飛騨の旅[下]

丸山晩霞マルヤマバンカ(1867-1942) 作者一覧へ

丸山晩霞
『みづゑ』第十六
明治39年9月3日

 船津町旅館大坂屋に投宿せし翌日は、野津將軍のこの町を通過して、高山町に行くとの事にて、吾等の宿泊せし旅館は休憩所に宛てられ、しかも吾等が占領せし室に、御休憩遊ばさるゝとの事で、宿の主は手を揉み腰を屈めつゝ、恐る恐る吾等の室に入り來たりて、右の趣きを述べ、一時階下の室に立退きくれとの事である。流石の吾等も、この道理ある請ひには快諾して、階下の室に引移つた。この室も上等にて、植込みある裏庭を前にして、眺望はあらざるも奥床しき室である。歡迎の人々は漸く集る、郡長、町長、警察署長、町會議員、といふ様な人々であつた。吾等のこの地に入りし昨日以來、尚昨夜の出來事は、誰いふとなく船津町に傅播して、一の奇しき評判となったので、こゝに集まりし人々は、將軍の來津までには、未だ時間もあり無聊ではあり、旁々評判高き吾等の奇しき仙骨の姿、且つは妙靈なる畫も見たしとの事で、彼等は申合せ、宿の主人の紹介にて刺を通じて面會を請はれたのである。昨夜の部長さんのけんまくに引替へ、大に禮を盡されたのである故、吾等は快諾して面會を許し、靈畫を見せたり物語り等して、吾等の大見識及び大氣焔を、遠慮なく正面から浴びせかけたのである。何といふ無禮の待遇である。將軍は來たり將軍は去りて、吾等は又二階なる美しき室に歸つた、ときは午後である。この日は朝より曇りて、降りみ降らずみの小雨降りけるが、午後二時頃よりは、空は灰色に曇りて、瀧なす大雨降り來たり、雨戸をしめるといふ混雑、雨は倍々強烈の勢ひにて激降し、黑暗々たる室にありて、この凄絶なる音を聞くのみである。この夜は兎に角安眠して、翌朝になると、昨日以來の降雨は、其の勢ひを減ぜぬのである。午前十時頃俄に明るくなり、雨も小降りとなつたのであるから、出發することに定めた。一夜宿泊の考ひであつたが、日頃の疲勞と雨の爲めに、二日の滯留を重ね、仙食に痩せた腹も美食に大つた、如何に美しき室にても、美食安坐に二日を送つたのであるが、自然厭ふ氣の湧き出でゝ、今は又鶯ならねど谷渡りの興も忍ばれ、山紫水明の境が懐かしく、綠の中の駒鳥も久しく聞かぬ、かく思ひ浮べると、一時もこゝに居る事が苦しくなる、船津を去らん、船津を去らんと决した。空の明るくなりて小雨となりしは束の間である、又々曇りは前に倍して、降りしきる大雨は、天の河の溢れ出でしにはあるまいかと思はるゝ程である、この激雨では、如何に仙骨でも出發は出來まじ、室内は暗くして畫の手入も出來ぬ、時に觸ての感興を文字にする事も出來ぬ、運動せざれは如何に美食なればとて、决して甘き筈はない、去らん、去らん、船津町を去らんと、又云ひ出した。激雨を浴びつゝ山村を過ぎ、溪谷の細徑を辿り、又たは高原を逍遙して、草木の雫を浴び、時に黑雲の裡に入るのも興多し。二人の仙骨はこの宿を出發すべく、手を打ち鳴らして出發する事を告げた。主人は止めた、如何なる急用かは知らざれど、この大雨に出發するとは如何にも心強し、高原河畔の峽谿は、山は崩れ谷は落ち崕は欠壊し易く、少しの降雨にても危險なるに、この強雨に際しては大危險である、無理にも御止め申すとの事、女房も下碑も一樣に言葉を盡して止めるのである、この情こもれる語には、如何に仙骨にても躇躊せざるを得ぬのである。又も降り出だせし強烈の雨は、盆を覆へす如く、折りから町の北部を流るゝ高原河は、物凄き響を起し、激怒して流るゝ音が聞へる、洪水、山崩れ、落橋、町に水が押し出した、家が流るゝ、これは人々の叫び聲である。町中は大混雜か極めた。午後に至りて雨は小降りになつた、されど高原河の激流は凄然たる音である。好奇心に富む吾等は見物に出かけた。河畔に近づくは危險なれば、町の高丘より見下した、エンデアンレツト、にランプブラツク、を混じた樣な濁水は、小丘の如き波を起し、激怒して流るゝ樣は、如何にも荒凉凛慄であつた、これのみならず大石の流るゝ音は河底に起りて、百千の大砲を連發する如く響き、何共明らざるものは、浮きつ沈みっ流れ下り、河筋は一帶に長く水煙が立つて居る、この間の顯象を鉛筆にてスヶツチし、宿に歸れば點燈の頃であつた。
 水には絶大の活力ありて、風景の大部は流水の浸蝕した跡である。如何に堅固なる火山巖の嶮山でも、水の活力には深き谿を穿ち、斷崖絶壁を作り、平原にありては、廣潤なる河原を作り、桑田變じて海となるも水の活力である。今一葉の地圖を展らきて、其の示す所を見れば、平地あり、山あり、山は脈を成して他の脈に合し、其の脈は東に流れ西に流れ、其の山間には必ず流ありて、小流は大流に合し、高きより低きに流れ下り、平地を流れて海に注く、其の海の陸地を圍続する海岸線は、凸凹極りなく、凸なるものは岬となり、凹なるものは灣となり、更に凹なるものは潟となりて、變化多樣の風景の形は作られて居る、之れ亦水の活力である。又水は山嶽に附隨したものにて、風の爲めに雲を起し、山雲を吐き雲山を吐きて、雨を降らし、雨水は山皺を傳ふて小流となり、澤に集りて漸く大となり、斷巖絶壁に注落して瀑布となり、流は急、且っ緩、この間水の浸蝕より成りし、絶妙の風景は作らるゝのである。殊に吾島帝國の山紫水明は、列國に比なく、歐米人が美園國の賞語を附するも、决して無理ならぬのである。吾は今高原河の洪水を眺め、黑き濁流の濤浪怒激して、橋を流し耕地を流し、斷崖を崩壌して、轟雷の如き響をたてゝ、奔馬の如く流るゝを見て、水の活力の大なる事を今更の如く感し、如上の感を充たしたのである。耳を聾する高原河の音。闇を掠めて耳に入り來たる一と聲!それは杜鵑である。
