越ヶ谷の桃

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鶯
『みづゑ』第十
明治39年4月3日

 桃の名所は遠くは沼津の香貫、下總の押付、青梅の二股尾、近くは六郷河畔など諸所にあれど、花も多く其名も高きは越ヶ谷附近の桃林であらう。
 K、N氏と連立ちて、此桃を寫しにと上野を出發したのは、四月の十二日畫過ぎてからであつた。途中は何處を見ても春色充ち充ちて、たヾ長閑と一言いへばそれで足りる。
 日高き頃目的の地に着いて、大澤の大松屋といふのに投じた。宿の主人の、我等の携えし三脚を見て、奥のお方のお連樣にやと問ふたので、誰れか來てゐる事と思つた。
 導かれて座敷へ通つた。此家は今こそ物古りて美しからざれ、その昔しは本陣とかいふて、お鷹器屋といへるもあり、中々に手廣く奥庭も見るに足りる作りである。
 忽ち隣りの襖を明けて首さし出す人あるに、振返つて見れはT、i氏で、K、M氏も來てゐるといふ。こは面白しと襖とり拂ひて、夫よりは此地の春の樣子やら、畫談、滑稽、夫からそれと夜る更るも知らず語り續けた。
 明れば十三日。空はよく晴れて心地よい朝であつた。急いて宿を出でK、N氏と共に荒川に沿ふて堤を下つた。麗かな春景色、見渡す限り廣々と、一帶に桃林が見えて、丁度紅の霞を布いた樣である。麥の緑、菜の花の黄なる、華やかなる色彩の中を、鼠色した緩き流れは元荒川で、或は浮び或は舞ふ小鴨の幾百、堤の下で靜かに擧げた四ツ手網の中には、銀の幾片水を放れて踴り、折から下り來る荷船の楫の音も長閑に、じつと見てゐると身も心も溶けて仕舞いそうである。
 萠黄色に煙る柳が、僅かになびく程の風がある、甘つたるい菜の花の匂りが、その風に連れて人を醉はしむべく香つてゐる。雲雀、頗白の囀りをきゝつゝ、蝶を追ひ蝶に追はれて行く事一里あまり、吉川村のほとりから古利根川を溯って、増森といふ處で寫生をした。そして宿から貰つて來た握飯もこゝで開いた。菫花、たんぽゝ、鷺草、紫雲英など隙間もなく咲き亂れた若草の上に横はつた時は、恍としてこのまゝ死んでもよいやうな氣がした。
 大松屋へ歸つたのは夕方であつた。稍年老いた女中の、自分の東京者である事を自慢で、殊更に漢語を使ひ、食事の折にも御愉快なとゝ耳うるさくいふので、終に愉快めし愉快婆といふ名も出來て、昨夜に變らず笑ひ興じた。
 十四日、曇。K、N氏と共に昨日の反對の方を元荒川に沿ふて上つて見た。桃林は到る處に在つて、少し小高い處へ上つて見ると殊に美しい。大竹といふ處から川に離れて、桃林に入り寫生をした。春の花で、西洋畫、殊に水彩畫によく調和するのは桃であらう。梅は花が淋しく。殊に白と來ては殆と寫生する氣にならぬ。近ければ花や蕾が離れ離れで描きにくゝ、遠見は陰氣て醜い、それに春も早いため、廻りの景色も沈んだ色許りで、畫き榮がしないのである。櫻は賑でよいけれど、これはあまりに華やかに過て、浮薄になる傾があり、又忠實に寫せば、繪が重くなつて櫻の清楚な感じが出ず、ざつと描いては、奥行も圓味も出來ず、淺薄になる。何れにしても寫生に困難なものである。獨り桃の花は、枝もうるさくなく、花も飛び飛びでなく、色は稍俗ではあるが何處ともなく無邪氣な處があつて、近くとも遠くとも寫生するにさまでの苦しみはない。砂地へ三脚を据えて寫生を始めたら、何處よりともなく子供達が澤山集まつて來た、そして『お叔父さん錢をお呉れと』いふ、『あつちで畫をかいてゐる人は鬚の生えた立派な人だから、あの人からお貰い』と追やれば忽ち返つて來て、『あつちの人は宿屋へ財布を忘れて來たつていふから、お叔父さんに貰ふんだ』といふて傍を離れない。うるさいから捨て置たら、終には惡口いふて去つて仕舞つた。
 K、N氏は用事があるといふて、晝から東京へ歸られた。自分は夫から猶川を溯つて、一二枚のスケツチを作り、宿へ歸つてからはT、i氏と五つ並べをして此夜を過した。
 十五日、曇より雨。今にも降り出しそうな天氣の模樣に、空を仰いて出掛やうか止めやうかと、三人で相談をしてゐると、女中は辨當の竹皮包を持つて來て、大丈夫ですと連りに勸めるので吾々はとうとう追出された。川下で一枚寫生をしたが、そのうち雨が降り出して來たので、急いで宿へ歸つた。今朝大丈夫といふた女中は、よく横目を遣ふ女であるから、今日は横目天氣であらうと皆々笑ひ興じた。
 十六日、晴。空は名殘なく晴れた、獨りで松伏の方面へ出かけた。途中の桃林は今が盛りで、昨日の雨にも寥れず美事である。大利根川の渡しを越して大川戸に出で、そこで一枚寫生をした。少し風は立つたが、無は今酣で、實に長閑な景色である。別路をとつて向畑といふ處で雲を寫した。川の岸に大きな柳がある、秋の柳は是迄幾度か寫して經驗があるが、春は初めで、思ひのほか六づかしいものであつた。大澤近くへ歸つてから更に一枚の寫生をした。多作は望みではないが、四方があまり景色に富んでゐるので、殘して歸るのも惜しく、つひ慾張る事になるのである。
 十七日、曇。畫嚢を肩に出ては見たが、空の樣子は段々わるく、紙を展へる勇氣もなくなり、何だか急に歸京したくなりて、途中から宿へ引返し、勘定もそこそこ停車場へかけつけた。かくて程なく田畑へ着いたが、都の春は早や盛りをや過ぎし、櫻の梢色あせて、雪の如く地に敷く花を踏みつゝも、自分は家路へ急いたのであつた。

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