スケッチ雜談(上)
石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ
石川欽一郎
『みづゑ』第十
明治39年4月3日
○白い物と黒い物とは畫にかくに一寸六ケ敷い、一躰白と黒とは色で無いとも云へるのみならず、實際に白い物と黒い物とは有るわけでない、只習慣上そう見えるのである、高帽にフロックコート紳士は黒いように見えて、併かも黒くは無い、西洋洗濯屋の物干は白い布が澤山懸けて有るように見えて、其實白い處は少しも無い、澁塗の黒板塀も、少しも黒くは舞く、青空の白雲も、實は白くは無い、其黒いと思ひ白いと見るのは、皆眼に欺かれるので、黒塗の人力車は黒い物と先づ思つて、其考で實物を見ると如何にも黒く見える、雪は白いと思つて、其考へで見ると眞白である、併し實際には黒い物と白い物とは共に存在せぬことを常に心にとめて、其黒いと見えるは或る一種の色である、又白いと見るのも或る色であると云ふことを考へ、之を研究するのは、寫生上大切なることで有りませう
○之れは畫面の小さいスケッチ、假令へばワットマン十六切位の畫では、黒い物はブラックで畫き、白いものは眞白に紙の面を殘して置いた處が、それ程眼にも障らず不自然にも見へない、併し畫面が大きくなるに從つて、かゝるかき方の畫は、彌々盆々其不完全の黙が知れてくる、
○併しながら、之れは獨り黒と白とに限らず、他の色をも共に論じて差支ないので有りますが、寫生に於て、自分の考へで先づ向ふの色を見て、櫻はもゝ色である、水は淺黄である、空は青で、馳面は何の色と、こう推定して實物に向ふ、そうすると、自分の考への爲めに欺かれて、實物の色もそう見えてしまうから、寫生はしても、實は自分の都合次第の色を塗るのですから、之れでは稽古損で、いくら畫いても研究にはなら無い、寫生に大切なることは頭腦から、只習慣上考へて居る色を全く除去して、實物に對することで有ります、
○スケッチに於て又た注意すべきことは、自分は物の色を見て其實物を見ない、と云ふことである、色の關係調子は充分之を見分けねばならないが、其實物まで考へを及ぼす必要はない、黄色の物が向ふに有れば、其色の調子、他の色との關係を充分考究して、繪具を調合する、併し其實物が菜花であろうが、山吹の花であろうが、それを考へる必要は無い、否成るべく實物まで考へずに色のみを見るように習慣を付けるのです、一寸見て、白い花が畠に咲いて居る、アレは大根の花だ、大根の花は白いと云ふように、色と實物と混合して見ると、其色の關係、調子のみを見るに障害となる、スケッチに於て研究すべき處は、一目して向ふの色、其關係、其調子を直しく見ることで、又た之れを直しく畫面に現はすことである、之れが相違なく行はるれば、實物は自然に畫に現はれる、觀者をして充分に實物を思はしめることができる、之れが寫生の寫生たる處であつて、若し想像から畫を畫くと云ふときには、假令へば梅の花を畫うとすれば、先きに梅花と云ふ實物を考へてから色を聯想する、丁度寫生の時と反對の遣方で、勢ひ實物と色とを一處に考へるようになるから、畫くには寫生よりも六ケ敷い上、往々不自然、不充分な畫が出來るのであります、
○スケッチに出掛けるのに、初めは成るべく簡單なサブジェクトも宜い、畠の一隅、枯木一本でも研究になる、併し注意すベきことは、易い畫題で樂に出來上つたスケツチよりも、少し六ケ敷い畫題で終に出來損じた方が研究になる、二枚の成功した畫よりも一枚の失敗した畫の方が自分の爲になると云ふことです、研究とは失敗のことで、又失敗は成功の基である、故に出來損なつたからとて决して落膽すベきでなく、寧ろ賀すべきである、こんな處は六ケ敷い迚も畫けないと退却するのは、まだ研究心の足りないのである、初めから上手な畫をかこうと思つて懸るのは人間違で、如何なる大家でも、成功よりは失敗の畫の方が多い、否、十が十まで自分の氣に入つた畫の出來ることは無い、之れでこそ、益々研究もし、又た自分の不足な點も知れて、上達を心懸けるので有ります、此注意の無い畫家は、即ち天狗樣で、研究心なく、忽ち人後に落ちる、故に幸に好いスケッチが出來たなら、日頃の研究の賜と感謝し、若し又た失敗したら、次ぎのスケッチの成功の基と之亦た感謝して、倦まず撓まず研究するのが、肝要であります、
○粗畫と密畫と云ふことがある、荒く畫いたのを粗畫と云ひ細かく畫いたのを密畫と云ふように心得てゐる人も多い、併し粗密は、畫のかき方に非らずして、内容の如何に有るのです、いくら粗雜にかいて有つても、影日向の關係、遠近の釣合等が充分に調つて居つたら、之れを密畫と云つて差支へ無い、草の葉までが一本々々に細かくかいて有るような畫でも、肝腎の調子釣合等が不完全であつたならば、密畫とは云へないでしよう
○書に楷書行書草書の有る如く、畫にも直面目なのと洒落がきとがあります、殊に水彩でキヨウに面白くかいたのは一寸好いものですが、之れも字と同じく、上手な草書は、充分楷書を心得て、字の崩し方を正しく知つて居てこそ、始めてかけるので、此素養がなけれは、鸚鵡の人眞似も同樣、一寸は眞物のようでも、所謂マヤカシ物で、役に立たない、水彩畫は兎角此鸚鵡流に陷りやすいから、大に注意して、まづ充分に畫の楷書から研究し、之が會得してから、行書草書のかき方に移るようにすれは最早大丈夫、いくらゾンザイなスケッチでも、一點一劃皆法に適ふようになるから、洒落がきでも輕薄に見へず、亂暴がきでも不注意にならない、此點に注意して研究するのが大切であります