 洪水の夜の空鳴くや子規
 押水や河鹿流れて町に鳴く
 晴れ告くる老鶯や雲の山
 雨になる闇を啼けり杜鵑
 欄干に合歡木の寢覺めや旅の朝
 二
 炭火を運ぶ下婢の足音に睡を破れば、雨戸の間より漏れ來るは旭の輝きである。大雨に三日間の滯留を重ね、山見たし谷懐かしと短かき三日間もいと永く感じ、今日のみ光りを如何に待ち佗びたであらふ。吾等の喜びは千万無量で、籠に自由を殺がれし小鳥が籠を出だされ、自由のうれしき羽ばたきをなして、焦れたる綠の山に飛去る樣であつた。下婢は久しぶりにて雨戸をくりあけ、吾は熟睡の吉田君をゆり起した。旭の輝きを見給へ!!!山々の綠を見給へ!!!出發出發と歡叫したのである。船津町を發すれば、昨夜まで降り續きたる大雨は洪水となりて、船津町も流るゝといふ大混雜に引き替へて、今日の快晴は日本晴、澄み渡る夏の空は濃くして瑠璃の如く、平和のみ光りはこぼれて山も野も洗ひ清めし如く鮮けく、疲勞なき足を輕く運ばすれば、稍々遠き綠緑の山には山鳩が啼て居る.展けた船津平の綠田も美しく眺め、道に會する農夫ら機嫌うるはしく、こゝを過ぎ行けば右なる高峰二十五山の山脈と、梨ゲ根山の峡りて、吾等は高原河を脚下に望む斷崕の頂に立つたのである。この頃來の洪水の名殘りは、黄黑き水の激怒して流れて居る、俄の層水にも驚きしが、又俄の減水にも驚いた、その對岸は鹿間村にして、眼に近き茅舎三四あり、建の屋根は頃日來の霖雨に.染まりし綠苔の日を浴びて美はしく、其の背後に三井氏所有の一鑛坑ありて、熔鑛場の規模宏壯なり。山巓、中腹、山麓等に工場の建てられたのは眼に奇しく感じて、鉛筆畫の窩生を始む。三脚を据へし所は、梨ゲ根山の崖を削りて作りたる危道にして、この頃の雨に道路の半を崩壊したる所なれば、通行人の妨害となる厄介の所である。折り惡しく船津町方面より來たれるは、白服を纒ふた巡査である、又々巡査の御厄介になる事と思ふて近寄り來たる其の顔を見れば、先きの夜吾等を深更に起して調べたその人である、しかもその夜大に侮辱を與へたのである故、この度はおとなしく道を開らきて通らすべきであるに、血氣にはやるとは云へ無事に通さなかつたのである。(讀者よ今余はこのときの事を書くは大に心苦しく思ふ、されど余の性情として秘密を厭ふので、やむなく有りのまゝ露骨に記さんと思ふ。十年は一と昔、今は一家の主人公として昔を忍ぶ毎に苦笑の外なし。)巡査は漸く近いた、吾等は如何なる事をなせしぞ、吉田氏と顔見合せ、一語を交へずに同感でありしは不思儀である、三脚を少し前に出し、足は伸びる程伸し、體を背にそり、高慢の態度を爲して、寫生に余念なく、人の來たるも知らざる風を裝ひつゝ筆を運かして居つた。吾等の傍に近くものは、如何なる人間にても通行する事は出來ぬ、後ろは斷崕、前は崩壊したる崖、吾等の體に觸れずして通る事は出來ぬ。鳴呼吾等は何といふ馬鹿ものである、先の夜この人を侮辱し、尚其の上侮辱を加へんと爲す、其の心根や實に常識ある人間の爲さゞる處である、この無禮極る行に對しては、人は人の權利のもとに立退かせ、巡査は職權を以て立退かすのである。今や吾等の上に大喝一聲の降り落つると思ひきや、之れは意外、危き崩壊の崖を傳ふて、吾等に少しも鰯れずして通過したのである。かくさるゝと如何に自稱仙骨でも良心は責めて自ら恥入り、彼のうしろ姿を遙に見送り、彼は君子である、と吾は心の奥に深く感じたのである。こゝを過ぎて一橋を渡る。鹿間熔鑛場の前を過ぐれば、兩山漸く峽りて、溪愈々深し、この邊は谷の兩岸迫りたれは、拾數年前までは籠の渡しを以て有名なる處である、籠の渡しは藤の蔓を對岸に張りて、之に藤蔓にて製したる籠を附着してそれに乘り、自ら手繰りて對岸に渡るのである。今も各所に藤蔓に替ふるに針線を以て作りたるものを見た。崖に懸りし棧道を過き行けば、對岸に大なる奇しき茅舎の續けるを見る。朝晴れの空は稽や曇りて蝉の音絶ゆ。靑ゲ原村に至る、こゝよりは少しく谷も展けて稻田も見、燃へる如き綠の麻畑を見る。一とつ家村を過ぎて牧村に到れば、高原河の溪谷は前に展けて壯觀を極む、路は山麓を廻り、高原河を見捨てゝ右折すれば、一橋ありて寺地嶽より猶する跡津河を渡る。土村に到りて回顧すれば、跡津河の流れ高原河に合す、二流急奔して水と水と衝撃して激鬪を爲し、怒濤白を散じて渦まき流るゝ巨観に封して、妙を構へ絶を叫んて寫生の筆を走しらせたのである。この邊の山嶽は、何れにも鑛坑ありて頻りに採掘して居る。西茂住を逕て東茂住村に到れば、大なる熔鑛の工場あり。展けたる高原河の渓谷を眼下にしたる休憩所あり、入りて行厨を開らく、時午後一時。河に沿ひて下る、杉山横山の二村を經て一橋を渡る。對岸は河の危岸、一路羊膓巖石狼藉たり。この邊は暖國に繁茂する樫、楠、の常綠樹を見る。激流に沿ふて中山村に到り、某旅舎に泊す。
 雨晴れや白き野百合の香の高し
 漏るゝ日や茂りの路の影丸し
 茂りから透くや谷間の籠渡し
 時鳥鳴くや金堀る山の煙
 山里や麻畑薰る朝日和
 山の端や茂をすりて鳩の飛ぶ
 三
