飛騨の旅[上]

丸山晩霞マルヤマバンカ(1867-1942) 作者一覧へ

丸山晩霞
『みづゑ』第十四
明治39年7月3日

 謹啓、十二月三日御投與の御書面正に受取拜讀仕候、御無事御安着の趣き大慶此事に御座候、且つは豫ての展覽會も頗る御盛况の由、何よりの事と喜び居り申候。御書中信飛旅行の内幕御自白のところ、御氣の毒の様でもあり、可笑くもあり、當時の御風釆を追想して、思はず家内と共に吹き出し申候。初め拙宅を尋ねられ候折り、細君頗る恐怖の體を以て、あはたゞしく、且っ低聲に告げて曰く、只今頭の毛の長き人と今一人の人となんだか鎗の様なるものを背負ひ、丸山でありますが先生は御在宅ですかと申して參りましたが如何致しませうとの事ゆへ、又例の私は何々縣のものでありますが、道中病氣にかゝり難儀を致しますから、何分の御志を仰ぎたいなどの御人物ならんと、直ちに立ち出でたる處、是は又意外にも兩個の青年美術家ならんとは、兎に角餘りに其のいでたちの不思議なりしが爲め、むく犬ならざる近邊の子供等まで、わいわいと囃子たて、あれは何であらう、千金丹賣か兵隊さんか、否々武者修業であらう、など評判とりとりにて、門前に十數人集り居りし事御承知ありしや否や、(晩霞曰く其の當時更に氣が附かざりし、如何となれば、到る處の村々にて小供等の附き來たらざるは、寧ろ不思議位であつた爲めに)尚ほ飛騨方面の旅行を終へ、御歸途御立寄りの時は、時節は七月中旬、最早土用の入りにも近づく折りからの晴天續きにて、暑さに堪へ兼ねて居るにもかゝはらず、如何に信州の山の中とは云へ、綿入の重ね着に綿入の書生羽織、而して例の鎗に盾の如きものを兩人共前後に背負ひたる事なれば、誰が見ても到底眞面目なる人物とは受取られざりし事と存じ候。此の當時旅費も使ひ盡され、一錢五厘許所持され居りしとの事、小生は學校へ出掛に家内に向ひ、書生の旅行なれば旅費も或は不足を告げ居るかも知れぬ故、果して不足を告け居るならば求めに應ずる様申聞け置き候處、歸宅後家内の曰く、今朝旅費の御話し有之候も、先刻御二人にて入湯に參られ、其の節、札が大きくて困るから一寸と湯錢を貸して呉れと申され候へば、別に旅費に御差支も無き様に見受けられますとの事なりしを以て、是は少々怪しいとは思ひ候も、御自宅へ着し候まで位の事には御差支も無き事と、押ても御伺ひ致さず置き候處、御自白によれば最早や其の時は旅費どころではなく、湯錢にも不足を告げ居られ候所にて、大札にて困ると申されしは、一時兩人分の湯錢を得るの計略でありしとの事、滑稽も此に至りて極まれりと申すべきか、暑中間近かの事なれば、如何に美術家なればとて、暑い時には暑いわけにて、綿入の重ね着にては到底堪へ得べくもあらざるを以て、失禮ながら小生が着古したる單衣を御貸し申上候次第に御坐候。
 拙宅御出立の朝、大札御所持の方には別に御入用でもあるまじく、御迷惑と存じ候も草鞋と團飯とを差上候處、其の草鞋と團飯の爲めに餓死もされず、先は御無事に御歸宅相成りしとの事、可笑しくも御氣の毒の事に存じ候。湯錢を得るの計略は雅兄の方寸に出でしか、吉田兄の方寸に出でしかは知らざれども、どちらにしても餘り巧に失し候結果と存ぜられ候。當時御預りの綿入は、直樣洗濯致すべき樣家内に命じ候處、井戸端よりけたゝましき聲を立て、大變です大變です、一寸と來て見て下さいとの事なれば、何事か始りしかと其の場に至り綿入を驗査せしに、扨ても難有や數萬の千手觀音樣が、所嫌はず綿入に附着して在らせらるゝといふ仕末にて、如何とも手のつけ樣もなく、勿體なくも熱湯の中に御流し申し上げ、あとは水にて清め候事に御座候。醫者の不養生占者の身の上知らずとの諺にもれず、美術家も其の名に反して、無頓着不潔ならざるを得ざるものにや、されども御渡米以來は、信飛御旅行當時の有樣は何れにか去りて、大分米國式になられ候事と存候。吉田兄も只今では、勢ひ當時の如く、頭髪も餘り長くはして居られ間敷くと存候、如何にや、其の内歐洲へも御漫遊の由、追々と英國式、伊太利式、御歸朝の頃には、武者修行的式はいつの間にか變じて、歐洲の粹を抜きたるパリースタイルの大ハイカラにて御歸朝の事と存じ居り候。風土の變り候事とて、御身體の御攝養隨分御大切に祈り申候。吉田兄へも御鶴聲願上候、小生は相變らず山中の田舎先生にて消光罷在り候間、乍憚御休神被下度候。敬具
 俊稜拝
 ボストン府にて
  丸山兄坐下
 一
 過ぎし年數ふれば十年前、友なる吉田博氏と打ち連れだちて、山深き信飛の境に、探險的寫生旅行を爲した。この旅行は至て興味深く、吾等は生涯忘るゝ事の出來ぬたのしき紀念の一とつである。吾はこの度、『みづゑ』の紙面を以て、無邪氣なる靑年時代の畫家が、寫生旅行の興味を讀者に頒ち、併せて信飛山中の風景を紹介するのである。吾が信濃なる故鄕は、淺間山南の高原にして、南に展けて雄大の觀望をもつて居る、怒濤に似たる大小の連峯は次第に重り、天に接する南西の連峯は、信飛に跨る乘鞍、燒嶽、硫黄岳、蝶ケ嶽、穗高山、鎗ケ岳、獅子ケ岳で、富岳の雪は融消しても、この諸岳は白皚々たる雪の殘りて、黄に燃える麥畑、扨ては深綠の森や山々を前にして、かくも奇しき雪岳の景を盛夏に望むのである。吾は髫髪の往時より、朝に夕に之れを眺め、一と度は雪岳の邊境に、探險的周遊を試みたく、かゝる念慮をその度毎に滿たした。多年の宿望を果す可き時期到りて、都なる友は突然吾が茅屋を音信れ、これより飛騨の境に、寫生旅行を共にせんことを勸められた、吾は大に喜んでこれに賛し、早速發足することゝなった。期節は丁度初夏の新綠、鶯は老たるも山杜鵑頻りに啼き、卯の花籬に亂ゝるといふ旅行の好期。南に面せる吾が書齋に吉田氏と共に座して、遙に飛驛の連峯を望めば、不斷見馴れた吾が眼にも、今日ばかりは一としほ麗はしく映じて、吾等の行をほゝ笑みて迎ふる樣である。かしまだちの夜は旅装を調ふる爲めに世話しく、更けて眠りに入れど吾が魂は彼方に走りて夢ならず、曙の空に吾等の雙影を動かしつゝ、高原なる吾が鄕を南に向つて發足したのである。
