねばならぬ、寫生の素養がなくては立派な繪を描上る事は出來ぬ。
▽畫をかく人は自然物に對して門外漢の味ふ事の出來ぬ無限の興味を覺ゆるのは幸福といはねばならぬ。この幸福ほ寫生によつて得られる。澤山寫生すると盆々興が深くなる。隨て繪を描く事が面白くなる。
▽さて、寫生にゆくに持つてゆく道具は何であるか、完全にといふと限りがないが、先づ必要なものに繪具箱、鉛筆、護謨、毛筆、筆洗、紙を貼りたる畫板、見取枠位ゐのものである。
▽三脚(腰掛)はなるべく携えた方がよい、古新聞一枚でも間に合ふがそれでは何處へでも腰を下すといふ譯にはゆかぬ。日除傘は通常のものでよい、樹の下や家の陰に三脚な据えれば傘に不用であるが、畫面を日光に晒す事ば禁物である。
▽大きな畫でなくば畫架は不要である。あればそれに越した事はないが、遠力など隨分厄介なものである。一番便利なのは寫生箱である、太陽に面して適度の傾斜に畫面を立れば傘なしで濟む、パレツトを箱の中へ置けば左の手が空いてゐるから傘を持つ事も出來る、雨天の寫生には極めて重寶である。
▽寫生箱はその樣に便利ではあるが、賣品は價が高いから蒟蒻版の空箱か何かで自分で工風して作つたらよい。併し必要品ではない、膝の上て寫生する氣なら無くとも濟む、道具類は風呂敷包にしても叉は畫嚢へ入れてもよい。
▽紙はワットマンが一番よい。上質の畫學紙でもよい。ケントの大判中判、木炭紙も使用に耐える。通常水彩畫紙とよはれてゐる粗い紙は水を含むと脹れて中々乾かず、それに繪の具が紙の目の中に溜つて醜くなるから此紙は用ひぬがよい。
▽紙の大さは半紙半分か一枚位(ワットマン十六切若くは九つ切)が適當である。あまり小さいものでは研究にならず、大き過ては短時間に仕上が出來ぬ。そして紙はピンで止めずになるべく水貼をして貰いたい、水貼の糊は薄いと直ぐ剥れる、軟かい飯粒が一番よい。近頃糊入らず水張枠といふのが出來てゐる、これは便利である。
▽筆洗の水筒がなければロの大きな空壜で間に合はす事が出來る。水は家から入れてゆく方が安全である。
▽いよいよ用意が出來たら次には寫生すべき材料の撰擇である。吾々が寫生に出初めの頃は、たゞ佳い景色をとばかり覗つてゐたゝめ、辨當持參で早朝から出掛けて、こゝは六つかし過るの、あそこは面白くないのと、重い道具を擔いで一日何も描かずに歩行いた事もある。
▽今から思へば愚な事であつた。初學のうちはそのやうにして立派な景色を探して歩行く必要はない、寫すべき材料は何處にでもある。
▽初學の人々に適當な寫生の材料は、形が正しく簡單であつて、濃淡の區別の明瞭な、色の單純なものでなくてはならぬ。
▽森があり、川があり、家のあるといふやうな大きな景色は此要求に當嵌らぬ。井戸端、鳥居、石燈籠、枯木のやうなものが資格を備えてゐる。そのやうなものならわざわざ遠方へゆかずとも、吾家の廻りや近處に澤山轉がつてゐる。
▽簡單な材料を選ぶと共に、寫生の仕方も簡單でなくてはならぬ。あまり形や色を見過ると、複雜になつて徒らに筆數ばかり多く、混雜して却て眞の趣を失ふものである。
▽形は細部を略して、其物を現はすに無くてならぬ線だけでよい。見えるからといふて細かい板の杢目迄もかくには及ぼぬ。家根瓦を一枚々々寫したとて何の効もない。
▽色も勿論大體でよい。細かく觀察すれば道端の石一つでも無數の色が含まれてゐる、其大部分を占めてゐるある色を描けばよい、兩極端をすて、中位の色をとる樣にするのである。
▽影と日向は最も大切なものである、一目何處から光りが來てゐるか判明するやうに描かねばならぬ、初學者の繪の多くは晴れた日の寫生か曇つた日のか判らぬのがある、たまたま日があたつてゐても何處に太陽があるか説明をきかねばわからぬ、それは面白い形や美しい色に全力を注いで、大切な濃淡の調子を忘れるからである。
▽形を正しくし、色を簡單にし、陰陽の區別を明瞭にさせると其繪は自然硬くなる。繪の硬いのは忌むべき事ではあるが、初學者の研究には少しも差支ない、硬い繪を和かくする技巧上の手腕は進歩してゆくうちに自ら發明さるゝものである。
▽目的物が適當なものであつても後景が複雜な場合には、後景は描かぬともよい。勿論後景の色や調子によつて、目的物の上に反射とか比較とか種々の影響はあるが、最初のうちは夫迄深く研究しなくともよい。
▽こゝを旨く描いて友人を驚かしてやらうとは誰しも思ふ事であるが、研究の寫生には野心は大禁物である、假令其繪が眞黒にならうとも、どんなに汚れやうとも、自分の思ふだけ大膽に描き上る方がよい、後生大事に臆病にやつてゐては、何枚寫生しても新しい發見もなく、進歩上達は覺束ない。
▽要するに初學の入々の寫生は、簡單なる材料を簡單に寫せばよいので、形も色も陰陽も正確といふ事を忘れず、忠實に畫面に向へばよいのである。
▽繪は悟るものである。いくら口で話ても文字で書いても充分説明の出來るものではない、隨て聽たり讀んだりした計りでは到底上手になれるものではない、夫故徒らに畫論や書物に拘泥する事なく、何でも澤山寫生して熟練を重ねるに限るのである。
▽性急な人は、石塊一つ畫けぬうちから大きな景色を寫さうとするから失敗するのである、先づ石を畫き、樹を描き、雲といひ、草といひ、建築物といひ、夫々一個々々を研究して、稍描き得るやうになつてから夫等のものゝ含まれたる大景に取かゝれば、曾て研究した材料を總合する丈けで、個々について苦む事なく、一枚の繪を仕上る事が出來るのである。
▽寫生の初歩は以上御話致した通りである、何卒此春風駘蕩の好時節を空ふする事なく、屡々戸外寫生を試みられん事を希望する。

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