 高原河の朝霧見んとて早く出發す。こゝも山間なれど棺や展けて、平湯仙境に比すれば何となく里めき、氣候も暖かく、常綠樹の森は暖國の趣きを現はして居る。夏旅の早立は心地よく、新らしき空氣を呼吸しつゝ、朝の輕き足を運ばすれば、左方脚下に展け流るゝ高原河は、一帶の河霧流を掩ふて、綿もて包みし如く、流れの清響は霧を破リザ、聞えるのである。河霧の深く濃く鎖すときは快晴との事である。雲無き濃青の空は澄みて、山々は皆秀て高く透明の空氣に鮮かく見ゆる。山高き爲め旭の出遅く、南の方より吹き送る朝風は暖かみありて、日の出でなば今日は暑し、と共に打ち語りつゝ綠田の間を進み行けば、小流ありて、この頃來の洪水に流れたる河原に出づ、道路の中ば崩壊して居る。西の山の巓には旭の光こぼれて、艶もてる黄に輝き、東の高峯は明るき空に顯はれて暗綠色である。河霧は今散じて、濃灰色の河原に水のみ白く光りて流れて居る。小丘の裾を左折すれば檜の黑き森あり、森の裡なる暗き路を經て谷村に出づ。こゝを過れば信飛の境なる乘鞍嶽より發する宮川の岸に至る、宮川はこゝに至り、高原河もこゝに至り、相會して大河となり、神通河となりて越中に流れ入るのである。宮川は高原河に比して、水色澄みて藍★色をなし、河畔一茅舎の休憩所あり。白き花咲きたる栃の巨樹西五株ありて、枝を交へ葉を重ねて河風に動て居る。こゝには筧もて崖より清水を引きて、水槽にあふれて居る。橋を渡れば路は二道に別れ、右すれば神通河に沿ふて富山市に出づ、左すれば宮川に沿ひ高山町を經て信州に出づるので、吾等左折して宮川の流れを上り行くのである。宮川の溪谷は漸く逼り、山は高く谷は深く、山益々純綠色を爲す。宮河の溪谷は深くして斷巖絶壁多く、こゝを通過するは至て困難なれど、開け行く世はこゝを開らきて坦平の道路を作り、吾等が飛騨旅行に對して豫想外の路を踏み行くのである。削りなした斷巖、危き棧道、溪谷を掩ふ巨樹、駒鳥鳴く森林、對岸の巖壁に懸る瀑布、の如きものを、絶えず迎へっ送りつ進み行のである。僅に展けた地あれば、茅舎二三點在し、平和を歌ふ鷄の聲起り、麥燒く煙は白く靑く綠を染めて立ち登るも興あり。流れ近くに到れば、岸を掩ふたる綠蔭暗く、河邊の崖は紅色の丈け低き躑躅所々に咲き出でゝ水煙を浴びて居る。人家の籬には淡紅の山溲★垂れ、白百合も咲き誇りていと麗はし。河筋はこゝも又この頃の出水に流れたる跡多く、崖崩れ各所にあり。こゝを過ぐれば稍急坂となりて、桑の巨樹茂れり。坂の頂は亭坦にして、こゝは宮川を脚下にしたる斷巖の頂である。こゝに建てたる茶亭あり、入りて晝餐を爲す。この亭を遠望せしときは、理想に爲りし漢畫の山水畫の家を見る樣であつた、亭は高所にある故用水を得難く。脚下數丈の宮川に針線を直垂し、之に小車を附したる鈎瓶に麻糸を附けたものを落下すると、針線を傳ふて釣瓶は宮川の淵に落ち込み、麻糸をたぐれば釣瓶は水を滿たして上り來るのである。好奇心の吾等は面白しと、幾度か水を汲み揚げた。筧の水も趣味深し、數十丈の絶壁より谷川の流れを汲みて茶を煎る等趣味更に深し。こゝは展望ありて、谷を越したる遠き山も見ゆ。この頃の日癖にて、朝受合し好天氣も、午後一時頃となりて曇り來たり、高き山巓は白雲纒ふて小雨降り來る。こゝ存立ち出づれば僅かに下りて、この度は山の中腹を橫切るので、暗きまで茂れる森林の間を行く。この盡る所は、又展けて河畔に出づ。今迄激怒して流れ下りし宮川は漸く音を絶ちて靜となり、吾等之れに沿ふたる坦平の道を歩す。靜となりし流れは對岸の景を沈め、風物は凡て凄然となつた。水の流るゝ音は賑はしきもので、激怒して流るゝ音は勇ましく無聲の流れは凄味を持つて居る、この淋しき境を歩する事凡そ四五丁にして、栃樹の森を左折すれば、こゝは平坦に展けて流れも濶く、巨柳河畔に茂れる牧戸村に出づ。對岸の高丘流に面して人家あり、小舟はこの靜穩の流を絶えず復往して居る、小雨降りければ、遠き山山は灰色にして、近き山は鼠を帶びし緑。巨柳のしげみ、靜かな流に小舟を配したこの間の風色は水彩畫を見る如く、又英國の田舎の如き樣にも感じ、吾が理想の境にも近き樣に覺へ、こゝに三脚を据へて一葉の水彩畫を作る。この邊土には畫家の旅行など存せし事なき故、人々不思議がりてあまり近寄らず、地圖を引く等の私語は僅かにもれて聞ゆ。永き夏の日も暮れに近く、人々は耕しの野より歸り來たり、馬曳く乙女の鄙歌も面白く聞えた。吾等はこゝを去り林村に到りて旅舎に投ず。この宿は河を背にし。前は道路に接して、近頃建てた新らしき家にて、部屋の雜作等はまだ出來て居らぬ。折から若き女房の來たりて、湯浴みせよとの事なれば、案内さるゝまゝ、栗の木の下駄はきて外出したのである。道を隔てた前なる傾斜面の道を上れば、高く石を積みて作りたる平地あり、こゝに家を作り畑もあり、家毎に筧を引きて、水は凉しき音を立てゝ居る。吾等の導かれし浴場のある所は、自壁の藏ある一の大なる農家にして、浴場は庭の眞中の据え風呂にてありし。この古く大なる家は、新らしき宿の本家である。山人の心切は古く黑くなりし据風呂も遠來の旅客の爲めに設けたのである。案内せし若き女房は湯加減の注意、脊中流し、それはそれは誠を込めて氣の毒程心切である。初夏の頃であるから夕顔の花はなし、月明も無いが、未だ暮れきらぬ夏の夕べ、農家の庭の湯浴み心地は吾が意に適し、風呂の湯は透明して美しく、湯浴み終りて筧の槽に徃き、清水に頭を冷やし體を拭ひ、凉風に吹かせた心地は何共いふ事が出來ない。見渡せば山々に雲かゝりて、靜かに流るゝ宮河も見られ、小さき水音の起る暗き森より、飛び出でし螢三つ四っも興を充たして眺め、終日の疲を洗ひ流して宿に歸れば、山里ながら河の畔り、鹽燒きの河魚は膳にのぼりて美味愛すべく、この夜は例に依り河鹿の聲を耳に響かせつゝ唾りに入れば、村の若衆の歌ふ鄙歌もこれに和して夢となつた。
 押水に押されながらや百合の花
 葉柳や傘なくて足る小雨
 崖に咲く百合やそのまゝ沈む瀞
 葉柳や流れ木拾ふ渡守
 湯上りの肌拭く脊戸や飛ぶ螢
 山里の夜は靜なり鳴く水鷄
 四
