日本の秋[中]

澤四丁
『みづゑ』第十九 P.10
明治39年12月3日

日本の秋〔中〕
 澤四丁譯
 幸にも此人々は到る處に於て容易に動かない強固な團體を形成して居る。で進歩的の日本ですらもキモノや小鍬を仕立の惡い洋袴や蒸汽仕掛けの耕作器とするのはまだ餘程先の事であらう。東海道鐵道は濱松から神戸迄十二時間を要するで東京から新しい旅行券の來るのを待つて居る間に、此慈恵港の周圍の、美麗な田園を猶更に見る時を得たのである。須磨や舞古附近の海岸から其以西はなかなか景色が佳良。でこれに接して、明石の海峡がある。海水は其間を絶えず流通して居つて、小は漁船から、大は欧米航海の大汽船に到るまで、こゝを通行して居るのである淡路の島は内海の關門を兩端の少しを明けて横斷して居るが、潮流は鳴門海峡を通じて、淡路と四國の間を南に、激しく突き當つて居る。普通航海はこゝを通るのであるが、激潮の爲に時とすると航悔が出來ない位である。明石にはダイミヨーの城がある。首要なる建物は既にないが、其城址は今茶畑となつて居る礎の石垣や隅々の井樓や濠や如何にも要害堅固な城であつたといふことを示して居る。でこれから眺望せられる景色は、西方は内海、南方は四國の山山、東は大阪灣と大和の丘陵等が重なるもので頗る絶佳なものだ。舞子には妙な鳶色の曲り紆つた古怪な松の木がある。これはあらゆる美術家、就中く日本の美術家に稱玩されて居る。

アルフレツド、パルソンズ筆

 須磨附近は到るところに、すゝきのやうな草の中に、深紅色の百合が優麗しく咲いて居る、此花の植物學の學名は、百合(lily)よりは宮人草屬(Amaryllis)に似て居て、(NerineJaponica)である。此日本名は處に依て名が違ふので、容易に斷定が出來ない。數名を擧けると、「シワタバナ」「テクサリ」「チリツヂ」「ウシノニンニク」(牛の葫)等であるが、思ふに最も普通な名は「ヒガンバナ」(書夜平分の花)でこれが最も可い名である。何故といふと、此花の峡くのは氣候の變目の兆であるから。此花は外國人の目には甚だ美麗に見えるが、日本人には不吉の花としてある、で此花から聯想するものは、死、滅亡である。恐らくは此故でこれを畫にもかゝず、花園にも植ゑないのであらう。實に小供等は此花を一握位折つて手にするが、決して屋内へは持て這入ない。で集めたものは、家族の墓場のわたりに打遣るか、たゞしは通路に捨てゝしまうのである。小供等は此莖が抜け易いので、摘むのを好むらしい。で路傍に腰打掛けて、花の莖を半分に裂いて、輪にして繋いで居る、丁度欧米の子供等か蒲英や雛菊で繋いで遊ぶやうに。稻田の近くの小さな墓所の近所には盛んに此花が成長して居つて、灰色の石塔や、黄色な穀物、灰白、藍色の遠い丘陵やの前景として、燃ゆるばかりの瑰麗な色彩を彩つて居るのである。稻は速に實りつゝあり稲鳥の群は野から野へと鳥追に追はれるかの如く忙しく飛廻つて居る。自分は日本の案山子か寫生した。これは到る處に澤山あるが、あれを見る度に笑にずには居られなかつた。案山子になかなか工夫したもので不思講に滑稽に出來て居る。小鳥等も自分と同じくこれを見て喜んで居るらしい。此案山子を見て、はしなくも南カロリナの蝿取機絨のある客室を思俘べた。其器械といふのは弾器歯車装置の風車で、卓子の上に据えてあるのだ。自分は主人にこれで蝿が除けられるかと問ねたら、「初の内は幾分か除けたが、今では此上へ止つて共に廻轉て居る」との答であつた。
 

秋の街道和賀井汀波畫

 海岸は常に人々が元氣で、なかなか活發だ。唐銅仕立の肌の漁夫は狹い白い褌の外は裸で、舟中辮當をつかつて居たり、舟を陸へ曳上げたり、または網を曳く、或は船を操縦り、ヴヱニスの遊船漕のやうに、舟端に立つて、曲つた長い櫓を前の方に突出しては後へ曳いて腰を曲げて漕いで小さな帆前船は日本畫によくある奴であるが、單一な長方形の帆を着けて居る。此帆は木綿の幾條をも共に裕かに滕附てあるので、大きな船は船首にも帆を着ける。
 「フタヽピ」摩耶山其他神戸の後に峙つて居る岳陵は海岸として見るべき價値がある、實に好風景の逍遙地であるのだ。此諸山の後の田園を居留地部内では普通「イデン」(花園)といつて居る。といふのは此の山には累々たる花崗の奇石が露出して居て、強雨の爲めに縫合された其間にちよぼりちよぼりと藪が出來て居るからで。隣村からの擔夫等はこれを薪に切つて行く、で數錢を得んが爲に數哩の處をこの重荷を背員つて行くのである。山村の一である有馬には、温泉があつて、浴客常に數百、しかし湯元で見たやうな、古風なものでなくて、能く萬事が整頓して居る。湯も化粧室も、内氣な外國人に對して充分適して居た。湯には鐵氣を多く含んで居るので、湯から出ると赤い沈澱物が身體に附着して、數日間は取れない位である。此遊行では長靴が病院へ這入つて居たので、日本履物を試みた。それは木綿の厚い襪と藁の鞋で、初は甚だ輕くて、氣持がよかつたが後になると小石に躓くのが心配でたまらなかつた。神戸へ歸つて來たときは苦痛は烈しいし、足には肉刺が澤山出來て居た。此鞋を履く外國人は多くは指の間ん固く結ぶ。族行に慣れた人や山を歩む人々は必ずこれを用ゐる。重い長靴も履いて居たれど、隨分重荷なもので、鞋ならば、履くにも脱ぐにも早く、荷物の外側へ一二足縊付たとて、左程厄介でもない。十月の六日に、自分は松と砂山の繪も寫了り、三ケ月間東海道附近を族行許可の、新しい族行券も來たので、神戸への良友等が意に入りの倶樂部に訣別を告げた。松場も妻や家族を殘して再び自分に隨從した。
 

アルフレツド.パルソンス筆

 行手は彦根から幾哩でもない、琵琶湖に沿ふた小さい町の松原であつた。自分が鐵道で通つたときは湖水の縁の水に浸された處に、藍色の花が咲いた水草が一ばいで、藍色の水が遠い山の前景として、なかなか佳ので、藍色の空の時に此繪を仕上げたいと思ふた居つたが、それに殆んど出合なかつた。自分の宿つた茶屋の近くの空地に族芝居が立つて居た。竹の棒を立て、それに莚を張つてある。これは見物人を濡すまといふのから割出したのではないのだ。で自分が滞在して居た間、技を演じた日は幾日でもなかつた。此座頭が自分の憐室に居つた。サミセンの妙手で、人間も實直なものであつた。毎朝六時から六時半迄、單調な歌聲で、祈祷を上げる。其文句は自分には、二つの木片を叩いて調子を取りながら、「ヤ、ヤ、コラノ」とやうに聞ゑる。此人は佛教のシンゴン宗に屬して居るのだ。モント宗の祈祷の型は「ナムアミダブヅ」で、あらゆる大都會にある、大ホンガンヂの寺に附いて居るので、最も通俗な有力なものである。でニチレン宗徒は太鼓を鼓きながら、「ナムミョウホウレンゲキョウ」と絶ゑず呻つて居る。

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