半窓餘話

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第十八
明治39年11月3日

 イヤ、能くお出に成りました、サーずつと、餘程寒く成りましたな、ハー、寫生には好い時候で、ソーです繪も樂しみに畫いて居ると中々好いもんです、エー、商買にしちやイケません、最早進歩もしなければ好い考へも出ません、何でも道樂にやつてるのが一番、ナーニ見かけ倒しです、畫家ナンテ云ふものは、ダガ呑氣ナもんですナ、アナタなぞはこれからだ、商買屋にならずに大勉強、大研究を爲さい、一日研究をするとしないとは、先きになつて非常な相違です、ハー、其内出かけませう、立川から多摩川の方が好いでしよう、あの方面なら脱つれつこ無しです、エー隨分方々歩きました、アナタ位の時分にはヤタラ無性に出かけたもんです、今じやイケません、もう此年ですもの、ソー大森から川崎の方も前は好かったものです、鈴が森ンとこは海岸が崩づれて居て、砂ツパも面白かつたのですが、今じや立派な石厓になつてしまつて、風致を無くしました、あれから神奈川までの景色も、今はつまりません、目白から雜司ケ谷は昔から畫家の巣でした、今でも森の中や、肥タゴの陰には始終畫家を見かけるそうですが、あの邊は一體に家が殖えて、つまらなくなりました、板橋の方ですか、ハーあれから赤羽、川口へかけては大分お百度を蹈んだもんです、荒川の渡の處はいつ行つて見ても好い心持です、彼處の善光寺の近所も一寸面自いんですよ、ソー墓場があつて、こつちには遠く秩父の連山を見渡して、だが冬の寒い事といつたら、山から雪風が來るので非常です、板橋からコッチへ廻はつて大塚から護國寺の邊も、前程に面白くは無いが、マー我慢頃です、行つて御覽なさい、ハー戸山の原ですか、アノ邊は面白い處も有りませんね、原ッパの中に立木でも畫く位なもんです、飛鳥山ですか、俗です、併し紅葉の頃は面白い畫題があります、千住の方ですか、アノ邊も惡くは無いが、製造處の烟突がウルさい上に、烟の爲めに木でも家でも黑つぽくなつて居ます、大して難有い景色もありません、少し離れて三河島の邊へ來ると、向ふに道灌山當りを眺め、田には木立がチラチラと映じて、一寸ヲツな位置もあります、イヤそれよりも大橋から荒川堤を岩淵の方へ行つて、御覽見なさい、田舍じみた好い處がありますぜ、ソーですな市川の方も面白いのですが、渡しの近處は意氣な家が殖へて、土手を修繕したりして、餘程權利を侵害されました、眞間の入江は秋から冬枯時分が趣が有るのです、能く出かけました、アノ邊へは今じや電車もあるし、汽車もあるんで大にラクですが、私の若い時分などは鐵道馬車に一錢蒸汽、ソレも吾妻橋から奥へはまだ無かつた時分で、イヤでも行脚と來たのです、一日五里位歩いて三枚位のスケッチを、鬼の首とメシも食はずに歩き廻はつたものですが、ソレを思ふと今の若い諸君は幸福ですよ、ハハハハハハ、堀切へも汽車で行かれるし、中野へは電車でツーです、その代り前に好かった處も電車や汽車の爲めに、スツカリ駄目になつたのも有りますから一がいには云はれません、何にか寫生のお談ですか、マー、ナンですな、寫生に一番大切なることは、天然を相違なく見分けることゝ、又之を見た通りに紙上に現はすことです、ハー、私なぞも其通りで好い位置を見付けるまで、無暗に歩いたもんです、人の家をノゾいて怪まれたり路次に曲り込んで犬に吼へられたリ、ハハハハ、併しアレが面白いもんですが、ドーモ、マゴつきだすと中々好い場處が見付らんものでそれですから此節では、成丈歩かぬように、又身體や手を勞らさぬようにして位置を捜索します、デスカラ、唯旅行なり遠足なりやつても、何處にはどんな風な所があつたつけ、アノ樹が紅葉したら後ろの山との關係がドーなるとか、彼處は曇つた日に行つた方が能いとか云ふ事を、前に極めて置いて、イキナリ其處へ行つて寫生します、ハー、マゴツク恐れはない、併し之れで失錯した事は、先年麻布の奥の方でした、好いエゾ菊の畠を一寸ニランで置いて其後大仕掛で出かけて行った、門の脇の持主だか番人だかに交渉した處が、ドー有つても畫いてはならぬと云ふので、無理に畫くと云ふ譯にも行かず、スゴスゴと立歸りました、然るに、或時小石川の江戸川端でやりましたが、念の爲め前に交番に伺つて差支ないと云ふので初めた、エー、人は黑山のようにタカリます、そうすると、巡査がワザワザ來て人を制する、皆逃げてしまう、之れは前に交渉して置いたからで、護衛付で寫生した事もあります、ナーニ、段々慣れると直きに位置が見付かるようになります、尤も頭腦を鋭敏にし目玉を見張つて少しも油斷なしに歩くのです、ソーすると向ふの方の森の景色がピカリと電氣の樣に頭腦に感じる、ト同時に向ふの色や明暗の關係調子が一時に目玉の底に整列する、頭腦には已に繪が出來たのです、ソーなれば最早迷つてはいけない、此先へ行つたらまだ好い處もあるだろう、ナンテ事を云つてはいけません、好いと思つたらモー其處に極めるのです、猶豫なく道具を並べるのです、ドシドシ繪の具を塗るのです、始めに自分の頭腦に感じたのが一番慥しかなもので、能い位置能い景色だと思ふ其瞬間は、所謂インスピレーションをうけたのです、無我無心の域に得た神の悟りです、此間に於ては人間の俗界は有りません、美術の神聖なる其源は此處です、實に難有く勿體ないもんです、

