デザインに就て(挿圖參照)

丸山晩霞マルヤマバンカ(1867-1942) 作者一覧へ

丸山晩霞
『みづゑ』第十三 P.4
明治39年6月3日

 デザインとは、圖形、圖案、意匠、工風、組立、等の畫をいふ。これ等の畫は装飾的美術として、他の正しき繪畫と聊か趣きを異にして居る。近來流行する輪廓を太く描くデザインをヌーボーといふ、これは佛語で、英語のニユーアート即ち新式美術といふ義である。洋の東西を問はず、昔からこの畫法があつて、正しき繪畫と柳か相違しておるのは、前者は實物を見た感じを想像して描たもの、後者は寫實を研究し實物にたよりて描きしものである、故に寫實の術の行はれざる古にありては、今日デザイン視するものは繪であつたので、古代のエヂプト、アツシリヤ時代、グリーキの昔、古印度、支那の古代、等の遺物を見ると、全く今日でいふデザインで中々に意匠を凝した名作がある。それ等の多くは何れも神殿佛殿又は宮殿等の裝飾で、其の他土器の模樣等に見らるゝのである。在來の日本畫は、寫實といふものを離れて、寫意といふものに重きを置て描たのであるから、歐米人は日本畫を評して裝飾的美術といふたのは無理のない事である。日本にもその間、自ら二たつに別れて、デザインといふのもあつて、これを模樣畫といふて居つた。この畫の大に發達した時代もあつたので、尾形光琳及びこの派の畫家の描たのは、全然模樣畫である。美妙なる自然に就て巧に工夫し意匠を凝して描き出したのは、實物とは大に相違して居るが、一種麗妙の處があつて氣品も高尚で、日本的趣味が遺憾なく現はれておる。佛國のヌーボー式といふのは、全く日本、の美術が基礎となったとの事である。日本の美術が海を越へた彼の地にありて發展し、新式の美術といふ名稱を附されて日本に歸り、日本では大に之れを迎へて、ハイカラ式とかヌーボー式とかいふて持映され、今は凡てのものに應用されてあるが、日本美術が基礎であるといふ事を多くの人々は知つて居るであらふか。佛國の新式美術であるといふたら、地下の光琳は何といふであろふ。日本人は美術國である丈け、各自に特有の美術思想と技倆が備はつ居るが、模擬といふ術にも至て長じて居る。自分がどこまでも工風したり意匠を凝して、新しき美術を案出しやうといふ觀念が乏しいのは實に遺憾である。在來の模様畫でも古人が意匠を凝した作があると、それを基として自分の工風を聊か加へて自己の作とし、其の作を弟子が模擬し、その弟子か又模擬して作るといふ風があるから、何日も同じことで斬新といふ樣なものは出來なかつた。何故にかゝる風に流れて來たのであるかといへば、それには種々の理由もあらふが、先づ第一に日本畫は寫生に重きを置かぬのが大欠點であらふ。畫を學ぶといふ上よりは、寫生を離れたら畫を描く事が出來ぬ、強て描かんとすれば古畫の模擬より外に道はないのである。
 寫生は新らしき美術を産む母である。寫生は人をして自然に近け、高尚なる自然の趣味も解し得らるゝので造化の奇しき鬼工を師とし手本として、それに就て學べは種々なる新らしき意匠も湧き出で、又は樣々なる工風も出じて、斬新なる圖案が現はれて來る。故にデザインは寫實は離るゝも、自然を離るゝ事は出來ぬ、自然の美妙なる形を觀察して形を作り、調和したる自然の色彩をも採つて、工風に工風を凝せは、未だ世に現はれざる新らしきデザインは、泉の湧き出つる如く、汲んでも汲んでも汲み盡せるものでない。水彩の筆にて自然の一部分を寫生さるゝ力があれば、デザインを作る等は易々たる業である。挿畫は余が自然物より工風せしもの、この圖案を作りしは昨年の初夏、或る高原にて遠山を研究して居ったときで、その附近に咲ける(山あやめ)を平視した處より案出したのである。花は(山あやめ)の平視圖、それに葉を花の外輪に配したるもの、花の紫と葉の緑色は自然の色をそのまゝ着彩したるので、地の色を黄にせしは、初夏の高原なれば、去年の枯草間より混じて、若草の少しく見へるものを、大體に見ると黄色である、これは色の調和の上より面白き故に、黄を配したのである。この圖案は無論名案にあらず、只一例として參考までに掲げたのである。

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