 初夏とはいふものゝ信濃路はまだ寒く、飛騨の雪岳あたりは寒さきびしからんと、人々の注意より、旅装は冬仕度、携帶品は大なる寫生挿、と繪具箱。傘立、三脚、畫架、カンバス、畫紙等は別に袋に入れ、これ等三個の荷物を、左右の肩に掛けたり、背負つたのであるから、異樣の旅裝は人々の視線を集めたのである。
 葉柳や蓮の葉一とつ二たつ浮き
 朝立ちや草鞋の輕き杜若
 二
 山冷を送る朝風を身に吹かせ、子規の聲を耳に充たしつゝ、大屋驛に到りて筑摩川を渡り、依田河畔に沿ふて上れは、新翠滴る桑園は午前の光りを透して鮮けく、桑摘み乙女の歌ふ節を面白く聞きつゝ、長瀨村より依田河を渡りて御嶽堂村に着いた。この村の背後に聳立せる一帶の岩山を突甲山と稱し、又小妙義の名ありて奇景多し。岩井觀音堂はこの山の東端なる中腹にあり、吾等の進み行く左側なればこゝに立寄る。入口の兩側に枝の垂れたる巨櫻樹あり、今は花も散りて淡き綠の飜るは垂柳の如くに見える。古色蒼然たる石段を登れば、岩壁に懸りて堂あり、堂の背後に洞窟あり、洞内は暗黑にして咫尺を辨ぜず、火を點じて入れば冷氣身に覺え、蝙蝠所々に★翔するを見る、内部に進めば狭隘となりて、そこに觀世音が安置してある。爰を出で堂の椽に踞して東方を望むと、佐久小縣の觀望展けて雄大である。脚下の依田川は迂曲して流れ下り、千曲河に合する邊は今過ぎて來たところで、大小の村落は各所に點在し、黄金に見ゆるは麥畑、淡綠は桑畑である。眼に近く千曲川を隔てゝ聳立する山は烏帽子嶽、それより東に走れる蓮峯は廣野ケ峯、三寳ケ峯、湯の丸岳、漸く小にコバルト色を帶びて續けるは籠の塔、赤岩山、黑斑岳、牙山でこの盡る所に聳立して煙を噴けるは淺間山である、かゝる雄大なる自然を眺めつゝ、行厨を開きて午餐を爲す。こゝを發して龍の口村に到る、雙方の山逼りたる山間、溪流に傍ふて點在する村あり、吾等はこの間を進み行くのである。平穏なれど初夏の山村は、農夫皆野に出でゝ耕し、桑摘む乙女の歌は麥刈る老農の節と和し、素僕なる無違慮の鄙言は、四方に起りて賑はしき事である。彼等の聲は自然に近く至て無邪氣である。山里の眞晝は靜かにて、農夫等は皆晝の睡眠に入りて、圍ひ無き家々に平和を歌ふ鷄の撃のみ、神の使は幻の梯子を下りて、この平和なる戸毎を見舞ふのである。初夏の山里を過ると、何日も松蝉の聲を聞くこの音は人を睡魔の境に引き入るゝ樣である。各所に畫架を立て、水彩及び淡彩の寫生を爲し、永き初夏の一日も暮に近き頃、西内村鹿毛湯浴舎に投宿。客舎は高臺にありて眺望無比、浴場は溪谷にあり、迂曲の急坂を下るのである、急坂を下りて浴場に入れば、前は淸き溪流の淸響を湧し淡き若葉は其の上を蔽ひ冠さって居る。靈湯に浴して一日の疲勞を忘れ、浴後の身に若葉の香を送る凉風を浴び、崖に沿ふたる棧道を徐歩すれば、對岸に渉る橋あり、橋は廣くして屋根あり、欄干あり、吾等は欄に寄りて流れを望む、水美しく透明して底を見る可く、溪魚は溌剌として水輪を起す、其の輪の漸く大にして消へ行く岸邊より、淸澄たる河鹿の聲起る、こゝを過ぎて對岸に移れば、巨樹叢を爲して蒼翠滴り、其の間に藥師堂あり、古色掬すべきである。風光明媚、淸遊の地とし、又避暑地として愛す可き勝地である。
 其聲の睡氣さそふや春の蝉
 山里や眞晝を歌ふ春の蝉
 若葉した桑畑所々に歌ひけり
 蝶淡き影を河原にこぼしけり
 流したる家の跡なり牡若
 ふいと出た鳥や若葉にふいと入る
 三
 河鹿の聲に睡りにつき、杜鵑の聲に目醒めてこの宿を立つ。この日風無く平穩の好天氣、流に沿ふて上る路漸く瞼峻、朝の光りを透した若葉の影は淡く路にこぼれて、吾等はこれを踏みつゝ徐ろに攀ると、山は漸く深くなりて、流れは瀑布となり瀨となりて白玉を躍らせ、淸翠に蔽はれたれば、或は隱れ或は現はれて下るのである。杜鵑は頻りに鳴て居る、廓公鳥も鳴て居る山鳩も啼て居る、路傍の草には樣々の花が亂れて居る、山あやめ手折りて帽に挿す、草刈る乙女、牛曳く童に會す。見上れば吾等の行く方に聳立せる山あり、これは三戈嶺で、吾等はこの嶺を越えるのである。數年前までは、北信及び南信に旅する人々は、この嶺を越えるものが多かつたとのことである、今は他方に新道の開けたる爲め、漸く荒びれ果てゝ、路も人家も自然の命ずるまゝ、或は崩れ或は傾むいて居る、かゝる盛衰の跡は需題として趣味深く、もとより急がぬ旅なれば、思ふがまゝ、感ずるまゝ、各所に三脚を据ゑたのである。面白く駒鳥の鳴く森林の道は、雑草生ひ繁り、S字形の急坂を愈々攀づれば、山容樹色漸く凡ならず、風寒く雲霧起り、朦朧として數間の先を辨ずる事が出來ぬ、時々駒鳥の鳴きて、幽邃更に加はり、身は神聖の區域にあるの感が起った。漸く嶺頂に達すれば風寒し、こゝより急坂を下り溪谷に入る、流れあり、流に沿ふて道は迂曲し、左岸右岸に渉りて下れば、溪は展けて麥畑、桑畑を見る、卯の花は路傍に亂れて雪の如く、霧霽れ日輝き、嶺麓三戈山村に到る。山を背後にして流れを前にしたる山村愛すべく、位置を選みて數葉の鉛筆スケッチを爲す。三戈山村より右折し、麥浪の間を辿りて一高丘の頂に出づ、丘山平坦にして芝生あり、南西を望めば、雲霧の間に隱現連續す殘雪の高峯を見る。高丘は一帶の松林にして、下草無く赤土露出して掃けるが如し、こゝを下りて淺間温泉場に至る。更に一里を歩して、松本町に到着舊師望月俊稜氏を訪問す、吾等氏を訪問のとき、未だ余と一面の識なき内室には、吾等二人の奇しき旅裝に接して驚ろけるものゝ如し、折りよく師は在宅にて、吾等を歡迎したのである。打ち解けた後ちに語るを聞けば、吾等を怪しきものと思ひしとの事、初對面の人々には、無理もなき次第である。この夜は樂々と師の家に宿り、別後の状を語り、夜を更して眠りにつく。