 未明の頃より子規鳴きたり。早く出發すれば、朝霧河を包みて流の音のみ聞こゆ。路の谷間に入ると、栃、楓、なんどの暗く繁りて、澄みわたる樣な駒鳥の聲は、朝の森林に響かせておる。路傍には五葉及び蕗の廣き葉重りて、葉の表の雫に樹の問もる光の輝きて白く、白き野花の咲けるかとも思はれた。崖を纒ふた木苺には、黄なる實と赤き實の熟してあれば、仙果なりとて之れを喫す。霧は漸く晴れて、黑く茂り合ふたる木の間しり靑き空見ゆ。山高ければ旭は未だ現はれず。岸奥落合の山村を過ぐれば、旭輝きて、夏の日の活動の舞臺は、其幕を切り落したかの如く、活々とした草木は風になびき、萎みし花は開らき、昆虫は葉蔭の夢覺めて花より花に食求り、人々は皆野に出でゝ耕す。谷稍や展けたる斜面には茅舍二三ありて、宮川は右方の山麓を廻りて靜かに流れ、黑く繁れる鎭守の森を中景に配し、稗畑に隣りて緑波打てる麻畑、遠きコバルトの山も見えて、麥燒く煙は遠近に見ゆ。山村の夏の朝。この平和なる感を描かんと路傍の木蔭に位置を定めて三脚を据ゆる。山雀は木の頂に歌ふて居る。鶯は谷の間に歌ふて居る。歌ふはこれのみか、高く繁りし桑樹の間より、
 飛騨の高山高いといへど低いお江戸が見えやせん
 遙かなる桑樹の間より幽かにもれ來たるは、
 飛騨の高山御坊樣過ぎる千原チンバに女房すぎる
 囃子江名子(バンドリ)雨がもる
 三井田むしろは杤がもる
 人間の音樂を罵倒して、自然の音樂に耳を清め興を湧かして居つた仙骨も、今この平和の山村にありて、自然の樂に調を合はせて歌ふ美音の鄙歌、殊にこの間の風物を眼前にして聽くためか、恍惚としてこれが人の口より發するものであるかとまでに感じた。桑摘む山村の乙女よ、汝は鶯の如き咽を持つて居る、汝の咽は魔か、善か、たしかに吾等を引きつける力を有して居る。吾等が寫生の筆に顯はるゝ風景は形の上に面白く、色の調和もよく、且つは美はしき鄙歌もよく調和して、平穩なる山村の夏の朝の趣味は、充分に描き出だすことが出來た。吾は山村に感狂し、鄙歌に絶興し、この間の自然に仝化して自失して居ると、忽ち起るは人々の私語である、自分に歸りて傍を過ぎ行く人を見れば、桑の葉を充たしたる籠負ふた乙女二三、それは美しき咽もてる歌の主である。谷は展け谷は逼り、村を過ぎ田甫を過ぎ行けば、この日の天氣麗はしく、山々は皆顯はれて空に一點の雲もなし。廣き緑の田の面を吹き來る風の凉しくて心地よく、景を送り景を迎へ、吾等の袖引けるもの少なからざりしも、今日のうちに高山町まで到着せんと欲して道を急き、正午古川町に着した。街衢は荒木河と宮川の會同する處に駢列し飛騨第二の都會であるとのこと、こゝに午餐を爲し、一路坦平砥の如き上を急ぎ、大野、上廣瀬、の村を過ぎ、八賀河を渡れば、一望開展したる高山平に出づ。下切、松本、の村を過ぎて高山町に着せしは午後六時であつた。高山は飛騨第一の都會、街衢齊整都雅愛すべく、宮川西を流れ、東北に高丘あり、金森長近の築きたる城跡ありといふ。地勢京都に似たる爲め、小京都の名ありと。この日は終日晴天にして氣候稍々暑く、疲れたれば早く睡に就く。
 紫に明ける東の山やほとゝぎず
 晝顔や里の乙女の歌ふ節
 筧さい音なき晝や蝉の聲
 水押しに荒畑や月見草
 栗咲くや日ぐせの雨の今口も降る
 小鳥歌ふ翠の蔭の清水哉
 世の無事や晝寢の顔.に蝶の來る
 五
 船津町を發してよりは、半日も休養せしことなく、朝は早く出發して、夜は遲く宿に着くといふので、日々歩を續けたれば、如何に仙骨にても疲勞甚だしく、船津町の滯留等思ひ浮かべると、この高山町に一日の休養を心に願ふたのである。されど吾等が旅行の運命は、終に滯留を許さゞりし。それはこふいふ次第である。到る處の風物は吾等を歡迎して、豫定の日割よりも多く日子を費し、且つは船津町第一等旅館に滯留三日を重ね、大に得意をふりまはした爲め、この朝に至りて財布を改むれば、曉の空の星ならねど、旅費は僅に殘るのみである。如何に仙骨なればとて、霞を吸ひ雲を食ふて居らるゝものでなし、日暮て路遠しは露宿も出來て詩的のものである、旅費盡きて歸路遠しは如何とも策の施こす道がない、こゝに滯留して爲替を取寄するも面白からず、さりとて旅費霊きて殆んど難澁こゝな主に情請はん等も芝居的で面白いが、世馴れぬ吾等にはきまりが惡くて行ふ勇氣がない、宿料が滯ほりて依頼に應じ、畫か描きて漫遊爲すといふのは畫家によくある例であるがそれも陳腐だ、然しこゝに聊か光明のある望みは、吾等が船津町に滯留して居つたとき人々の物語りに、高山市に洋畫家あり、その人は中學校の書學教員で、何々といふ人である事を聞いた、何々といふ人は余が親交といふ程ならねど、兎に角友人であるから、この友を訪問して旅費を借り出さふといふのである。友の住所を宿に尋ねて訪問に出かけた。彼の住む處は、町の中ではあるが、閑靜の地にして家も美しく、門あり玄關あり、庭内廣く、美術家の住居としては何となく俗氣勝ちであつた。二人は手製の名刺を通じ面會を請ふた、妻君らしき人が現はれて、暫らく吾等を注視して、主は不在にて何日歸るか明らぬとの事、妻君は初めての識である、色白く稍々太りてなまめきたる仇姿、美くしといへば美しき方なり、されど吾等に物云ひ振りのよそよそしきは、日に燒けて色黑き顔、櫛入れざる長き髪、垢に汚れ夏の綿入着、無愛憎の言葉づかひ、百鬼夜行の中から二鬼ぬけ出でしかの如き容態、誰が眼にも恐ろしき變人と見らるゝを、ましてや心き女性の眼には如何にも恐ろしく映じたであらふ、あまりの恐ろしさに驚愕して生氣を失しなかつたのはまたじも幸福である。されど吾々は、よそよそしき挨拶が癪に障りてこゝを飛び出し、宿に歸り用意を調へ、前後の考ひも無く高山町を出發した。江名子嶺にかゝる。展望可、山口、辻、の山村を過ぎ、嶺を下れば地稍平坦にして見座村あり、乘鞍嶽の大池より發する益田河を渡る、河に沿ふて甲、万石、上ゲ見、黑川、小瀬ゲ洞、の諸村を經、秋騨河を渡る、このあたりは山深く、害虫にて蟆子、★、蜂★、眼かすり蟆子、小★、等多くして、農夫は檜の皮を打ちて軟かくし、之を中に入れ藁にて巻きて苞苴となし、これに火をつけて煙らしたるものを腰に下げて働いて居る、漆生谷村より宿島村に越ゆる小嶺あり、檜樅の繁りて樹下凉しく、暫く木蔭に休憩して居ると、こゝに來襲して來たるは灰色の小★にて、百干万と集まりて着物の上に附着して、薄きものは肉に食ひ込み、拂へ共拂へ共拂へきれたものでない、漸く工夫を廻らし、檜の枯枝を束ね松明を作り、之れに火を點じて燒き撃ちを爲し、漸くこゝを去りて嶺を下り行けば、展けし田甫有て、田甫の中なる旅舍に宿泊す、宿の四面は皆田甫なれば、蛙の鳴きたちて賑はしく、螢二三室に飛び入りしも興あり、疲しまゝ蛙聲を耳に滿たして睡魔の境に入る。
