ジヨン、セル、コットマン[二]

青人
『みづゑ』第十五
明治39年8月3日

 ギルチンは一八〇二年二十七才にて此世を去りぬ。氏の死は實は風景畫の多數の傑作を失ひしにも類似ふべきものなりき。實に氏の作物に終りを告げたるのみならず、從來維持し來りたる勢力をも失ひ了りたるなりける。僅に門生の筆を遣るものも、信用も神來の興味も失せて畫風日々衰頽に陷り了んぬるなり。事情種々に齟齬し來りて、水彩畫にては糊口すること出來得べからずなりぬ。ターナーの如きも教を受くるもの、少くなりもて行きければ多くは畫家が水彩畫法を捨つるに到れり。ターナーは賢にして、生活の資としては、油繪を描きぬ。さわれ自らは油繪よりも水彩畫を好むものから、娯樂の爲めに水彩畫を描續けつゝありき。ギルチンも亦此の轍を踏みしゝ覺しき也。
 コツトマンは肖像畫研究を了へて後、他の畫家同樣繪書の教授に從事しぬ。それより倫敦の畫會を去りてノールウイチに居を卜しぬ。其の後氏が生涯は自己の嗜好に適したるものながら、勞力強ちなる仕事を續けゝる也。この初年の頃は完成の畫中に佳作の少かりしかとも、自己の感興の送り出でたる研究畫や組立また利益を離れたるもの、心を籠めたるもの等優雅なる氏が晩年に異彩を放ちける也。
 ノールウイツチに於ける氏が生活は一八〇六年に創まりしものならで、倫敦にある數年前よりこの望はありける也。この數年問に氏は實にこの成熟の域に達したる也。
 さてこゝに氏が初期の實作を檢せんに、初期の作は先づ一七九八年のバヅツオーター、イン、エ、パーク也。これを描けるときコツトマンは實に十六才なりき。此の彩色法は殆どギルチンに近かけれど、描法は極端に明格也。かの柵上の光線の波動の如き、暗き中間に消滅し行く處はコツトマンが殊に好んで描きたるもの也。エ、シヤドード、ストリームに描ける樹の幹を比べ見よ。樹々の間に來る強き光線が絲の如くに漸滅して行く也.コツトマンがこの畫の目的は樹の幹を描くにありき。この樹は丸みなく殆ど偏平なる也。此の時代の繪畫は陰陽、モデルに關せず、物を調和よく配色するてふ傾向にてありしなるべし。支那及日本畫は投影を描かず、モデルを充分に寫生することより、大體を寫すにある也。
 絹、紙、に描ける、清き染★あるは豊富なる、塗抹は實に鮮也。完全なる寫實をせんとには繪具の汚濁となり、復雜にならざるべからざれども日本及支那畫の概念は全くこれと反對なる也。かゝる畫法は欧洲に於ては背理といふ也。風景書に於てすらも、彩色及強きチヨークを用ゐ、またペンの輪廓を用ゆることは往々好果を來すものなれども、コツトマンが特殊の目的に對しては、支那及日本の繪具使用法は良く適合したるもの也。明晦法に關して大膽なることは實に驚くべきものあり。氏は空中に樹立したる樹木等は或緑色を一筆に描きて、幹その他のものも皆偏平也。繁れる杜の幹の光部等は偏平なる暗黒の背景に白く殘し置けるのみ。
 コツトマンが絶對的に孤立の姿ならざりしならば、かの日本畫の再現の如き畫風に突進して、歐人を驚喜せしめたること疑もなけん。同時代の畫家が理論に於ても實際に於ても此主義を賛成するもりなかりしのみならで、總ての事に氏に゜封しける也。この高尚なる獨歩の省略的の見方が氏一人にて終を告げたりき。氏も亦當時の勢力ある傾向には不本意ながらも從はざるを得ざりき。この傾向とは科學の方面にて自然界の量(Quality ofNature)を寫眞することゝて、所謂光線に關する新發見等なり。この方法に依つて天空の調子を高く描くやうなりもて行きぬ。展覧會等に出品するものゝ競ふて調子を高く高くと描くやうになりぬ。隨て調子の低き繪畫は自然に蹴落さるゝやうなんぬ。コツトマンも初期時代の柔和かなる調子及單調なる灰白色を棄つるに到りぬ。隨て藍色の影、琥珀色の光の反對に氏の看察が徐々に消滅し行きぬ。かくして晩年の作中に彩色にも美なる作物もありしかども、概して單色畫に見るべきものありしなりける。
 