 駒鳥鳴くや麓に送る峯の雲
 濡色の若葉そよぐや麓茶屋
 四
 翌日天氣晴、師の家庭より切に滯留を勸められしも、早く目的地に達し度、歸途厄介になる可く約して出發。松本町を出でゝ南に向ふ、島立村より右折して梓河畔に出づ、この邊は廣く展けたる平地にして、堤の楊柳淡く風になびき、蛇籠の中より河鹿の淸音起りて耳を澄ます、散點たる遠近の村々には、幟風に動き鯉魚の飜るを見る、節は丁度陰暦五月初旬、菖蒲葺きて端午の節句を祝ふ時であつた。河原に亂るゝ野荊棘の花の薰りめで度、其の前に三脚据え、この間の感じを寫生して居れば、水車の響きもれ來る森の中には、行々子がうるさく囀つて居る。遠き河原に動く人影は、位置を定め居る吉田君であつた、田の畦の細徑を辿リて、波多村の大通路に出づ。こゝには二三里に渉る大松林ありて、松蝉は睡む氣に歌ふて居る、淸風徐來の間を過ぎて松林區を出づ、右に黑澤大明神の山脈流れ下り、左に鉢盛山の脈迫り來て、こゝより溪谷となる、梓川其の問を流れ、河畔に茅舎散點す、所々に楊柳叢を爲し、適々巨柳樹を見る、左曲右折道は坦、且つ急、安曇村を經て島々村に到着。兩側の山漸く逼り來たる、左方鍋冠山大明神山の諸溪谷より發する河は、一流となりてこゝ梓川に合し、左方鉢盛山の溪谷より出づる黑川もこゝに合し、河の兩岸に斷崖百尺、大石錯峙、人家は兩岸の崖上或は山の麓を廻りて建てられ、何れも河に面して居る。三流合したる梓河は水勢頗る猛激、白を飛ばして流下すれば、巨岩これを支いて茲に淵となり、坦平に渦巻きしつゝ動く水色は、深碧にして無聲、山容水姿凡ならず、蓋し仙寰の門戸、吾等は畫筆てふ鍵もてこの門戸を開らき、目的とする仙境の幕は今ぞ切り落したのである。日はいまだ山高かれど、明日仙寰に入るの前日なれば、この門戸に一泊する事と定め、背後に楊柳の翠を望み、前に斷崖激流を眺むる一旅舎に投宿。
 のたり出た若葉の下や淵の渦
 掛椽や若葉の茶屋に繪師二人
 柳柳蛇籠ならぶや鳴く河鹿
 白衣着た行者若葉に隱れけり
 山里や若葉の中に鶏の聲
 葉柳や流れ木拾ふ梓川
 水車屋を隱す柳や行々子
 五
 激怒して流るゝ溪流の響に障げられ、杜鵑の聲も聞かざるに、曉色微茫、山々は夜の幕を除きて蒼翠滴り、滿眸皆鮮明ならざるはなし、この朝は早くより用意調ひ、草鞋も新らしく、團飯は常より大にしてこの宿を出づ。若葉は朝風に飜り、露繁き路傍の草を踏む心地よく、足も輕く、身も輕く、心も淸く、淨山澄水の間を行けば、路二つに別る、左顧一橋あり、之れを渉りて對岸に到る、村あり橋場といふ、こゝは至て平地少く、茅舎板舎は崖端、或は山の急坂にあり、屋外到る所泉水あり、淸くして底を顯はす、漸く進めば、山容愈々奇にして純綠色を呈す、愈々進めば奇絶妙絶、吾等は恍として仙寰を辿り行くのである。各所に寫生して稻核村に至る、こゝは仙寰の市街ともいふ可きか、煙草屋あり、酒舖あり、豆腐屋あり、こゝを過ぎて路又二たつに別る、左すれば奈川谷を經、野麥嶺を越えて飛騨に入る。左すれば白骨温泉場を經て、平湯嶺を越へ飛騨に入るのである。吾等左折して行く事に决した。吾等は今花崗巖の斷崖千尺の頂に立つて居るのである。下瞰すれば脚下の深谷白玉を散じ、淸翠の間を激怒奔流する梓川を見るこの壯觀に筆を走らせ、道は山の中腹より傾斜に迂曲しつゝ、次第に下りて河畔に出づ、流れに沿ふて怪岩奇石の累々たる嶮道を辿れは、道窮りて絶壁となり、之れにトンネルを穿つ、そこを出づれば棧道を以て臨崖を渉る、更に瞼峻危險なる所は、木板を排列して飛梁を架し、藤蔓數條を以て、梁の端を岩石巨樹に繋ぎて空間に懸れり、之れを渡れば震掉する一奇觀あり。兩岸は巖石峭立して皆花崗岩なり、蔓生植物及び緑苔はその間に卷旋攀緑す、大岩錯磊河中に蟠屈し、水勢猛激奔馬の駛走の如し、岩石に衝撃す、岩と水と激鬪して大雷の如き響を發し、一大白玉を四散するの巨觀壯觀に接し、吾等は奇を叫び妙を絶して、浩々たる造化の活力に今更の如く驚たのである。この間の風物人間のもの無く、吾等も人間を忘却して自然と同化し、筆を走らせて不知其の懷に這入つたのである。進めば進む丈けそれ丈け、風物は千變萬化奇絶壯絶、花崗岩の峭壁は數箇に別れて峭立し、之れを仰望すれば巨柱の天空に聳立する如く、怪奇千態萬状を極む、吾等がかゝる天景に接すると、自分等は人間の境を脱して神になつた樣な考ひに充たされた、而して人間が賞めたゝいる名勝等いふものは、全く凡景俗景である、人境を去ったこの間の風物は、たしかに山靈が吾等に畫題を惠與してくれたのと信じ、都にありて、隅田川や綾瀨又は三河島等の風景を描て、滿足して居る畫家を氣の毒の樣に思ひ、又かゝる畫家を凡畫家として、語るに足らぬ等友と語つた。