 田所や螢は家をぬけて行く
 河添へに暮れたる旅や飛ぶ螢
 明けて行く夏野を歌ふ小鳥哉
 里の雨ほろほろ散るや柿の花
 山幾重幾重を啼くや子規
 麥燒きや笹の葉動く風もなし
 山里や夕榮消えて啼く水鷄
 野苺や崖から落つる滴り水
 六
 夜の未だ明けざる暗きうち出發す、この度の旅行にてこれ程早く起き出で、これ程早く出發した事はなかつた。吾等の懐中は漸く輕く、今日は途中にて、如何に絶感の所ありても見る約束にて、足の進む限りは何十里でも歩さんといふ意氣込みにて、未明の殘月に道を照して、一里行き二里歩す、未だ夜は明けざりし、ビツクリ嶺にかゝる頃、東の空は白みて、遠き村より鷄鳴が聞こゆる、嶺は樹木なく雜草なれば、露を浴びし草の間より、白き花は螢の如く明るく見ゆる、嶺頂に達すれば、夜は全く明けたるも、高き山々は朝霧深く纒ふて見えず、只同じ樣な山の展けて、一面に艶ある緑の鮮けく、山崩れの跡原を流るゝ河筋も見ゆる。毎日の如く見ざれば、眼に新らしく映じ、心に深く感ずるのであるか、この朝の出發の如く、未明の頃より逍遙すると、東の空は漸く白みて、明を發すのは譬へば人の生れ出でた如く、又は河の元泉の如く、美しく清淨なるもので、光は曙のそらを染めて、紫黄に輝くのは全く神の光明である。この光明に照された自然界の凡ては、夜の睡りを覺めて麗はしくほゝ笑み、鳥は歌ひ、蝶は舞ふ、この夜明はたしかに神のみ心そのまゝである。この神々しき朝の空氣を呼吸して、神々しき感に打たれ、嶺を下れば、左足今越した嶺に殘りて、右足又前なる嶺にかけて居るのである。漸く登り漸く下りて呼吸する暇もなく、又同じ樣な急坂の嶺に登るのである。吾等は朝風を身に浴び新らしき空氣を呼吸し、鮮かな緑を蹈みて、心身共に爽快を充してさい、又登るのかといふ感に打たれる、况んや三伏の炎熱に、草蒸しの氣を浴びつゝ、疲れたる身にありては驚愕もするであらふ、ビツクリ嶺は、誰いふとなく名稱されたのであるとの事、輕き朝の足なれば、さのみ苦も感ぜすこの嶺も越へ、野麥山村に着、この村は信州に越へる野麥嶺下にありて、飛騨の山村の極まる所にて山は高所にありて家の搆造も大きく板葦き茅屋等ありて風致愛すべきであるが、今日は寫生することは出來ぬ約束、こゝよりは乘鞍嶽にも近く、頂上の大池とこふは、四面山嶽を廻らして、岸の巨樹は影を沈め、黑く澄みて凄味ある池との事、今は如何せん、こゝを探勝する事も出來ぬ。巖谷ゲ大瀑布は、池をあふれた水の、絶壁に懸りて壯觀のよし、袖引きとむる風物の凡てを、遺憾なから皆捨てゝ、野麥嶺にかゝる。嶺は乘鞍の脈にていと高く、巨樹欝蓊として清翠滴り、篠竹は林下を纒ふて、迂曲したる道を進めば、こゝに又駒鳥鳴きたちて、その澄み渡る聲を聽くと、もふ何ともいふ事の出來ぬ美感に打たれ、感興胸をおどらせつゝ、幾度か立止りつゝ嶺頂に登る。頂は坦平にして篠竹密生し、小沼所々にあり。折りから冷風吹き到り、仰げは西北に雪を流した乘鞍嶺は、雄々しく凸起しておる、山容殘雪、花も形も美しく、眼に近き夏の緑に配した雪の山、畫趣は泉の如く胸にあふるゝも、之を寫生する事は出來ぬ。深き印象を頭腦に刻みてこゝを去る。飛信の境に至るに一大休憩所あり、入りて携へ來たる行厨を開らきて午餐す。亭婦篠竹の竹の子を供す、美味なり。亭婦は六十に近く太りて逞しく、雄者の如し至て饒舌にして、其の語るを聞けばこの嶺は冬期より早春にかけ、信州より飛騨に越す唯一の嶺にて、十一月頃より雪は降り積りて、旅人の通行甚だ困難なるより、縣はこゝに、旅人の爲めに休憩所を設け、亭婦は番人として、縣より補給を受けて居るとのこと、而してこの亭婦は、若き時代より、今も尚非凡の力量と、非常の剛膽で、三十歳のとき、この嶺にて大の男の山賊、四人を一人で相手にして、谷間に蹴込みし事ありてより、この附近に名聲高く、誰いふとなく野麥嶺の鬼婆々といはれ、物騒の嶺も平穩になつたとの事、されど心は大の正直もので情深く、年々幾人かの雪に惱める旅人を救ひしとの事、かゝる雄婦も愛には脆く、一夜宿貸した優男に焦れ、今の戀夫はその男にて、今は高山に使して不在とて痴情の誇りまで聞かせられたのである。婆々の話しに時を費し、急ぎて嶺を下る。巨樹蓊欝たる間、谷川の流れて濃緑の苔蒸したる間に、こぼるゝ日の光に黄緑を印したるものは、吾等がしばしば物語りて、かゝる自然に出逢ふたら是非描て見たしと、永い間の望みであつた。今眼前にこの現象を見ては、今朝定めた約束を破らざるを得ない、まゝよ日は暮ても何とか成る可しと、この間に三脚を立てゝ一葉の水彩畫を作る。漸く嶺を下りて奈川谷に出づ、この谷を流るゝ河は、先に探勝したる梓川の小流である、こゝは飛騨の谷と聊か趣きを改め、山一帶は花崗巖にて、河原も白く、路も白く、白は緑に映じ、緑は白に映じて面白く、急がざる旅なれば滯留する境である。