初學者の繪[三]研究の必要

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第十七 P.3-4
明治39年10月3日

▲讀書百遍意義自ら通ずといふ。寫生も百枚も描くと多少筆が自由になるものである。
▲併しながら其百枚は、苦心し研究したものでなくてはならぬ、一枚々々眞面目に正確に、精榊を籠めて寫したものでなければならね。
▲漫然筆を下しても、立派な製作が出來るといふのは、多年修養を積んだ大家か、百歳稀に見る天才といふものゝ仕事で、初學者には企て及び難い事である。
▲世には繪畫製造人があつて、唯見た處を寫せばよいといふ、頗る樂天的な考で、澤山な繪を持つて喜んでゐる人があるが、かゝる人はタトへ何千枚の寫生をしても決して進歩する望がない。
▲時としてかゝる人の作にも、傑出したものがないではないが、夫等は偶然の出來で、再して同一の結果を得る事は難いものである。
▲繪畫製作の上に、偶然の効果を頼むの愚は言ふ迄もない。
▲須らく寫生をなす時は、專心其對象を模するに勉め、如何なる方法によつて其感を現はすべきやを工風し、初めの手法に失敗せば、更に他の樣式を求め、甲の色にて目的を達せざれば、乙丙の色を用ひ試み、其寫生畫を一の手習艸紙と見做して、飽迄執着して研究するのである。
▲如斯すれば其繪は眞黒になるであらう、殆ど繪として見られぬものになるであらう、乍併、自らを益し將來の進歩を助くる上に於ては其一枚は、繪畫製造人の製作品の百枚にも勝る事は萬々である。
▲かくして、一枚は一枚よりも、前の失敗を避けて、新なる研究の道を求めつゝ進みゆかば、忽ちに著しき効果を得る事は請合である。
▲且研究の痕なき作品は、單調無味平凡なれども、一事一物苦心の餘りに成りしそのものは、自ら其進境をも認め得べく、困難に會する毎に一層樂しみを増し、終には自然の大秘鑰を掌中に握る事が出來るのである。

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