この當時に於ては、畫題を選むに人間の跋渉した所を選まず、探險的未聞の境を探り、人間の未だ蹈破せざる深山幽谷、又は四邊の寂寥を破る大瀑布、又は草樹欝蓊として盛觀を極むる無人の森林、とかいふ境地にあらざれば、眞の美趣は無きものと信じ、こんな念慮より、吾等はかゝる境土のみ跋渉して居つたから、益々仙骨の觀念は向上して、人間といふ念を脱して居つたのであつた。今考へて見ると、人間として爲す事の出來ぬ事を平氣で爲して居つた、この當時の旅装の怪しいのは、人間としては恥かしくて出來るものでない、寫生を爲すに日掩ひを要せず、雨が降るとも雪が降るとも傘を要さず、衣類を纒ふて居るのが、寧ろ不思議位で、人に接するに人らしき言語を交へず、人を人として見ず、露宿どころか雨の降る夜、山中で立ちあかし、一日位の絶食は平氣のもので、仙食と稱して木の實や草の芽を食した事もある、揃いも揃ふた吾等二人は、人々よりも人間らしくないといはれて居つた。されど人間は人間であるから、恥も知り、空腹になれば矢張り苦しいのである、この日も思ひがけぬ絶景に遭遇したので、寫生に人間を忘れ、終に日が暮れたのである。日が暮れて空腹を覺え、今宵の宿といふ考ひが出でたのであるが、この境よりは何れに出づるも三四里を行かねば、人家には出ないのである。平氣で露宿を爲す譯にもゆかぬから、勇氣を起して夜半大野川といふ山村に辿りつき、宿舎をたゝいて無理に宿を請ふたのである。
 暮てから宿許がり行くや子規
 岩洗ふ波のくだけて鳴く河鹿
 若葉淡き中や隱れた水の音
 水押しに寢た木其のまゝ若葉哉
 ,寢た蝶の若葉を立つや朝日和
 風輕ふ若葉の雫こぼしけり
 六
 大に疲勞して、翌日はすつかり寢込んで、午前十時頃漸く眼を覺まして發足した。大野川は乘鞍岳の麓で、岳は皚々たる雪殘りて、眼の前に近く顯出したのである。今日はこゝより二里といふ、白骨温泉まで行くのであるから、この間の風景をゆるゆる寫生する考へであたつが、途中は只高原で、これといふ風景にも接せず、正午に近き頃、山の半腹より遙に白骨浴場を望み、大森林の中を經て、正午には到着したのである。白骨浴場は乘鞍岳の幽谷にありて、浴舎の建築は何れも巨大にして美しきは、木材の自由なる爲めであらふ。温泉の質は硫氣めりて、不透明の純白色で、乳汁の樣である。一浴して附近へ寫生に出かけた、渓谷を攀ぢて高原に出で、殘雪の乘鞍岳を主にして寫生を爲した。更に高原の細徑を辿りて森林に這入り、五葉(葉大にして五片に分れたる奇しき植物)及び歯朶の森林中に繁茂し、人意を施さぬ樹は自然のまゝに發育し、枝を交へ葉重りて、若葉を透して來たる光りの淡く美しく、時々駒鳥の聲起りて更に趣きを深くし、麓を流るゝ谷川の音も幽かに聞こへる、深山幽林といふ感を以て水彩にて寫生をした。白骨一帶の地は、巨大なる熔巖の集りて、それが積み重りたるものゝ如くなれば、自然に間隙の大なるもの、又は小なるものが各所にありて洞窟を爲してゐる、吾等は仙人遊ぴをなさんと、火を點じてこれ等の洞窟に入る、洞に入れは狹きものあり、廣きものありて、逼きものは五體を伏して蛇行しつゝ進むと、内部は漸く宏濶となり、更に進めば窟は左右に別れ、鐘乳石の沈澱して大なるものは垂下し、又は直上して、二箇合して柱を爲すあり、洞内の岩石は奇怪萬状を極め、愈々進めば遂に他の洞口に出で、こゝより他の洞に入ると、又更に離れたる洞口に出づるといふ如く、甚だ面白き遊ぴであつた。この附近に鬼ヶ城といふ窟のあることを聞き、案内者を賃して、そこをも探つたのである。乘鞍嶽より發する河は、白骨温泉の左側を過ぎて駛走し、流勢激して峽谷の間に奔下し、峽は漸く逼りて、遂に兩峽連續して一帶となる、流は岩石と鬪ひ、噴沫四迸して、岩底に潟ぎて消え隱るゝのである。數丁にして峽谷は再び現はれ、岩壁峭然、吾等がこの頂に立ちて下瞰すると、毛髪悚然として竪つ、忽ち岩底より、水勢の怒噴するを見る、之れ先に隱れたる流の、地下をくゞりて再び顯出したのである。岩壁の頂を攀ぢて渉り行く事數丁にして、人工を凝したる棧道あり、之れを渡り行けば、絶壁を穿鑿した洞窟あり、これが鬼ケ城である、間口十間奥行八間程ありて、鐘乳石の柱三四あり、前は谷川に望みて、遠き山々等見る事が出來る、鬼ケ城と聞て、吾等の好奇心に適合し、如何に面白く、恐る可き所の如く想像されしも、現場に來て見れば、更に恐怖の念も起らず、こゝは凡景として、更に浴客等の到らざるこの附近の洞窟を探り、幽谷を渉りて奇絶を叫んだのである。白骨温泉場を宿として、この附近を逍遙すれば、深山幽谷の趣味至て深く、山水の畫作を爲すには、實に適當の地である、されど吾等の目的の飛騨山中にあれば、二日間滯留してこの境を去つた。浴場の附近に、白骨に似たる岩石累々として散在す、吾は紀念として一箇を持ち去つたのである。
 白骨や湯つぼに蒸した粽餅
 寢て聞かん湯河を前の河鹿哉
 ふき椽や淡き若葉の影辷る
 朝晴れや若葉の匂ふ湯場の宿
 欄干の半ば若葉に隱れけり
 七