奈川谷の奈川村、吾が頭腦に浮み出でしは古き記臆である、吾は暫らく同居せし親しき友にて、其の友は奈川村が故郷にて、互に故山の風景を物語りするとき、いつも奈川谷の風景を誇つた事がある。この友の家は奈川に名ある古家、時は暑中、或は歸郷して居るにや、,道の序なれば訪問せんとて、その家に到る。家は大きく、美しく、家の人々は吾が名を聞きて、友より聞き知り居るにや、心を込めた優待である。美しき若き娘は、友の顔によく似てあれば、妹にてある可し。尋ねし吾が友は、都にありて歸らざりしとの事、兎にも角にも是非御上り下さいとの事なれど、友は不在にて、一面の識なき家に宿かるも心苦しく、引きとめらるゝ袖を拂ふて、この家を去る。谷は展けて梓川の流を眼下に眺め、疲れし足を無理に運ばすれば、空は曇りて小雨降りしきり、小雨の中なるこの境の、自然に遠近ありていと美はし。こゝは是非再び旅行する好地と、心に記してこの夕、名もめで度松竹といふ山村に投宿。
 葉柳や茨堤に牛の笛
 葉柳の糸を崩さぬ眞畫哉
 散る栗の花退けて汲む清水哉
 汗臭き人とすれ會ふ夏野かな
 夏旅や友の古郷訪ふて見る
 栗咲くや鬼婆々の住む嶺の茶屋
 茂にも聞く駒鳥や野麥越し
 雲を産む野麥峠や篠の花
 戀語る茶屋の婆々や栗の花
 雪解や乘鞍岳の肌見ゆる
 馬の脊のすれすれ行くやねむの花
 合歡木咲くや出水に落ちし崖の上
 七
 滯留を許さぬとなると、袖引き止むる絶景に會するものにて、この松竹山村の風致は、未だ會せざる妙景である。梓川は展けて流れ、形容美しき山は遠く近く、巨柳繁れる白き河原には、所々に水車動き、茅舎は程よき位置に配されて、黄に燃へる麻畑、新綠の桑畑、村より村に通ふ路は白く明かに、土橋あり堤あり、堤に沿ふて蛇籠を配し、そこにも巨柳垂れて、河風に葉を翻へして、靑綠に發色し、遠き河原に群れつとふ牛馬、頭上げしは馬、頭下げしは牛である。雜草負ふたる牛三頭、ゆるく土橋の上を過ぐ。牧童之れに鞭して靜かに歩み行く樣は、實に平和である。牧童去りて桑籠負へる乙女過ぐ。山々は白雲を送り白雲を迎へ、河原の遠近に奏づる河鹿の妙音は、山子規の聲に和して至る。これ吾が宿なる二楷より望みし朝の光景である。宿も吾等を優待して、一の欠點もなき吾が理想郷である。されど吾等が胸には、一の暗雲むらがりて、何となく氣の引立たぬので、それは嚢中僅かに殘る旅費である。今となりては、宿の優待を受ける程、それ丈け苦しいのである。山里の割合に、茶も上等、菓子も上等、溌剌たる河魚も、膳に上りて皆甘し。仙骨にも人知れぬかゝる心配のありて、この宿を出發する事となつた、総ての用意を落ちなくなし、藁履も着けて宿の拂を問へば、財布をすつかり底をたゝきて、十一錢五厘を殘すのみであつた。ホツト氣息を入れて轟く胸を落ちつけ、宿料のみを拂ひ、茶料を置かずしてこの宿を駈け出し、宿の見へずなるまで、大走りに走つたのである。十一錢五厘は何故に殘したのである、それは(ヒーロー)といふ煙草を求むる爲めである。吾等の携帶する器械は、人々に眼を注がれ、至る處に於て、名稱と使用を尋ねらるゝのである、初のうちは、一々説明して教へたが、終にはうるさくなりて、飛騨の旅舍にあるとき、或る人の尋ねに答へて、畫架を(ビンテツ)、三脚を(プラン)と教へた。不思議の名であるから、只へーといふぎりにて、使用法は尋ねなかつた、それよりは、これをよき事にして、眞面目になり、(プラン)(ビンテツ)とばかり教へたのである。この名稱は、意味ありて附けたのでなく、有り合せた鐵瓶と洋燈とを轉倒してこしらいたのである、今も道行く人に尋ねられし故、(プラン)(ビンテツ)と教へた。路は梓川の斷崖を横切り、大白河を渡り、最初別れて右したる、稻核村に至りて會した。それよりは舊識ある道を、再び歩す事になつた。最初こゝを通過せしときは、山野は淡緑色の若葉にてありしが、今は濃緑色となりて、土用前の天はよく晴れて、微風だになし。草も木も、眞晝の光りを浴びて.首うなだれて居る。芯なき握り飯を木蔭に喫し、道を急ぎて波多官林の松林に入る。一路坦平なれど大に疲勞して、中々に急ぐ事は出來ぬ。平和を歌ふ春蝉の音は絶へて、夏の炎熱を鳴く蝉は、耳を聾するばかりである。こゝを出づれば展望廣濶になる、松本の平野、滿目緑田と化して、其の間を通ずる白色の直路は、稍や西に傾く日を浴びて、焔立のぼり、暑い暑いと共に叫び、流れ落つる汗をこぼした。それも無理ならぬ次第にて、この炎熱の中を、フランネルのシヤツと綿入の胴着.綿入の着物に、厚き布の袷せ羽織を纒ふて居るのだ、如何に仙骨にても、冬着のまゝにて、日蔭なき炎天の道を行くのであるから、さながら釜中の魚である。焦熱地獄である。流汗は厚き冬着を通して、松本町に入り、待ち詫びた(ヒーロー)煙草を求む。これを紙巻きとして、久しぶりにて口中を喜ばせた。人々は私語して、吾等に指さし、小兒は爭ふて附き來たる、吾等の奇しき旅裝を見物せん爲めである。望月氏には豫て報じ置きたれば、市中の人々に視線を注がれっゝ、氏の家に着したのは午後三時半頃である。内閨の驚愕一と方ならず、暫し無言にて吾等を見つめ、唖然として、マァマアといふのみである。内閨は、單衣二枚持ち來たり、早速ぬき替へられよとの事で、冬裝より忽ち夏裝の早替り、吉田君は曰く單衣でも居らるゝなあー。
 松高き道はほてりて蝉の聲
 夏草の中にまじるや花の彩
 蜩や横日に長き森の影
 八