 再び初期の繪畫に反りて、氏の描法は大膽なれども、曾て失敗したることなかりき。今日日本畫を模擬したるが如き失態はあらざりき。日本畫通有のものにてコツトマンにも見る一事は、色彩の調和を保ち、これを増加するがために、灰白色の價値(Valul)を激賞するものなりき。例之ばゼ、スクーン、イン、ノールウイツチ、キヤセドラルを見よ。重に色彩の調和の美なること。印象明瞭たるなり。
 ダンコン、パークを見ば別世界に入れる感あり。これコツトマンが繪畫中優等の一にして、實に作品の雅致ある處、立案の妙、概念の美と相待つて好果を成せるなり。幽寂なる春の杜、その清浄にして溢るゝ思あらしむるなり。藍色に灰白色を點じたる處、人をして宛ら梢を見るが如き、美しき感興を起さしむるなりけり。
 グレターブリツヂの遠隔の部分の如き同法なり。實に崇嚴の感甚だ深し。此繪の最明白なる美虚は色彩の美なり。最愛すべき色調は灰白色のそれにて、其の布置の沈着にあるなり。單に色彩の設計としては、人をして至高の快感を起さしむるなり。こは各色彩の質が配合の調和を得たるものもあればなり。かくの如く色彩を想像的に使用すれども(コツトマンがこれを爲すは奇を好むにはあらず》空氣の如き極端なる寫眞たるなり。蒼空には冷き光ありて、猶空氣には濕氣あり、地平線上には白色の一列の雲は明瞭なる輪廓あり、淺水には鋭き光線の反射あり、水邊には岩小石等種々の色彩にて濡れて、生き生きと描きあるなり。此の色調、空氣の事に於ける腹案は建築の一部の如くに出來居るなり。此の單一なるアーチ形のものを中心に置くは氏が發明にかゝるものなるべく、こゝには橋を中心とし、空、杜、丘等にて取巻き、自ら音律を爲せるなり。これに依て遠近の差別を明にしあるなり。グレタ、ブリツヂを描けるはコツトマンが實に二十三歳の時なり。こは一八〇六年アカデミーに陳列しけるものなり。氏が傑作としあるゼ、スコツチマンス、ストーン、アン、ゼ、グレタは同年の作たるらし。かのターナー等が狂瀾怒濤を描くに種々の工夫を凝らして、未だ半だをも盡さゞるうちに、コツトマンは淡墨の一と刷毛を用ゐてこれを顯はす。實に下塗等を用ゐずして、奔流の勢を示すなりける。
 單色畫オーターフオールは此の年の作製にかゝるものにて、今猶リーヴ氏の有たり。同畫題の油繪は組立を増減したるものあれども、こは思ふに數年後の作たるべし。これにも亦單一なるアーチを作れり。橢圓形の換りに垂直なうものを描けり。大瀑布を眞逆に落して、後に山を描きけるなり。此の組立が種々に形を換えて描けるものあり。殊にハイトアンドデツプスと題して描けるものあり。
 リーヴ氏の畫中に想像的の建築にて方形なるものあり。コツトマンはこれを好んで畫中に描きぬ。英國博物館にある創始時代の作物パストラルシーンより、晩年の作と稱するチエチユー、イン、ノルマンデーに到るまで通じてこれあるなり。森の和き雲の如き塊、垂れたる羽の如き處の直線と角との對照、細長き幹の女性的の雅致等がコツトマンの好んで組立中に入るゝ内の一なのける。
 かゝる趣向はコツトマンが幼時ノールウイツチの城廓の方形なるものを見たるを、青年に至つての聯想に依るものなるべし。コツトマンが水彩畫の畫題撰擇の方法は、一團の杜の豊冨にして怪奇なるにありき。この感じは初期及やゝ晩年に至るまての作中に勢力を占めつゝあり。この一團の杜の高尚にして品位ある事、又觀念の詩的なる事はコツトマンの作品中に最美觀を添ゆるものたり。この自然界に對する特殊の魔力は實に空前にて僅にクロードの或る作品に見るのみ。
 やゝ初期の繪畫にてキセスルエデンデール、タルハム(一八〇三年が一八〇四年の作)の如き前者と同調異曲たり。人間の存在及勞働等の暗示がこの繪畫にもほの見えたり。かゝる暗示は晩年の作ブリーキング、ゼ、クロード等に充分現はれ居るなり。こゝに到りてコツトマンは技術の最頂點に達しぬ。デユーエー、イーヴの如き感じの深遠に崇嚴なれども、點綴人物の勞働者の馬を曳ける處、朝の閑寂なる有樣を現はしければ、これが爲に畫が光彩を放てるなり。若し夫れミレーをしてコツトマン以前に生れしめば、かの詩的なる主題に先鞭を着けたるべく、人物畫家たるミレーは田圍に於ける勞働の高潔なるを題しぬ。風景畫家たるコツトマンは多く田園の風物より素朴なる美を寫したるなり
 一八〇六年ノールウイツチに居往の以前には水彩畫の作はなかりき。油繪の初めはサウスゲート、ヤーマウスなるべし。こはアーサーサムエル氏の有にして一八一〇年と日附あり。この組立はエツチングの同題目のと仝一なり。粗末なるものにても筆力雄健に、色彩の沈静と重鎭あれども、これが爲に色彩は朦朧たらざるなり。高尚にして力ある、單一なる構想を離れて、此繪畫の重なる美點は秋景の色調の艶澤と調和と、明瞭にして温和なる空氣に存するなり。これより後氏か手法の變化は水彩畫に於て殊に著しかり。此の變化は徐々により強き最も生々したる色彩を益々使用するやうになりもて行きけるなり。一八〇八年或は一八〇九年の作といふトレンサムの如き殊に一八一〇年の作のドレーニングミル、マウスホールド、二ースの如き變化の度を増したるものにて、一八〇七年作のトウイツクンハムの快活なるに比して、色彩の深さと暖さとを増しつゝあるなり。英國畫館にあるデイスマステツドブリツグは例外なり。色彩は殊に美ならざるにあらねど、運筆の輕快に又精確なるなり。此の畫の作製後ヤーマウスに居を卜して日常海岸の風物に接しぬ。此の故はノールウイツチの風景に飽けるなるべし、氏は一八〇九年に結婚しぬ。繪畫教授も報酬案外に少かりき。ヤーマウスの好古家ダウソン、ターナーの勸誘にて、こゝに引移りしかども、ノールウイツチとの關係は絶たで、折々は門生をも訪れけるなり。
 

二十五回一等菖蒲

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