 霖雨の期節であるが、晴天が續くので、吾等の爲めにこの上も無き幸福である。されど深山幽谷幽邃神聖の境域にありては、晴天よりも曇天、曇天よりも雲霧に被ふはれた雨天の方が趣味が深いのである。自骨を發した朝の間丈けは、濃霹濛々と漲り亘り、山も溪も見る事が出來ぬ、寂寥たる森林の急坂を攀ぢ上り行けば、朦朧たる霧の中より谷川の音と、駒鳥の聲とを聞くのである。午前九時頃とも思ふ頃、小嶺の頂に達すると、霧は漸く霽れて、吾等は乘鞍岳の中腹に立つて居つたのである。この邊より仰ぎ視れば、白皚々たる雪の連峯が目前に顯出する筈なるも、山々の雲霧はまだ霽れやらぬ爲め、巨觀に接する事が出來ぬ。この日は平湯嶺を越えて、愈々飛騨の境に入るの日であれば、足も輕く心も勇み、密に繁る草間の細徑を辿り、急斜に流れた山腹の傾坂を上り行くと、幾つかの澤あり、澤には淸泉の流れあり、木立の叢をなす邊りには、小笹密に茂りて、林の中森の中には、未だ聞きなれぬ蝉が鳴て居る、その音は濁音の鈴をふる如く、日の光りの直射すると、一時に鳴きたつるのである、この蝉は深山に限りて、初夏の頃鳴くとの事で、木曾山中又は戸隱山中等にも、居るとの事である。幽邃なる森林の裡にありて、この蝉の聲の微かにもれ來たるのを聞くと、何となく寂し味を深くし、山靈の出顯する樂ではあるまいかと思はれるのである。蝉の聲は至て陽なるものと、陰なるものとありて、初夏の頃松林に鳴く松蝉の音は平穩にして、人を睡樂の境に引き入るゝ樣である、このあたりに鳴く(深山蝉)の音は、人をして神の境に引き入るゝ如く感じ、盛夏の入日に鳴く(日ぐらし)の音は寂しくして旅客の腸を斷たしめ、ホームシックの媒ともなるのである。吾は自然に感化されたのであるが、今も尚畫題を選むに、幽邃神來の境とか、又は精粹を極盡したる、野花亂るゝ高原とか、又は水色明媚なる、華麗の山村とかいふものを好尚し、かゝる境土を跋渉すると、色にも形にも造花の活力が顯はれて動く如く、溪流や野鳥の囀る天樂を聞くと、言ふ事の出來ぬ美妙の感慨に充たされるのである。畫の目的は形相の描出にあらず、其の内包の眞趣を顯出するので、山靈水神が髣髴として畫面に現はれ、淙々たる流れも聲あり、鳥や蟲の音の天樂も現はれ、草花の芳香も勾ひを送り、山間の明月も活ける光りを現はし、軟風に飜る若葉も動き、凡て溢れ、轉た聲を發して人を襲ふ如く、山姿水容形相の外に、心的感興を與ふるのである。美感は高尚のものである。美趣味は淸溌なものである。美は人格を高尚ならしむるものである。純潔なる自然の裡にありて、美的趣味の感情を充しても、其妙域に入り、極致に達し、生氣ある畫を作るといふ事は、實に至難の極である。吾等は幾度かかゝる感慨を充たして、森林を出でたのである。滿眸皆綠、光りのこれを透して目もくるめくばかりである、遙かの森に山鳩が啼て居る、山から杜に牡鵑が啼き渉る、背後の森、前の溪谷、そこには駒鳥や鶯が鳴て居る、こゝは樂土である、神の境である。忽ち人語は森の蔭に起る、一老農が若き數人の山娘を引き連れて下り來たるのである、この人々は今朝平湯を發し、信州の製糸場に向ふ工女との事である。頂巓一帶は殘雪の上を踏むので、そこは滑りて危險なり、一度誤りて足踏み滑らすと、身は千尋の谷底に落つるとの事である、これなる杖にたより、注意して通過せよとて、太き自然木の杖を與へられた。實に山中の人々は心切である、吾等の仙骨も情には脆し、幾度か謝して彼等と別れた。森に入りて森を出づる幾回にして、こゝは嶺の頂に近く右方に展けた所に出でたのである。巨觀!!壯觀!!奇絶、壯絶、壯嚴、雄大、欣然拍手して迎へたのである、それは皚々たる白雪に蔽はれた、信飛の境に巍然として聳立せる連岳である、今ぞ雲霧の幕を切り落して、吾等の眼前に顯出したのである、神韻縹緲たる靈山である、俄然疾風至る甚だ寒し。吾は稚子の頃より、朝に夕に遙かの天涯にこの連峯を望み、一と度は彼の連峯の邊りを跋渉せんとの宿望は、今果し得たのである、近づきて之れを仰望すれば、山岳は皆奇怪なる巖石より成り、その巖石の高聳するもの、流れしもの、千態萬状を極めて構造されたる岳は、峯頂鋸齒状をなして續けるもの、又は峻秀孤立したるもの、連續して西北に走り、山の凹める處は一帶の白雪、澤となり溪谷となりて、巓より麓に流れ下れるものは、雪も、其の形状に殘りて、日に燦爛と輝き、華麗といはんか壯嚴といはんか、吾は之れを讃する語を知らず、只崇高の感を充して寫生したのである。日本國を島山とすれば、その山の頂巓は信濃の國である、信濃の國の高き山といへば、飛信に跨るこの邊の連山である、而してこの境土より越中越後の境に渉りて東西十餘里南北二十餘里の間には、一の人家なく、未だ人の踏破せざる幽邃神聖の寰區多く、原人時代をそのまゝ顯出する所あり。吾等はこゝを去り、右に雪岳を望みつゝ、落葉樹の大森林裡に入る、巨木高樹は皆秀でゝ其の時代を知らず、大陽の光りは、八重十重に繁茂せるものを透し來たるため、森林の中は淡暗なり、こゝに入れば小笹も絶し下草も見ず年々歳々落葉して積み重りたる朽葉なれば、之れを踏むと柔軟毛氈の如し。がさがさと朽ち葉を踏み、急坂を攀ぢて上れば、頂は平坦にて、先に會した旅人に注意されしはこの所である。一方は平坦にして一方は急坂なり、急坂の頂を渉りて進むのである。積雪はこゝ急坂より平坦にかけて皚々たり、こゝよりは與へられし杖をたよりて、命がけの進行である、吾等は命がけの準備を爲す爲め暫く休憇をした。然るに今踏み來たりし森林の麓の方より、がさがさとと響かせて、吾等が方に進み來たるものあり、吾等は顔見合はせ、言はず語らずの間に、互に一種の恐れを顔に現はしたのである、吉田氏先づ何んだろふと口を開らく、余も何だろふと答へた。夜行や露宿は平氣にて、人跡絶へたる深山幽邃の境に入り、大古の形象を探らんとする仙骨の吾等が、森林の裡に起るがさがさ位の微響に、顔をしかめて恐怖の色を現はすとは、何といふ意氣地無き臆病仙人であるぞ。音は次第に近づき、吾等を目がけて進み來たるものゝ如し、猛獸??怪物??