 望月氏には、折惡しく宿直の日で不在、内閨は萬事に注意して、早速湯浴みされよとて、吾等は甞て使用せし事なき、垢摺り、石鹸等出だされ、案内されたる湯屋に出かけた。松竹村の宿拂ひに、殘したる十一錢五厘の内、十錢は煙草に替へ、殘る一錢五厘は、一人分の湯代にも足りぬ、如何はせんと長髪の頭を二たつ合はせて、樣々に工風を運らしたが、好き智識も出ない、湯に入るかはりに水に入りて、湯に入りし如き態度をなして、ごまかさんかとは、余が絞り出せし名案である。吉田氏の案として紙幣ガ大きくてこまかきものが無き故、湯錢を貸して下さいといふのだ、之れは妙案。されど借りに行くものがないから、棒を折りて抽籤となし、吉田君の敗となり、長髪をかきながら出かけた。湯錢の四錢を借り出したのは、鬼の首でも取つた如くに喜び、しつかり握つて來て、早速入浴する事が出來た。浴客は少く、湯は美しく、使用に馴れぬ石鹸をぬり附け、白き泡を頭の上から足の先迄滿たし、花の如き美香を發すれば、流しては塗りつけ、塗り附けては流して居ると、氏の家より使ありて、早く歸られよとの事である。早速上りて體を拭ひ、衣を纒ふて外に出づれば、夏裝の身も輕く、美しき香りは肌に殘り、夕凉の風に薫らせて、靜かた歩せば、體も新らしく衣も新らしく、扨ては心まで新らしく感じて、家に歸れば、裹庭に噴井ありて、美しき水は音を起して溢れて居る、水までがウエルカムと云ふ樣に聞こへた。望月氏は歸り居りて、大に侍ち佗びし如く、早速二楷に通された、二楷といふは氏の書齋にて、内閨のたしなみにや、香り床しき百合の一本は挿されて、雫も滴る如く新らし、床には淡泊なる花鳥の一軸かけられ、靑味を帶びし疊表凡てが凉しき夏座敷の光景である、靑簾越しに梧桐の線動き、噴井の水音は、こゝにももれて凉し。氏も内閨もパツチリとしたる凉しそふな單衣纒ふて、待遇振りに誠こもれり、別して内閨とは、この度で二回の識で、淺き交りであるが、百年も前の知已の如く、心の奥まで解け、主客の間に隔てなく、凡てが家族的であつたのは嬉しかつた、氏もよき方なり内閨もよき方なり。佳肴は運ばれ、美酒も運ばれた、吾は半杯の酒に顔面紅――、否このときは、ライトレッドにエンジァンレットを混した如き色を呈し、一抔飲すれは倒れ、二杯を飲すれば自失するといふ、酒に縁なき意氣地なしであるが、吉田氏は嗜む方にて、殊に久しき間の仙食に痩せたのであるから、大に得意がり、機嫌うるはしく、エンジヤンレツトの顔、面に笑を顯はし、左手より杯を離さず、右手より箸を離さず、食しては飲し、笑ふたり語つたり、興多きこの旅行の長物語りは、中々に盡きぬので、望月氏は面白し面白しと聞き惚れて居る。日は飛騨の山に沈みて、簾を巻けば、凉風入り來たりて醉顔を吹く、望月氏は宿直なればとて、中座にして出かける事となり、この室は吾等に占領さするのであるから、自家に居る如く、心易く休養し給へと云ひつゝ出かけたのである。夕餐後、長く伸びて寢ながら物語り居ると、茶は出る、菓子は出る、煙草盆には何時も火の消へた事は無い、今夜は疲れたれば早く睡る事と定め、旅行以來初めて蚊帳の中に入る。夢は遊ぶ飛騨の山中!!
 師の宿の心安さよ夕凉み
 噴き井戸の滴り聞くや夕凉み
 九
 噴井から落つる水音は、絶えず清響を送りて吾等の室に聞こえて、町にあるとは思はれず、山中の宿りの樣である。安神の睡りも今覺むれば、雨戸をもれた旭の光は室を輝かせて居る。何時頃運ばれしか、枕もとには、火を埋めたる煙草盆が置かれてある、眼をすりながら、吉田氏を覺して寢乍ら一喫して起き出づれば、お眼が覺めましたかと優しき内閨の言葉である、何時頃ですかと尋ぬれば、十時に近しとのこと、非常に寢過したりと噴井に行けば、澄みたる美しき水は溢れて、冷き事氷水の如く、顔を洗ひ頭を冷やし、肌仝體を拭へば、心身共に爽快を覺えた、仰げば夏の空の高く澄みて、今日も又暑氣酷烈ならん。室に歸れば掃き清められて、茶も梅干しも運ばれてある、吾は茶を嗜む性なれば、五椀を喫す。盧仝ならねと、茶を喫すると、一椀喉吻潤、二椀破孤悶、三椀捜枯膓、惟有文字五千巻、四椀發輕汗、平生不平事盡向毛孔散、五椀肌骨清、六椀通仙靈、七椀喫不得也唯覺兩腋習習清風生、蓬莱山在何處、玉川子乘此清風欲歸去‥‥‥の樣な感がある。日は照りて風なく暑し、單衣になりてより更に暑を感じ、食後寫生に出づ。昨日迄の冬裝旅行を思ふと、今日の單衣は實に嬉しい、日に火照る。街衢を幾つも折れて行くと、天に聳立して居る天守閣が見ゆる。それを目的に行くと、高き石塀を廻らした城廓に出づ、城廓の周圍は堀にてこゝには連の葉が繁茂して、美しき緑の葉の面には、銀色の珠玉を轉ばして居る。今は新らしき葉のみなれば、之に花咲きたらんには、如何に美はしき事であらう。蓮華には清香深きが、葉にも清香ありて、炎日を浴びて薫るのは心地よく、西方の淨土には、清泉湧き、蓮華は不斷に開きて、凉風起るとかいふが今、蓮池の畔に立ちて、深く注視すれば、如上の感が胸をついて起る。蓮は佛花としてめで度、雅花としてめで度、文人墨客は愛好して、詩材畫材となす、高潔なる泥中の白蓮や、汝は汚泥より生れて汚泥に染まず、その清き心には、人々を感化なさしむのは少なくない、吾は連に感じつゝ寫生をなす。日は直射して暑氣甚だしけれは、歩を移して堀畔を辿ると、天守閣は松林の中に現はれ、垂柳緑蔭深き中に入りて、天守閣を寫生す。天守閣は昔のまゝにて、屋根石塀自壁等は青苔蒸し、蔦蔓纏ふて古雅愛すべし。正午を過ぎて、聊か空腹を感じたれば、凉しき料理店に行きて、晝餐をなさんと云ひ出でしとき、心附きしは昨日の事‥‥‥吾等の所持する一錢五厘は、湯を浴る事も出來ぬ、晝食の料に足る筈なし、昨日湯代を借り出した虚僞の口上は、妙案に失して妙案ならず、大なる紙幣所持致す吾等は、再び金借の口實が無い。虚榮心にも程があるので、今更一文無しであるから、貸して下さいともいはれぬ、つまらぬ事を云ひ出した爲、今は大に悔ひとなり、晝餐を喫す爲に歸る。