石神井の池

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鶯
『みづゑ』第十二
明治39年5月3日

 甲武鐵道荻窪停車場で降りて北の方約一里下石神井村といふに大なる池がある。シヤクジ井ノイケと呼ばれて、紅葉に名高き瀧の川の水源で溢れて流るゝ清き水は、初めは幅一間程の石神井川となり、練馬を過ぎ板橋を過ぎ王子を過ぎ春は里の童に摘まれて流さるゝ紫雲英蒲公英、秋は風に誘はれて自ら散りゅく枯葉もみぢ葉を泛べて、終には豐島村のほとりにて隅田川に入るのである。氷川神社の鳥居の前を左に、少しゆきてダラダラと下ると辨天島で、中に小さな堂がある。朽ちたる橋を渡つて北の方を見ると、周圍十町程の池の對岸は眞黒な杉林で、東の小丘は稍大なる松の並木が風情を添えてゐる。水は深く清く、杉の影の暗く映したる上に浮草の葉のところどころ漾える、枯芦茂き中より水禽の鳴音連りに、時には羽搏きにつれて一羽三羽水の面を蹴りて走れる、あるはまた五羽六羽高く飛ぴて間もなく靜に舞ひ下るのもある。更に岸を傳ひて杉林の方へゆき見れば、東南高き丘にある氷川の森は屹として一段の威嚴を添へ、恰も他の景色に對する感がある。此地は往くに稍不便ではあるが、其代り靜かで邪魔するものもないから、志ある人は一度三脚を据えて見給へ。

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