この音は吾等の膽を奪ふ樣で、毛髪悚然として、がたがたと震ふのである、吾等は又言はず語らす、逃げる用意を爲した、進まんとすれば、これは又何たる不幸の事である、前は命懸けといふ積雪の難路、常さへ注意を要して渉る可きに、心急ぎてこゝを渉らば、足は滑りて千丈の溪底に墮落するのである、踏みとゞまりて猛獸の餌とならんか、逃げて谷に落ちんか、何れにしても一命は吾がものでなし、進退これ谷まるとはかゝるときの事をいふであらふ、音は漸く近く、いも一分時にして猛獸の牙にかけらるゝのである、あらゆる神の名を稱へて救助を祈つたのである。さていよいよ猛獸は吾等の前に現はれ、吾等に飛び附くと思ひの外、之れは又何といふ優しき猛獸である、十四五の小兒が白骨より平湯に使ひするものとの事である。吾等は人界を脱して、自然と同化した神であると自稱した仙骨が、微かな物音に神ならぬ人間の正體を顯し、顔色蒼然毛髪を豎てゝ恐怖したのは、誠に以て見苦しく、意氣地無き次第であつた、二たつと無き一命を漸くの事でとりとめたが十四五歳の山童に對して慚愧の至りである。山童の案内にて積雪の嶮道を恐る恐る渉れば、山童は平地を歩す如く渉りつゝ吾等の方に向ひ、侮蔑した樣な微笑をもらして進みつゝ樹蔭に消え失せた、益々吾等は顔色なく、積雪帶も無事に過ぎて平湯嶺の頂に達したのである。
 垂帷の雪や若葉の山を蔽ふ
 駒鳥鳴くや嶺から見る雪の山
 朝の日や濡た葉蔭に駒鳥の聲
 巓に近き谷や鶯老を啼く
 駒鳥鳴くや昔を捨てぬ峙道
 綿雲の麓に滿ちて駒鳥の聲
 駒鳥鳴くや山の乙女の峠越し
 山神の御苑か峯の躑躅哉
 八
 麓の村々では、菖蒲葺き幟飜し、粽餅備へて端午の節句を祝ふ陰暦五月の初旬、春より初夏に渉る花も散りしきて、汀に咲ける花菖蒲、籬には卯の花亂れ、山杜鵑は滴る若葉の山に鳴くといふ初夏なるも、平湯嶺頂に到れば積雪あり、氣候は頓に一變して、春まだ寒き彌生の樣である。積雪帶を出でゝ、熊笹の中なる平坦の細徑を辿り行けば、山は愈々深く、右方脚下に奇しく美しき山を見る。この邊は岩石多く、雪かと思ひしは山櫻の滿開にて、岩根岩角扨ては木立の間より、色鮮明なる紅の躑躅が咲て居る。里に老へし鶯もこの境では新らしく、亂れし山櫻の間に美音を弄して居る。駒鳥は澄みし音を森林の中より發して、それが遠き音とかはるかはる鳴て居る。空は淡く曇りて風無く、名を知らざる花は路傍に亂れて、`それが芳香を放つのである、その香は至て高尚で、天香ともいふ可く、吾は香をたより小笹を分けて進んだ、香の主はほゝ笑みて吾を迎へた、純白な梅花を連ねた樣な花であつた、之れを手折りて帽に挿す。靑苔滑かな平坦の石上に横臥して、この佳麗なる精粹の靈園を眺めた。鼻に天香を充たし、眼に絶麗なる天色を充たし、耳に絶美の天樂を充たして激賞すれば、身は羽化してこの靈苑を逍遙するのである。暗き森林の中より、淡翠の衣を纒ひ、裳裾を長く曳き、雙手に鈴蘭をかざして出顯したのは茂るの姫、山櫻の木蔭より現はれしは佐保姫。春の女神初夏の女神は漸く現はれ、これ等の女神は袖を連ねて、天樂の調子につれて、この苑内を舞ふのである、絢爛華麗の極致はこゝに現はれた、忽ち俗氣起りて、常春の樂境は夢幻の如く消え去り、吾等が自分に歸れば身は靑苔の上に横臥して居つた、小笹に音たてゝこゝに現はれしは、平湯に越す旅人の群であつた、吾等は今日の道中にありて、多く激感した爲め、心身共に疲勞を覺へて、睡るにあらずさりとて睡らざるにあらず、夢ともうつゝともの間に樂土に遊んだのである、旅人の來たるに目覺めで、愈々嶺を下りて飛騨の境に入るのである。嶺の頂上が信飛の境にて、そこを下るとこれよりは常綠樹の大森林である。檜、樅、栂の巨樹は直上し、これが繁り合ふて空を隱して舍る。その間より微かにもれて來る光りは、晝も尚月夜の感が起る、地面は落葉樹の森林に引替へて、綠苔は隙もなく地を纒ふて、瀟灑を極盡して居る、脚下遙かの谷より水音のもるゝのは、更に幽を加へて、地下にありといふ幽冥境とは、かゝる境より遠くはあるまいと思ふ、漸く下ると、そこは廣濶なる坦平の地にして、更に大なる樹の直上しで居る、濛々、寂寞、沈靜にして微少の物音もせぬのである、これのみならず、森林の中に池沼がある、水は深黒に見へ、近視すれば凄い程澄明して、直上した巨樹は影を倒映して居る、吾はあまりに凄き爲め死水と叫んだ、沼畔に近づきてこの邊を注視すると、水域は狹き處あり廣き處ありて、それが迂曲して長く、更に注視すると、水は溜水にあらず、無聲に流れ居るのである、死水の感は愈々深く、この死水は吾等を引きっける樣にもある、吾等は嶺頂に遊て樂土に遊び、嶺下に於て冥府に迷ふのである、されど地獄の醜惡なる感にあらず、何となく高尚にして壯嚴、幽邃神聖にして山靈の宿り家ではあるまいかと思はれた、崇高の念を以てこの景を迎へたが、寂寞更に深く、何とかしてこゝに音を起さんと欲し、小石を流れに投じたのである、されどその音は吾等を招く聲の如く聞こえ、恐ろしくて急ぎこゝを去つた。平坦の極る所に急坂あり、之れを下れば眼界宏壯、高平川の上流は前に展けて、平湯山村の遙かに散點するを見る、更に下れば濃霧起り、小雨さい降り來たり、濡て平湯の旅舎に到着、
《附言、自然物に直線美と曲線美とあり、曲線美は人に穩軟の感を起さしめ、直線美は壯嚴の感を起さするものである、直線美は巖壁、杉の森林、檜、樅の森林、竹林等の如きもの、吾等がこの旅行に於て、平湯嶺檜の森林、又は梓川の沿岸花崗岩の絶壁に對せしときは、たしかに神々しき感に打たれた》
 雪殘る山をうしろに若葉哉
 駒鳥鳴くや麓は若葉峯は花
 山深き黑き木立ちや駒鳥の聲
 九
