青梅講習會の所感
宮沢汀煙ミヤザワテイエン 作者一覧へ
宮澤汀煙
『みづゑ』第十七 P.17
明治39年10月3日
吾々廿有餘の健兒は、青梅町は坂上旅舎樓上に居を占め、大下丸山諸先生の評に、三七廿一日間をば、尤も愉快に尤も嬉しく悲しくナツトドツコヱ樂しく暮したのであるが、余は此間程深き或趣味を持つて暮した事は未だ嘗つて無いのである、この講習會の所感を述べるに付て、余は先第一に、大下丸山諸先生の風采をば、未だ御存じ無諸君の爲茲に記するの光榮を有する者と思ふ、大下先生は身長六尺有餘、大兵肥滿の方、(汀鶯曰、實際は痩せて糸の如くに候)顔に少許の痘痕あり、其目元口元の愛嬌は實にこぼるゝ許り、(又曰く愛嬌は昔はあつたが今は皆飜れて何も無之候)謹嚴なる内一種不思講議に人を引き附けらるる魔力を有せらる、又丸山先生は四尺有餘の短身痩骨の人、鼻下の長髯はピンとひねつてガイゼル式、キツト一文字に引き締つたる其口元、只憾むらくは眼光恰も大蛇の人を睨むが如き感あるのみ、この大蛇は、先生がツイ先達、御嶽山上悪雲朦々たる内、既に既に呑れんとしたるを危く逃かへられたりと云はれたるものとは申す迄もない、先生の洒落に至つては大々的奇抜にして、勢に乗じては奇語百出一吐億里の元氣をもてせらるゝが故、大抵の者は吹き飛ばされてアツト尻餅を搗くのみ。其罪なき洒落眞の可笑味は、腹の底より馬なられどヒンヒンと出ては笑聲ドツト起り、坂上階上も爲に破壊せんとする有樣でありし、斯る面白き慈愛ある諸先生の膝下に、余等は今古比類なき尤も着實なる講習をなせしは、實に欣喜措く能はざる所である。
青梅町は聞きしに優れる閑雅なる所、町の傍らを流るゝ玉川の水清く、翠又濃やかにして、名所古跡にも乏しく無い。加ふるに土地士民の心の美しさ、他の滔々濁流に溺るゝ其内にあつて、茲許りは神の住家の其儘である、山の手緑翠滴る内、宏壮なる建物は青梅小學校で、吾々の教室は其の講堂内に設けられ、朝夕いつも通ひし余の眼先には、彷彿として未だアリアリとして居る(つゞく)