御嶽山の一夜

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凡水寛水
『みづゑ』第十五
明治39年8月3日

 繪箱が彼方此方の隅に押やられて湯上りの六人が行儀能くチヤブ台を圍んでゐる、暫く守られてゐた沈黙が先つ寛水君の「腹が減つた實に堪らない」に依つて破られた、「實際減つた晝飯を殆んと食はないのだから」と大下先生が和すると比較的活氣のある珠郎君が天井に釣下つてゐるアセチリン瓦斯の笠を見つめながら「確かに減つたですなあ」とやると巨い腹を突出して四丁君が「それでも君は途中で饅頭を五ッ食つたではないか」と素破抜く忽ち四面から「さうださうですね」なぞの聲が起る、と「私が五ソ食つたのは事實です然し腹が減つたのも事實です」と濟したものであるまるで仙人のやうな面である、
 貧乏山の中腹、小廣な芝生のある二股道に今日の村芝居を當て込みの露店か、雑林を楯に父子の饅頭屋がある、是なり是なりと飛ひ込んで甘いは喰ふは忽ち一皿平らげた、何處やらかて鳴く鶏の音を聞き光琳風の山を詠めながら頬張るのだもの饅頭の五ツや六ツ何なるものか・・・・、
 

二十五回一等雨

 ふと見るとチヤプ塁の片隅に菓子盆があつてたつた一つマシマロが入つてゐる、「そんなに減つたら是でも喰べたらよいでせうと惡口を叩いて見たら「處が寛水君には夫れが喰へないですシヤボン臭いからでせうバンカラも此位になると愛嬌です」なぞと惡口の上には上があるものだ、流石の寛水君も赤い顔をしたが何も云はなかつた、菓子は僕が喰つて仕舞つた。
 そこへ須崎俊治君の父上が來られて、各々に挨拶が終つて觀兵式紀念端書の乙種を懐から出したと思ふと軈て「此鎧甲は此山に寶物となつて居りまする夫れが雛形となつて居りますので」と説明が初まる、處へお膳が出て來る此山中としては珍らしい鮪の刺身がある珍らしくない生椎茸のおつゆがある、須崎さんは自分は飲まぬくせに勸めるのがなかなか甘いい然し大下先生には一杯も飲ます事が出來ずに好い頃歸つて行つた、突然寛水君が又腹が減つたと云ひ出した此度は目が廻ると云ふのが付加へられてある尚早く飯が喰ひたいと云ふ、全く目が廻りそうな顔であるシヤボン臭い菓子は喰べなかつたがお酒は飲んだんだもの、
 風呂へ這入たら血色の褪せた爺父二人、貴方達は夕飯はまだですかと聞く、チヽそれよ我意を得たりと謂つべしこゝにも空腹の味方あるかと、何しろ日は永し道中は難ですからなと云ば、ナーに我しらあ晝飯は三時頃麓でやりましたけれどと、こゝな天保親爺よくも吐かし居つたりと着物しつ抱へて二楷へ上つた、飯の前に酒と云ふ難役が扣へて居る、鳴呼世にも憐れなは空腹である今宵初めて吾が頬肉痩するを覺へたり。
 四丁君が「飯には未た早いねい君」と僕の方に目の球を寄せたから勿論ですと答へたら「まあお引なさい」と僕の盃をいつぱいにして呉れた、「飲む者は飲むとして飯にしよう」と飯酒七分三分の珠郎君が云ひ出す目の廻る寛水君が無論賛成する何方でもよい野村君も私も飯に致しませうなんと弱い音を吹く、黙して天下の形勢を見てゐる大下先生が飯黨なのは云ふ迄もない、茲に至つて人數に於て酒黨は二分の一であるが實に反比例である、四丁君は其大なる身に浸み渡る迄僕は此細き躰が四丁君程脹れる迄と飲んだ。
 人は四丁君を札幌ビールだと云ふけれど五臓圓の廣告畫こそ責に本家本元なのである凡水君は時事の木戸郎の身振宜しくあつて、さて舌なめづり目を細くし一段聲を顰めて君まだ酒はあるかと聞く、一寸徳利を振つて見ていやまだ中々あるよと相見てにつこり将もなく興する態は丸で小供のようだ、げに羨やましきは酒呑みの夫れ。
 飯黨が飯を貰ふべく女中を呼んだら酒の注文とても思つたのか徳利を持つて女中が現れた、飯黨は魂消けてゐる好い氣味だ我黨は萬歳である早速祝盃を擧げた、だうでもよいと思つたが同行の諠み女中に飯を持って來て下さいと飯黨の云はぬ内に僕が云ふたら大下先生苦笑して居られた、處が容易に來ない、我徳利は甚だ輕くなりた頃まだ飯が來ない、再び女中を呼んだ時漸くお鉢が廻つて來て飯黨は愁眉を開いた、サア我黨も健康を祝してと注いで見たら兩方の盃を滿すのに酒が足りない仕方がないからあるつもりでやつた、飯黨は笑つてゐる、之を見た女中は氣の毒とても思つたか早速新なる徳利を運んで呉れた。
 慧なる女中も時に取つては氣がきかん。
 健康の祝し直しをやつてお引きなさいを何度もやつた後飯の箸を取上げたら「イヤに酒黨を振廻すから飯は喰はぬかと思った、ら隨分行きますね」なんて皮肉な事を腹の出來た飯黨が云ふてゐた、軈てお膳がお床に變つて明日の希望を天窓に畫きつゝ皆眠に落ちた、枕頭には大入道の影程ある大藥鑵が番してゐる、
 ネー君醉覺の水飲みたさに酒呑む人さへあるぢや那いかとは愈々以て我腹引水的だ、枕元の水引寄せてはがぶがぶ飲む、アヽやつては堪るまいといらざる人の疝氣を頭痛に病みつゝ自分もいつか夢に入る。
 御嶽の御祈祷鳥叫んで曰く、ネー凡水君、何も胃癌になる夢を見るまで飲まなくともよいではないか。四丁さんあまりたんとめしあがるとつーちやんが氣をもみますよ

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