大下學兄の猪苗代湖畔より送られし繪端書

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第十七 P.10
明治39年10月3日

 大下君は七月八日附にて猪苗代湖畔より美しい自筆の繪端書を送られ、荒漠たる満洲の景色のみ見馴れたる僕に、非常の興味を與へられたと共に、更らに思郷の念を深からしめた、其わけは、去明治三十五年の夏、僕も亦此地に遊んで、湖畔の致景今に眼裏を去らぬからである、其時の紀行を少々デー申上げれば、郡山にて岩越線に乗換へ、行けば巳に汽車は蒼欝たる重山の間に出没して前途の風光を思はしめ、昇りつめて稍開けたる山潟と云ふテンシヤバにて汽車を下り、同行の英國素人畫家ヒースと云ふ人と、慥か鹿島屋?とか云ふ宿屋を聞知つて、其折しも火ともし頃、夕陽の湖水に映る美しさを行く行く賞しつゝ、數丁を來つて宿に着いた處が、イヤハヤひどい家なるに驚き、空腹に差出された御馳走はと云へば、ハゲた椀の蓋に餘りて、頭と尾をつゝ張つて居る氣味の惡い魚、それも味は湯煮も同樣なるに驚き、香の物、飯、一々驚いて、幸ひ其西洋人の連れたるコツクの手料理で一命を取留め、偶々十日過ぎの明月に誘はれ、湖水を吹き來る夕風に迎へられつゝ汀を逍遙して、向ふの出鼻を廻はれば、大達物の磐梯山は屹然として月光に聳えて居る、天下一の美景に肝膽を奪はれ、昔の畫人ならキツト此處で筆を捨てる處だろうが、今時そんな氣の弱い事では大家にはなれぬ、それも一生に一本や二本なら捨ても好いが、僕が捨てだしたと來たら、到る處何本となく捨てゝ歩るいた日には迚もたまつたもんで無い、まづ何事も明朝の事として宿屋に歸り、偖て明る日早くから湖畔にガン張つて見た處が、雲深くして本尊は出ない、それに氣候が中々寒い、慄へながら待つて居る内に、漸く少しづゝ見え出したから、徐ろに給具箱を開いて、通り掛りの、袴のようなものをはいて居る百姓から、破裂當時の物語を聞きながら一枚を畫き終り、ヒース氏も向ふの方で一枚を稼いで、午後には急の思立ちで會津より東山温泉に行つて見ようと云ふので晝食を急がせ、亭主は黒木綿の紋付袴で門ロへ送くる、出がけに主家のナゲシを不斗見れば、大身の鎗古色を帯びたり、そう云へば亭主の樣子、其薩摩ナマリ、何にか維新當時の面白い談も有りそうだが、テンシヤバのガランガランに猶豫なり難く、急ぎ立出で汽車に投じ、湖水を左に磐梯山を右に、進み行けば暫らくにして下り道へとかゝる、遙かに霞む越路の山々、布を敷ける如き河の流、幾十里の外なる村も里も一パノラマの内に集まりて、我は世界の外にあるが如し、此處でも一本位は筆を捨てざるを得ずとは厄介な僻の付いたものなり、其頃は若松が汽車の終點で、此處で車を賃して東山へと一里餘の道を走らせ、漸く近づけば、渓流激して泡沫白玉の如く急湍トコロテンの如し、涼風は左右の山頂より吹下つて心清く氣澄み、浮世を知らぬ仙境かな、まづ此邊でも一本筆を捨てようかと、そろそろ出しかけた處が、温泉宿と思つて家號を見れば、貸座敷何々樓とあるには驚いた、數丁通り過ぎて一軒の温泉宿に泊ろうとした處が、お斷りと來た、車夫の説に依ると西洋人などはいつにも來た事がないから、恐ろしがつて泊めぬのだと云ふ、大に弱はつて、猿の湯、狸湯など云ふ妙手古な宿屋を過ぎ、一番向ふの、狢湯と云ふにヤツト交渉が纒つて、上段の間へと通つた、家の構造の立派なる事、箱根あたりに比べて遜色はない、四日程泊まつて、宿屋の裏口だとか、村道の曲角だとか、兎角自分のすいた畫ばかり作らへ、終りの日は雨で、猶翌日も降りそうだから茲で切上げ、歸りはガタ馬車を雇上げて、佐野源左衛門は鎌倉入りと云ふ見ゑで停車場へ馳せ付けた處が、大分時があるので、一寸會津の城跡を吊ひ、白虎隊の山やサヾ工堂は遠方より見上げて偉蹟を頌し、歸りがけに二三軒道具屋を冷かして、偖滞りなく汽車が動きだせば、再び磐梯の雲や猪苗代の浪、秋風ぞ吹く白河の停車場前の宿屋に其夜は泊リ、翌朝は阿武隈川の橋の邊で一枚を得て書過ぎには再び汽車に運ばれつゝ十時過ぎに上野に着けば、公園の電燈青く、客待の車夫の提灯赤し。四境靜かに孤燈幽かなる今満洲の客舎に、當時を追想したる節々、聊か自から慰むこと右の通り
 

第二十七回一等暑熱

 汀鶯曰く猪苗代湖畔山潟には今は停車揚の直ぐ前に湖東館といふ立派な宿屋があるどんな立派な紳士が泊つても差支ない食物の材料は乏しいが主婦は東京の人で料理方も上手であるから都人士と雖も決して口に合はぬといふ恐れはないそして宿屋が本業ではないから心から親切に待遇して呉れる景色のよい處であるから志ある人は安心して往て可なりである

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