 越中の富山市に流れ下る神通川は飛騨より發し、上流なる高平河の溪谷の極盡する處は、信州より嶺を越へて下りし平湯山村である。こゝは深山幽谷の間にして、人の住む可き地にあらざるも、透明無比の温泉湧出する爲に開けたる所ならん、無人の境を跋渉して、風景畫を修養する吾等が理想郷ともいふ可く、甚だ吾等の意に適合せし爲め、こゝに滯留して作畫する事に定めた。戸數十數軒あり、何れも旅宿を業と爲す、もとより山村の事なれば、室も食も美しからず、何れの宿も自炊の外宿泊する事が出來ぬ。人民は旅客の入込む割合に粗朴なり、言語も大古そのまゝと言ひ度程で、人を呼ぶにさん又は樣の尊稱を附せず、親子兄弟を呼ぶに一樣の稱語を以てす、客に向つても年若き男女等は呼び捨てなり、されど禮儀は重んじて、吾等が路傍に寫生を爲して居ると、何人も禮を厚く挨拶を施して過ぐるのである。吾等は翌る日より平湯村を前景として、中景に平湯嶺の裾を現はし、遠景に蝶ゲ岳の殘雪を配したる位置にて、吉田氏も余も同じ位置にて油繪を始む。飛騨に入るまでは連日の好天氣にてありしが、平湯に到着してよりは日々の梅雨のため、少しの霽れ間を見て寫生に出でたのである、日々の降雨なれば四山に雲起り、冥々として晝も暗く、室内も濕潤して心地惡しく、されど前山に雲起り、それが疾く馳せて過る樣等面白く、仰げば高き乘鞍岳の一角も見られ、その殘雪の雲霧の間より隱現するのも興多く、又は雨に濡れて露繁き草を踏み、蒼翠滴る草樹の間を徐ろに辿り、高原川の岸に立つて潔き流れに望めば、白玉を躍らし石に咽び岩に碎けて流れ下る間、河鹿の聲のこれに和すのを聞たときは感更に深かゝつた。出發のときにちらと西空に眺めた新月は次第に太りて、この山村に滿月を見る事に爲つた、日々の降雨なれば月明に接する事は少い、五月雨や或る夜ひそかに松の月、これは如何にも趣味の深い名作である。或る夜の事であつた、入浴して自分等の室に歸り、茗をすゝりてのち、睡樂の境に遊ばんとて、吉田氏先づ便所に行く、氏はけたゝましき聲を放ちて、妙々絶妙と叫んだ、何事の起りしかと椽に出づれば、扨ても妙なり、東の山の端にほゝ笑める月は顔を出だし、夜の空氣に月明を帶びた雲霧は、山の裾を靜かに動て居るのである、妙を絶叫して畫具を持ちだし、月明に筆を走らしてこの間を寫生した。初夏の頃深山に這入ると、杜鵑の屬にて夜鳴く鳥がある、其の聲にて名命したのであらうか、木曾山中にては十一鳥といふ、十一十一と鳴くから命じた名ではあるまいか、日光山に行くと慈悲心鳥といふ、ジヒシンと聞けばこふも聞こゆる。この境にもこの鳥が毎夜鳴くのである、凡て夜鳴く鳥は寂しきもので、この鳥の聲も旅情を深からしむるのである、その鳴くときは谷より谷に移るときか、又は山越えを爲すときで飛びながら鳴くのである、寐て居つてこれを聞くと、最初は微小の聲で、それが漸く近くなり、吾が耳に近き邊を翔り行くときは、しみ渡る樣な聲にて、それがだんだん遠ざかり行きて愈々細くなり、終には消えるのである、この聲を耳にすると、多情の詩人ならぬ人迄も、ホームシツクを起すであらふ。温泉は各所に湧出して透明なり、朝に夕に浴して心身の疲勞を忘るゝのである。殘雪の山に近き山村なれば、暑中も冷風至りて、無論米は出來ぬのである、温泉の下流に田を作り稗を植えて居る、小兒等は稻てふものを知らぬであらふ。平湯より十丁餘り上りて銀山あり、銀の熔場を出づると大瀑布あり、平湯瀑といふ、高さ數干尺、水は奔逸矢の如き勢を以て激下す、一日流れを渉りて瀑下に寫生す、瀑燕群を爲して★翔す、瀑の左側なる巖壁を攀ぢて上る、數十丈の途に至りて、上るも下るも能はざる嶮峻の所に出づ、危險極りなし、漸く草を命の綱とたのみて頂に達し、銀礦を運搬する道に出でた、こゝの眺望可にして、稜々たる峯頂自雪を冠れるを見る。吾は今一の秘め事あり、されど巻頭望月氏の書簡をそのまゝ掲げたれば、今は秘すとも詮なき次第である、讀者よ吾等の不潔を笑ふなかれ、如何となれば吾等は仙骨である、先づ正直に語らんと欲す、山里の旅舎に日を重ね、不潔の夜具に包まりし爲め、半風子は遠慮なく吾等を襲ひて。平湯の宿に日を重ねて以來は益々甚だしく、仙骨とはいふものゝ、今は何共堪へ可くもあらず、種々の工風を廻らしてこれを退治すれども、如何せんあまりに多く、人間の力も仙人の力も及ばず、殆んど其の策を施す道に窮したが終にこゝに妙案を出だした次第である、それは温泉の湧出する中に熱湯を噴出する所あり、その邊は岩石にして、それ等も甚だ熱して、下駄の外渉る事能はず、半風子の附着したる衣類の凡てを纒ふて、人々の寐靜まりし深更に出で、着衣一切を熟湯に投じ、これを引きあげて熱せる岩石の上に置けば、暫くにして乾く、かくして漸く退治を爲したのである。滯留中の主なる事はこれ位である、この間一枚の油繪と數葉の水繪を描寫して十數日を重ね、梅雨霽れて暑に向はんとする候、こゝを去ったのである
 崖に被ふ朝の若葉や宵の雨
 淡く昇る若葉の山の煙り哉
 何鳥か暮て鳴きけり五月雨
 五月雨や乘鞍岳を下る雲
 杜鵑雨に宿とる平湯可那
 杜鵑鳴くや平湯は理想鄕
 湯煙りや平湯の朝の子規
 十
 霖雨霽れて快晴、高原河に沿ふて下る高原あり、白百合の美しく咲きけるを寫生す、(この邊より信州木曾一帶にかけて、淡紫色を帶べる白百合あり、香氣愛すべし)之れを折りて帽に挿す、高原を出づれば畑あり、久しぶりにて風に起る麥浪を見る、最初見しは青麥なりしも次第に下れば次第に黄を帶ぶ、重ゲ根、村上の山村を過ぎ行けば、中侯岳より發する河あり、この頃來の降雨に水まさりて、濁水漫々、渡橋を流失して對岸に渉る事能はず、奔流疾き事矢の如く、里農に道を案内され、河上一里餘りを上り、怪しき危險の橋を渡りて栃尾村に出で、流に沿ふたる山麓を行けば、草樹鬱葱たる問に夏梅の咲き亂れていと美し、急坂を上り森林に入りそこを出で今見、田頃家、笹嶋、寳の諸村を過ぎ、笠ゲ岳より發する河を渡りて長倉村に出で、岩井戸より中山を經て高原川を渡り、對岸に移り、見座村に至る頃は甘暮れたリ、この邊に宿を求むるを得ず、疲勢の足を蓮ばせて本郷村に至り、農家に請ふて一泊を求む、この邊りの風俗は淺青色の(カラサン)と稻する袴襟のものを男女共着して居る。