飯の箸を置くや否や、又出掛けるのである、内閨は誠を面に現はし、慈母が其の子に注意する如く、如何に世話しき寫生なればとて、この日盛りに外出するは身の爲めならず、景色は逃げる譯でもなかろふから、緩々休養して、夕凉を待ちて出でよとの事である。されど吾等は、人々の思ふ程暑くも感ぜぬのであるから、暫く休みて又出かけたのである。此の夕、望月氏は友を携ふて歸り來たりて、この旅行に出來し畫を見せよとの事にて、油繪、水彩、鉛筆畫を展きて、この室は繪の展覽會場となつた。兩三日氏の家に休養し、(ヒーロー)を巻きては喫し、午前に出かけては正午に歸り、日頃の勞勢をすつかり療したのであるから、こゝを出發することに定めた。出發の朝であつた。望月氏は注意を拂ふて、冬裝は後から送るべし、粗末なれども、この單衣を着て歸り給へと、氏の單衣を借りたのである。握飯は内閨の注意、用意も調ふていざ出發といふとき、望月氏も内閨も、口を極めて炎熱の中を徒歩するのは身に害あり、松本より上田までは馬車の便あり、馬車にて歸り給へ、馬車の停留場は何々町であると、委しく教示された。其のときは、吉田氏と顔見合せ、苦笑をもらしたのである。大紙幣所持の吾等、こゝより徒歩して嶺を越へ、十數里の道を急ぐのである。
 十
 松本には吾が舊師望月氏のあれば、如何に旅費に缺乏するとも、之を補ふは易々たる事なり、心丈夫に松本に着して、氏の家庭を驚かせしが、前後の考ひもなく、湯錢の事より、豫て賴みし大計略は失敗に終り、松本銀行に於ても、小紙幣に替ゆる事の出來ぬ大紙幣所持といふ大虚榮心、大名譽心のもとに、痛くなき腹を痛ませ、教示されたる馬車の停留場、道順等眞面目に聞き、馬車にて歸るといふ虚僞の態を爲して出發すれば、氏は門まで送り出で、この町をつき當り、右に折れて行くのと教へられし道を、止むなく進み、氏の姿隱るゝと同時に、道を轉じて本道に出で、徒歩して松本を出づ、(ヒーロー)を紙に巻き、吉田氏は、日光にて求めしといふ自然木のパイプに挿して喫す。このパイプを、氏は大に愛して、鼻の油を附けろやら、着物にて拭ふやら、吾が子の如く大切にして、日に日に艶の勝りて、光澤の出づるを樂み、寢るも起るも坐右を離したることはない。今も取り出だし拭ひつゝ、松本平も過ぎて、保福寺嶺に懸つたのである。この頃の天氣續きにて、今日の暑熱は非常のものにて、路傍の草も木も撓れて、蒸し暑き氣を吐て居る、森には蝉鳴きたちて、一層の暑を感ずるのである。折りから松本の方面より、二頭立ちの馬車は、ラツパの聲と共に疾走して來て、吾等の前を駈けぬけた、車の中の人々は吾等を見て、この炎天に徒歩は御苦勞樣とでもいふ樣な顔をして居る。暑い暑い迂廻した嶺道、木蔭に休憩し、岩間の清水を喫飲し、流汗道を染めて、漸く頂巓に達した。吾が來し方を回顧すれば、吾等の通過せし、飛驛の山岳には一點の雲なく、山巓より流れ下る殘雪は、稍や消へたれど、見覺へし山容は、何處で眺めても知る事が出來る。凸状をなして、聳立する劍峯を幾つも持てるもの、馬脊の如きものゝ連峯續きて乘鞍、同房、燒岳、硫黄、穗高、鎗ゲ岳、笠戸の諸岳は、★峨として峭立し、呼べば答ふる如くである。然して彼等の、山岳が作りし水は、斷巖、深谷、溪流をなして、吾等は其の境を踏み破ったのである。この間の風物は、吾等に教へて、彼等よリ得たる新智識と、興多かりし事よ、今吾等は保福寺嶺頂に立ちて、彼等に感謝し、彼等と告別するのである、飛驛境の諸岳よ、汝のほゝ笑みて吾等を迎へ、汝の愛護によりて、無事旅行を果したのを重ねて感謝す。さらばさらば飛驛の境よ、吾又神の愛で子となりて、汝の境に再遊するあらば、汝又更に愛護を給へ、さらばさらば、と深き感慨を胸に充たして嶺を下る、展けたる北方は、吾が故郷を置ける千曲河高原である。嶺を下れば展望皆緑田、一直線の坦道は上田町に通じて、此邊を鹽田平といふ、炎天なれは咽乾く事切なり、田甫の流は汚水にして喫すべからず、一錢五厘の茶代あれば、何れか美しからぬ茶舖に休慰して、湯など得んとて漸くにして路傍一小茶舖を見出す。入りて湯を請へは、老婦ありて吾等を注視し、未だ甞て入りし事なき異人と思ふてか、吾等に茶を出して家を出でぬ。暫くにして歸り來りて、今求め來たる茶菓子を供さる、運の惡きときは、何處までも目的に反して、かゝる事のなき爲めに、小茶舖を特に選みし、特に選し小茶舖は、却而かゝる心痛を吾等に與へたのである。茶菓は上等で、一錢五厘の茶代を知って、之れが食はるゝものでなし、幾度か茶器に湯をつがすれば、老婦は供せし菓子をすゝむ、心苦しければ茶の甘き筈はなし。充分茶を喫して咽を潤し、いざ出發とて手早く荷物を背負ひ、余は一錢五厘を茶盆に響かして駈け出した、續て吉田氏も駈り出し、一丁程は氣息をもつがず、一生懸命に走つたので、漸くホツト氣息を入るゝと、吉田氏は靑くなりて、困つたといふのである、吾は氏が、俄に病氣にても起したではあるまいかと思ふた。病氣ではなかつた、今の茶舗にて、あまりにせき込みし故、吾が兒の如く、寳の如く、大切にして、平素肌身を離さず、坐右を離さず愛して居った、自然木のパイプを、今の茶舖に忘却して來たのである。捨てる事は出來ず、さりとて取りに行くも何となくきまり惡しく、されど大切の愛品であるから、取りに戻つたのである、其の時の氏の顔は、未だ余が頭に印象されて居る。この日の徒歩十六里、午後五時上田町に着、友の家に一泊して翌日自家に歸る、出發のときに咲き亂れたる牡若は枯果てゝ、白百合の咲きて濃厚なる香を吐て居つた。(完)

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