ジヨン、セル、コットマン[一]

青人
『みづゑ』第十三
明治39年6月3日

 『拙者生涯の有樣は身心共に、出精勞力の淵に全く沈淪し居るものに御座候。よし成功の望は無之候にもせよ、あらゆる努力を試み申候得共、得たる處はたゝ氣力を失ひ、益々失望の城に陷るのみに御座候。
 拙者長男も拙者同樣のみぢめなる職業に從事致居候共、これとても御多分には洩れず候て同じく絶望を感じ居申候。一時は渠の力量も頗る有望に有之候ひしが、これも空たのめにて、遂には痿縮し健康も精神をも消失するに到り申し候。
 拙者の愛する妻も撓まず貧困を忍び申候得共、その勞苦の尋常ならざること御察被下度候。拙者子供等もこれをたゞ遣傳とのみ感する譯にも參るまじく候。拙者は夫とし、また父として、妻子の身靈共に幸福ならんことを祈るものに候へ共、其の萬分の一だに得能はざること御憐察被下度候。實に我ながら啻々斷膓の極みに御座候』
 こはコツトマン壯年の頃友人に與へし書簡の斷片なれども、文中言ふが如き深き悶絶もこれが常となりしにはあらで、遂にはこれを回復するに至るの時ありき。コツトマンの高調なる熱血的の性質は極端なる抑壓に堪え得られしものから、容易に幸福の域に立戻ることを得たるなりける。此書簡を認めたる年、即ち一八二九年の後に、晩年微光を認めたらんやうにやゝ成功の端緒を開きぬ。世人も氏の作品に注意はし初めぬ。されど眞の成功、あるは充分なる世の注意を惹かんに未だ遠かりき。コツトマン生涯の歴史は世界の「美しさ」に對して酷く感じ易きものゝ歴史なりき。またこの「美しさ」に感じたることを眼に手に記録する才能を賦與せられたるものゝ歴史なりき。また早熟にして作製に熱心なりしかども、其の作品に依ツて生計を立つることは得出來ざりき。教育的の勞働に益々追はれければ、これが爲に痿縮はせざりしにもせよ、技術を傷ひけることいふ迄もなけん。さればこれが爲に氏か自然の表情を妨げ、空しく壯年の好時期をも過しけるなり。さわれこの勞働を逃れんともせざりしかども、またこれに屈服をもせられざりき。二六時中新しき「美しさ」の發見に從事しつゝ六十才を最後として此世を去るまで病氣とてはなかりしかども、身體甚だ空虚弱なりしとぞ。
 コツトマンが死前六年に、クリステーの競賣にて、氏か傑作中の或物が賣れたりき。氏か水彩畫グレタブリッヂが恐らくは最傑作なるべし。こは英國水彩畫空前の大傑作なりける。これが八シルリングに賣買ありき。一八三四年ノールウイツチの競賣にて氏の油繪すらも五ギニー以上に賣れたるものなかりき。那邊の消息を考ふれば、コツトマンが作品に對する勇氣の程も、思半に過ぎんなり。實に絶對的に饑餓に迫れる苦境も察すべきことにこそ。
 かゝる創作家は其存生中に眞價を知らるゝもの甚だ稀有にして唯後世に知己を求むることに望を屬しつゝあるなりけり、さはれもしも死後に於ても其の眞價を求め得べからずとせば、此世界は實に不幸の地たる也。歳月は作家の眞價を現はすものなれども、時としてこれが遲々たることあり。コツトマンは風景畫家中の人傑の一人なりしかども、其存生中出生地に於てすらも不遇なりき。ラスキンはプロート、ハント、ロブソン、コプレー、ブイルデイング、等を嘆稱措かざりしかど我思ふ處にては遙にこれ以上にあるべきコツトマンを擧げざりき、飜てコツトマンの名は繪畫の市場には相應の聲價ありしかども、これに依て何の得る處もあらざりき、ノールウイツチ派の繪畫を所持するものは何人も問はずして、コツトマンの名を冠する事を憚らざるのみなりける。英國繪畫の競賣及展覽會にはコツトマンの作と稱するもの何時もなかりし例なけれども、甚たしきはコツトマンの作に似もつかぬものすらありけるなり、コツトマンが手づからの作ならざりしものによりて、英名を轟したりといはんには、甚だ酷に聞ゆべし。
 