 雨晴れや流れに浸る花卯の木
 朝雨や卯の花浴びて越す嶺
 十一
 翌日は雨天、こゝを出發して二里といふ船津町に到着、船津は飛騨第三の都會、東京三井氏の鑛坑あり。山を出でた仙骨、先づ第一に煙草を求む、牛氣ではあつたが、久しき仙食に飽きて、柳否大に美味と美しき室に美しき夜具に包まりて寐て見たき慾情起り、煙草舖の女房に、。船津町第一等の旅館は何處ぞと尋ねた、女房は吾等の怪しき旅裝と、怪しき携帶品、且つは吾等の髪長きと日に燒けし赤黑き顔を見て、しかも舶津第一等の旅館を尋ぬるといふのである故、不思議の顔にて、大阪屋なる事を教示した。大に仙骨をふりまき、船津町を活歩して大阪屋に到る、如何にも山中の小都會としては美麗なる旅館である、宿の主人は吾等を何と見しか、普通ならば謝絶すべきに、大に歡迎して快諾したのである、吾等の得意知る可きである、しかも通された室は第一等、愈々以て大得意である、吾等言へけらくこの家の主人公は吾等を見る明を持つて居る、茶も甘し菓子も甘し、湯に入ればこれも新らし、下婢の運び來たる寐卷に着替ゆ、未だ吾等の身に着けし事なき絹織りの大縞、この新衣に着替へ、むくむくとした坐布團の上に、達摩然と座せは、古模樣のある火桶を運ぶ、上等の茶器も据え附けた、凡てが皆上等である。平湯にて描寫した油繪の乾かぬ爲め、これを展きて室に掲げ、今日まで描きし鉛筆水彩畫も展きて、加筆爲したり眺めたり、忽ち八疊の座敷に散亂して、吾等の座す可き餘席もあまさぬのである。下婢が夕餐の膳を運び來たり、この混雜なる態を見て驚き、膳の据ゑ場無きにうろうろして居る、襖を開らけば隣室あり、そこにて夕餐を爲す、久しき間の仙食なれば凡てが皆甘し、餐後町を散歩す、高原河は町の背後を流れ、頃日來の霖雨に出水して瀬の音高く、物凄い樣てあつた。宿に歸れば、食事した室に寢具のべてあり、之れも美し、露宿同樣の山村に宿を重ね、青苔芝生を錦の菌と愛し、雲霧を以て薄絹の垂帷と爲し、深嶺幽谿を金殿玉樓と眺め、人の世を俗と罵倒して、仙骨を自稱した吾等が、美しき室に美食し、美しき茜の中に包まりて、樂々と横臥した心地は、決して惡しくはなかつた、共に寢て語りつゝ、今や睡魔の境に入らんとするとき、吾等の室の襖は展かれた、下婢は枕頭に手をつきて、警察署の部長さんが御用との事である、見れば白服を着けた巡査が、船津警察署の灯燈を點じて、下婢の案内にて吾等の室の入口に立つて居る、如何なる御用かは知らざれど、吾等は大に疲勞してあり、起床も物憂ければ明日來たる可し』、と之れは吉田氏の口より發せられたのである、『急用あればこそ深更に來たのぢや、起んか起んか』之れは巡査の口より發したのである、(吉)『警官よ、余等眞に疲勞して眞に睡むし、人民を保護するは卿等の役なり、願くは僕等を保護して安眠を得さしめよ、而して尚卿等が吾等を怪しきものと嫌疑し、今夜この宿を逃亡爲すの恐れもあらば、この宿の出口々に張番を附されたし、余等は人間以上神と等しき仙骨なり』『然り然り』と余は合槌を入れたのである、何といふ警官を侮辱した語であらう、巡査は立腹した、之れは無理も無き事である、終に起床することに爲つた、警官の質問に一々答えた、平湯の油繪を見て平湯で無きとの事である、油繪を初めて眼にする人には、之れも無理のなき次第である、之れを心切に素人の了解する樣に解釋を爲すべきであるが、血氣に揣る靑年、しかも仙骨を自稱する吾等が、何として平穩の説明を施す可きぞ。(平湯の景でなしとは近頃奇怪千萬である、尤も、吾等に怪しき嫌疑をかけ深更人々の安眠を害して迄訊問さるゝ凡眼には、山紫水明を友と爲し、清雅瀟灑の間を逍遙し、蒼翠潤澤の美を嘆賞爲す、嘯風弄月の高士、詩人、畫家の世にある事も知らざるべし、汝等の如く日々凡俗に接し、物質的名譽利達の外を知らざる陋劣の眼には、如何で吾等の筆に成りし神韻縹緲たる靈畫を解さる可きや、吾等は平湯にあり、山姿水容の形相を借りて之れに理想の極致を以て、内包の眞趣精粹を寫出して現はれしもの、寫眞、又は地圖と同視し、物質的の見地を以て平湯にあらずと申されしは、流石に汝の凡俗を現はしたる名語である』何といふ高慢無禮の説明であらう、流石に巡査は吾竿より年長の兄丈けに、吾等の决して怪しきものにあらざる事を認め、こゝを去つたのである。讀者よ、十年前の吾等が人格を遺憾なく遠慮なく書き現はしたのである、十年の星霜は吾等に誠の人道も教へ、誠の美術家の何物たるかも教へたので、今は仙骨も叫ばず、平穩なる普通の家庭を作り、そこに眞面目の觀念を充たして、斯道の研究を爲して居る、十年前の凡てを考ふれば、今は只苦笑をもらすのみである。船津を出で高原川を下り、宮川の溪谷を上りて高山に出で、野菱嶺を越して奈川の谷に出で、再び松本に出で、保福寺嶺を越えて歸郷した、其の間の紀行は自分には面白く、又至て長し、紙數に限りあればこゝにて筆を止め、不日改めて稿を繼ぐであらう。

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