夏期講習會雜感

曙幅?
『みづゑ』第十七 P.14
明治39年10月3日

 先生方からは詳に會の模樣や之に對する御意見等が發表せらるゝ事と思ふからして、僕は講習生、殊に田舎出のそれの立場より、此會に對する雜感を書き列て、地方の諸君の御參考の一端に仕度いと思ふのである。
 地方の者としては中央畫界の状況や、大家方の作品や又其意見やを、直接に見聞仕度いのは萬々ではあるがそれが中々思ふに任せぬのである。僅に雜誌の如きを透して窺ひ得る位に過ぎないので、誠に心細い譯である。
 所で、時は、これ人々が、避暑といつて、山の麓に水の邊に趨るの時節サア來へ手を執ツて教て遣らふ、參考品は山の如くである、地は山に近く水に接して風光明媚である、加之萬事簡便と迄言添えてある、僕等に取ては天來の福音である而て夫れを遣らふといふ方は中央畫界に於る鏘々たる先生方であるのではないか。
 夫で僕の想像では時節柄定めて希望者が多いだらうし水彩講習所邊の人々も擧て出席さるゝであらう、此多くの勝れたる人々と同席で勉強するのであるから、如何に多大の裨益を得らるゝであらうかと、喜びに堪えなかつたのである。
 成程青梅はよい處である、到る處寫生の材料に富んで居る、先此會の如きには最も適して居る事は誰も認めたのである、且つ其地の有力者の多くが、斯道有數のアマチュアであつた事は、實に喜ばしかつたのである。
 扨て、會に於て、僕等の最も嬉く思つたのは、講師の指導の懇切を極めた事で、そしてそれが中々六ヶしいことではあるが、一々筆を執て其人々々のそれにあてはまる樣に別々に懇に批評し説話された事、又日々僕等と一所に寫生を親しくされて、それが又、僕等を指導するが爲に、殊更に其筆を所謂研究的態度の模範を示す爲にのみ動かされた事。それから講師と僕等と、僕等同志との間に何の隔てもなく、萬事家族的(無邪氣)にいつて居た事など、嬉しかつた事なのである、それは僕等の或者が、「歸國後青梅戀しと思ひ出すに違ひないぜ」と、いつたのに、皆が思はず同じたのでも分る。
 何分大家の傍に、其運筆と其説明とを聴きつゝ、怠りなく練習するのであるから、同席諸君の技の進歩は素的で、講師も滿足生徒も滿足といふ、誠に目出度い結果を得たのである、實に此三週日が、獨學者の二年にも三年にも該當するといつて差支はあるまいと思ふは僕のみでありますまい、講師も此三週日が、水彩畫講習所の五ヶ月(日曜のみなれば)にも當るよといはれた。夫から必要の費用の事であるが、會費、宿料、旅費、それから紙や繪具の補充費(多くは要らぬが兎角或色などに缺乏を來したがるから)其他少しの用意がああれば澤山であるので、一向懸らぬのであつた、序に此次の出席者のためにいひたい事は紙や繪具は東京と地方とは直段が餘程違ふ事で最初少く用意したらばあとは皆と聯合して文房堂邊りから取寄せた方が最も便利であるマア一例を擧ぐると(文房堂ハ品ニヨツテハ目録ヨリズツト安い)。ワツトマン紙が、僕の地方では四十三錢のが東京では三十鋒、十二錢の鉛管入が七錢、四十五錢の乾製が卅錢以下といふ風で、どうも違ふのには恐れ入る。
 場所が山近てあるから、夏股引に足袋位は、用意せねばならぬ、螫毒を治する藥でも、用意したらば、猶更結構であると思ふた。スケツチ箱は先づ々々用意仕度い至極便利であるから、併し必ずとはいはぬ、三脚は、是非用意すべく、畫板も二枚以上は要る、(紙は勿論水貼)四切以上をかく氣ならば、畫架も必要である。
 先以上の如くであるが僕の希望は家族的を今一歩進めて講師も生徒も凡て一室に起居をして全く隔てを去るとなつたら一ト際成績をして進め得られたであらふと思ふ併し望蜀の識は免れぬかも知れぬ、又遠近法の講義をして、更に、有功ならしめ度いと思ふたのである。
 終に臨んで、僕は始て學ぶと否とに係はらず、地方の篤志家は、兎に角一度は、此くの如き會に、必ず出席し給へと勸告するのである。

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