ジヨン、セル、コツトマン(三)
青人
『みづゑ』第十八
明治39年11月3日
コツトマンもダウソン、ターナーの好古癖にかぶれつ、常に建築物を愛しぬ。また繪畫の出版を爲せしも好果はあらざりき、これが爲に繪畫の作製を妨げられたる程なりき。ヤーマウスに卜居してより氏が作品中最好の油繪を得たり。殊に海の繪の多きこと空前なりける。一世紀の最初の十年間はターナーは海の雄大なる恐しさを描きぬ。又航海者の愛すべき事、忍耐等をも描きぬ。實に從來畫家の企及ばざる描法なり。
總て海を描ける繪畫は何となう演劇的なれども、コヅトマンの書にはこの臭味更になかりき。コツトマンはターナーの概念の宏大に抵抗せざりき。またせんとも望まざりき。まことターナーの畫は海の攪亂、軋礫、渾沌、破壊等より來る美を描けるなりける。コツトマンの視方も眞實の視方にてターナーに比して遜色なかりき。氏はターナーの如く國民の勝利、冒險、凶事等の活溌なる恐ろしき状態を寫さで、死てふ事に關する深き思想の含蓄したるものを描けるなり。惟ふに氏が作品も氏の境遇に依りて産出したるものなるべし。氏が海の作品多かる中にフイツシングボーツ、オツフ、ヤーマウスの如き好適例なり。此の畫は數年間賣れずして氏が家に藏したりしが、一八三四年に三ポンド三シルリングに賣れける。氏の畫も稀には賣るゝことあるも、十ポンド内外にて僅に繪具、カンヴァスの代價を得るに過ぎざりき。一八一七年にコツトマンはノルマンデーに行きぬ。英國を去りしこと二回一八一八年と一八二〇年にて、又ノルマンデーに閉籠ることゝなりぬ。繪の出版はあまりに結果よからず、出版畫の多くは意匠の點は見るべきものありしかども、色彩の點に於て失敗に了れるなり。當時好んで藍色と黄色の強き對照を施して屡失敗しぬ。ゼ、チエチユー、イン、ノーマンデーはホイツトビー附近の建物を基礎として組立をなし、藍色と鳶色とを施して、好結果を得たりき。その繪は秋の杜の鳶色にして、その霧深き影が藍色なりき。こゝに到ツて氏が繪の直接にて單一なるが、變じて微妙に色彩の融和を計りて出來得る丈工夫を凝らしけるなり。此の繪の完成前、氏はノールウイツチに歸りぬ。ノーマンデーの出版にて氏の名、世に喧傳しければ、こゝに希望も回復して、一八二三年にセントマーチンス、パレース、プレーンに一家を構えぬ。こゝにて數年間仕事を續けしかども、またも失望に了りぬ。家族の增すに隨て費用もいや增すに、収入は依然たるものなれば、數年の間に恐るべき憂愁の淵に沈みぬ。
一八三四年にやゝ好方面に向へるなるべく、そは倫敦に歸るの折を得て、而してキングスカレーヂの教師となれるなりける。かゝる好都合の機を得たりしは老友ターナーの激稱預ッて力ありけるなり。
爾來コツトマンは冥するまで倫敦に仕事を續けつ。以前よりはやゝ幸福に近きしかども、作品は依然として少かりき。さわれ展覽會に出したる繪畫は從來より苦心の作にてありき。而して又屡肖像畫も出陳しぬ、油繪にも筆を執らざりしにもあらねど、好んで組立の研究に耽りつ、氏の晩年は此の研究に依りて其名嘖々たりき。一八四一年の秋に氏はノイルフオルクに下行しぬ。折しも暴風雨の期節とて洪水のありければ、隨處に好畫題を得て鳶色の紙に黒白のチョークもて描きぬ。こは無論油繪となすべき企圖なりき。此の未製品がノールウイツチ博物館に今猶存し。此の研究畫は立派なる畫となり居るものなり。フロム、マイファーザースホーム、アツトスオルブと題して、庭園の前景にてヤールの美景を畫けるものなり。
有名なる繪畫は松の木が代表物にて、其他種々あれども、多くは研究に止まれり。これ等は繪畫として受取り難きは遺憾なれども、兎に角にコツトマンの作品としては良好なるものとすべし。晩年の研究畫中ストームオツフクロマー及びゼウオールドアフロートの如きは最も感ずべきものなり。前者は組立中に宏大てふ事と奇異てふ事との現はれたり。こはコツトマンの作品としては新方面なり。ゼウオールドアフロートには氏には未前の引締りたる處ある情性を描けり。此畫を探究するに破船や暴風雨時の重き空氣に押付けらるゝ光景、折れたる木の枝、倒れたる草等宛ら氏が生涯の反影とも見らるべく、實に氏が悲慘の記録を偲はるゝなり。
これ氏が燈の將に消えなんとして先づ明るき一刹那なりき。一八四二年の夏、燈の油盡きたらんやうに、氏は老衰病にて苦痛なく永き眠に就きけるなり。(未完)