佐藤清筆

 南無妙法蓮陀佛、混ぜ返へしつこ無しサ、ハハハハ、イヤ實際ですよ、それから色を塗るにも、一寸見れば、アレは何の色、之は何と何の色ツと直ぐに調合して畫くことの出來るようになる、畫家の頭腦は反射鏡で、天然が反射して繪具箱へと行く、其處へ筆が行つて其通りの色を紙面へ塗る、其間に猶豫は無い、グズグズと彼の色でも無い、此色でも實際に違うなんて、時々刻々に變化し去る自然を前に置いて、繪具の相談とは餘り呑氣でサ、ソーです、スケッチは色の關係調子のスケッチです、遠山のブリユー、田畆のグリーンを研究する以上に目標を置くのです、色がナマだと云ふのは、遠山のブリユーを只ブリユーとしてのみ研究し、他との關係調子を研究しないから起るのですナ、自然の色は一物のみを別にして研究することは出來ません、皆他の色との均衡に依るのです、マー例へば君方がピヤノを學ばれます、彈いて居る間に、フラツトに彈くべき音を一寸間違ひて並に彈く、シマッタと思つてフラツトに彈き直しても、耳に感じる音は全くのフラツトでは無いように覺える、之れは耳には、其フラツトの音一つのみが感じるのでは無くして、他の音との調和が感じるからであります、色の調子は恰かも之れと均しいもんです、大抵お分りになりましたか、之れは筋道ですが、ナニ直きにお分りです、マー理屈は理屈として暫く棚へ預けて置いても宜いですから、實際に付いて特別的大研究をやつて御覽なさい、エーエ、道理の方は自然に後から分かつて來ます、マー、能いでしよう、ユックリ爲さい、ソーですか、それでは又お出ぐ下さい、私も其内御一所に出かけませう、サヨナラ、失禮、
 

海老名研二寄

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