ジヨンセルコツトマン氏

 數年前國民畫館はコツトマンが死後に王冠を捧けぬ。こは眞實コツトマンの製作なりと解得せしむるの概念を得せしめんが爲に、コツトマンの主要なる代表的の繪畫を陳列しける也。ここに陳列の繪畫はコツトマン自身の立案に係れる者にはあらで、たゞコツトマンの筆意に彷彿たる處あるのみにて、色彩も異れる也。コツトマンが閑をぬすんで實際に手間代をも得ずして作製したる少數油繪の如きは既に世に埋沒し了りて、世にコツトマンの作としある多數の繪畫は多くは眞實のコツトマンの作と、似の點をも見えざる者なれども、たゝこれがコツトマンの作としあるは、畫風の奇拔にして、作者の不明なるが爲のみ。コツトマンが濫作したりしといふ、結果に於ては同事なれども、自ら場合を異にせるものあるなり。氏が作畫は糊口に餘儀なくせられたるものなれば、これ等の作物が、死後榮譽ある結果ならで、苦しみの跡たること論なけん。氏の作物は晩年に到りてやゝ重きと爲せること倫敦に陳列しあるものにても知らるゝなり。早年の作、あるは巧妙なる作は、惟ふに門下生等の模寫用として使用しつゝありて、遂には長き間に紛失し了んぬるなりける。
 さわれ幸にもこの繪書に就いて、他方面に喜ふべき事こそあれ一般世人が輕卒にも、あらぬ繪畫にコツトマンの名を命じたるにも關はらず。中には一二の好事家、繪畫蒐集家のあるありて常にコツトマンの眞價を保ちつゝあるなり。就中ノールウイツチのジヱームス、リーヴ氏の如きノールウイツチ畫家殊にコツトマン研究に一生を供したる人也。氏はコツトマンの子息の友人にて、全力を此の研究に盡し、細心の注意を以て、その作品蒐集に勤めたりければ、これに依りてコツトマン研究の好材料を得たるなりける、色彩畫に於ても墨畫に於ても、何れの時代をも漏らさず。實にリーヴ氏はノールウイツチ畫家の有名なる研究者にて充分なる憑據あり、たまたま誤謬ありしといふも、そは眞正なるものと認定し得べき價値あるものに止まるなり。リーヴ氏か蒐集畫の過半は今は國有財産となりて、ブリチシユミユーゼアムにあり。
 ジョン、セル、コツトマンは可なりの絹商人の長男にて、一七八二年五月十六日にノールウイツチに生れける。氏か嗜好の繪畫に於ける傾向は既に業に兒童の頃に顯はれけるなり。幼時既に畫風を具えて、運筆の技も熟錬なる者ありき。インデイアンインクにて描けるもの、ブリチシ、ミユゼァムに一七五四年の作としあるなり。十二才の時はや成年の人の成すべき想像畫を描きぬ。氏の兩親はノールウイチにて氏の職業に就て議することありければ、畫家を措きて他にあるべきといふにありき。氏はまた小兒ながらに胸に成竹の存するものあり十六歳にして倫敦に遊びぬ。
 繪畫を賣りて糊口の資とするの甚だ難事たるは能く人のいふ處なれども、コツトマンは疑もなく多幸の人なりき。氏は同好の友を得て、友人として畫家として尊敬せられける也。十八歳にしてアカデミーの出品者となんぬ、此數年後の夏期にはウールスサレー、シユロツプシヤイア、ソムマーセツト、リンコルンミヤイア、ヨークシヤイア等へと寫生週遊をなしぬ。殊にヨークシヤイアは氏が氣に入りの地たりし也。冬はアデルフイテレテレースのドクトル、モンローの許にて、ギルチン、ターナー、ヴァルレー、デウイーンの結社にて印刷物を寫し或は繪畫を研究しぬ、
 氏は一七九九年の創立に係るギルチンの寫生倶樂部に入りぬ。會員は冬の夕。各室に集りて、一定の課題にて一色畫の組立を作り合ふにありき。「半人半馬の怪物」等はこゝにての作物の一例なリコツトマンはドクトルモンローの許にありて懇切なる誘導を受けて組織に興味を持つに至り、殆と老師と同化し、遂には一家を爲すに至れるなりける。
 水彩畫會は野心ある青年の團體にて。其の熱心に。勤勉に。大望を抱けるものなりき、ギルチンの繪具を大胆に施して、巧妙なることより、水彩畫が廣く世の注意を惹くに至りぬ。此の時迄水彩畫は二箇の明格なる方法ありき、往時は水彩畫は油繪の初歩として、またスケツチとして、以太利、獨逸、ニーザーランドの畫家に用ゐられつゝありき、デユーレル、ルーベンスヴアンダイク等少數の畫家は水彩畫を自己の慰みに描きしものとて、專らこれに意を用ゐける作品とては更になかりける、かかゝる場合は風景畫に殊に著くして、たゞ畫家の娯樂に筆執るに過きざりき而して如上歴史にて英國にてはゲーンス、ボローを以て創とすべき也。
 併しゲーンスボローと同時にサンビー及び風土記的の畫家の並行して初めけるなり、此の人々は重に彫刻に使用したるものなり、最初は甚だ薄きものにてありしかども。徐々に色彩を強くし大胆に描き來りて、遂には彫刻の下畫を離れて、一箇の繪畫として充分に價値あるものとなりぬ。
 以太利に學び英國に教鞭を執りしアレキサンダー、コーゼンスと子息ジョンロバートは共に新式の方法を案出しぬ。兄のコーゼンスの如きは、今猶存せるクロードの方法を羅馬にて發明したるなりける、弟コーゼンスの如きはターナー、下つてはコンステーブル等のお蔭を蒙れる也。さはれこは近代水彩畫を實際に造出したる氏とギルチン、ターナーも亦共に肩を並ぶべきものたりし事論なし。

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