寄書 文房堂に與ふ
上野白眼生
『みづゑ』第十八
明治39年11月3日
近時水彩畫の流行は延て水彩畫用具の需用となり、東廛西肆相競て顧客を呼ふの有樣なるも、神田神保町文房堂の如きは蓋し此業の老舖として巨細百備し製品又堅實の稱あれども、頃者新築移轉して新たに店舖を開くや少壯の店員が然も傲慢不遜聳眉曠歩の態度を以て客に接するは大に我輩の意を得さる所のものたり、敢て★諛の巧言令色を欣ぶものに非さるも見やう見眞似に十有二三の木ツ葉丁稚に至るまで之に似たる惡風に感染しっゝあるは决して同店の爲めに欣ぶべきにあらず、然も自己が老舖を誇り賣品の饒多を鼻にかけ店頭裝飾の珍奇を衒ひ得て尊大の風を示さんが爲めに如此態度をなすが如きは决して識者の行爲にあらず亦怜痢なる改善進暢の商業法にあらさるなり、吾輩は如此輕佻の待遇に接する如に彼等が虚榮の憐むべくして心事の懦陋は寧ろ噴飯に與へすべきも、未だ深く同店を知らざる者や淑良なる婦女子の如きは如此待遇に遇ふ如にその跳梁の風を訴へざる稀なり、蓋し永遠の事業は最も持重切實なるを要す、文房堂なるもの今日の小成功に安ずるなく此の惡風を一掃して然も東都模範的の一商賈として益々此業の發達を期さんとはせずや同店を愛するの餘り敢て痛棒を加へて一鍼とす、