樂しき一日

丸山晩霞マルヤマバンカ(1867-1942) 作者一覧へ

丸山晩霞
『みづゑ』第十九 P.14-16
明治39年12月3日

 田園にありて平和の自然を友とし、新しき空氣を呼吸し、しき緑を眺め居りし頃は別に異感も起らざりしが、都塵の裡なる汚穢の樹木に見馴れし眼を、田舎に轉じ山野に移すと、自然の美彩はこのとき深き印象を頭腦に刻み込まるゝ。吾が樂しとする處のものは、いふまでも無く郊外寫生なり。古りて汚れたる市中を出でゝ、新しき空氣と新らしき色彩に富める郊に出でゝ研究の筆を握ると、心身爽かになりて畫想の外何ものも無く、吾樂しみの唯一は之以上にあらざるなり。吾等の講習所は毎日曜日に開かれ、雨なき日は何日も郊外寫生に出で、電車の便を利用すれば束の間に市外の樂土を辿り得らるゝなり。或時は品川海岸、或時は各所の花園、或時は汽船を賃して隅田河を溯り、小梅、堀切の新緑さては綾瀬の蘆花停舟を描き、隅田の堤頭艫聾に興を湧かす事あり。
 過ぎつる初秋隅田村田甫寫生の歸途、待乳山の夕陽を言問停船場に賞しつゝ、來る日曜日は朝來王子瀧の川々畔に寫生せん事を議り、午前八前までに上野停車場に集合する事、王子に近き人々は直に該所に行く事、吾は道順の都合より田端にて乗車する事を約して別れき。
 

第九十二回秋の夜一等

 初秋の天候は兎角に曇勝ちにて秋雨連日に渉り、樂しく待ち佗びし日は明日となれど雨の霽る可くも思はれざりき、吾は大に失望して樂しき明日を斷念するに至れり。
 樂しき日とはなりぬ、夜半に聞こえし軒の垂滴の音は絶ちて、田端の森に響ける汽笛の音は何日もより近く聞へぬ、寝巻のまゝ雨戸をかへ遣れば圖らざる晴天にて、快晴の空は澄み渡りて一點の雲だに無し、天候は吾等に福したるを感謝して早速装を調ひて出發す。
 秋ぞ深し。田端の森に錆聲の蝉鳴く。汚泥の坂路を下りて停車場に入れば、上野方面より汽車到れり。時を要する事稀なれば吾時計の正時を報ず可きにあらす今日の一行の乗れるは必ずこの汽車ならんと、續ける列車の窓に注意なすも吾を迎ふる一行の影もなし、不思儀の眉をひそめて車室に入れば乗客あふれて腰を容るゝの餘席なし。三河島田甫の秋色を眺むる間に王子停車場に着。
 こゝに下車したるは余と女客二人ありしみなれば、この列車は約束の時間に發車せしものにあらざるを思惟し、停車場の時計は七時三十分にて規定の時より早き事五十分、かゝる失敗は余として珍ら敷事にあらざるなり。半時間以上を停車場にて待つ可くもあらざれば飛鳥山を逍遙す。この山の昔時にありては紅葉の名所なりとか、今は櫻の名所として僅に残る楓樹は四五株に過ぎざりき。水清くして空氣新鮮なる山間にありては、櫻樹は秋の正使として最初に紅を呈し、櫻紅葉の美は決して楓樹に譲らざるも、今見る飛鳥山頭の櫻樹は衰れ王子製紙所より吐き出だす黒煙を浴して汚穢を極め、赤紅ものかは少しの黄緑だに存せざるは遺憾なり。山にありて清泉浮く山を出で清泉濁り、山人の清くして都人の汚穢なるは今この櫻樹を見るごとくにあらざるか。種々なる感想を櫻樹に寄せつゝ眼を轉ずれば觀望大なる武藏野の平原は吾が前に展けたり、黄金を染めし王子田甫を流るゝは隅田の上流、白帆四五、日をうけて皆白し。停車場に歸れば時間は來たれり。場中の人々は送迎に世話し。一行を乗せし車は今着せり、下車したる寫生隊の一行は皆前日の約を踏めり、余が約を破りし失敗談を面白しと笑ひつゝ、河に望める王子社の裏門より表門に出で、板橋行きの大路を行過ぎ、後戻りして瀧の河楓樹園に到る。楓樹は皆古樹なり、霜葉に早き爲め緑は夏のまゝにして一枝二枝の薄黄を呈するを見る。若き霜葉又賞すべきなり。
 

第二十九回小春一等

 この度の目的は、綏く流るゝ瀧之河の瀞に樹木又は崕の倒影せし水の研究とにあれば、新瀧の河に歩を移せり。新瀧の河の楓圍に到れば吾等一行の三二茲に待てり、彼等は早く到着して吾等の遅れたるを訴へぬ。この園の楓樹は皆若木なり。樹間の細徑を迂回して河畔に下り、河に望みて三脚を列しぬ。市の近郊には至る處名所ありて、早春の梅より秋の霜葉まで、名所特殊の色の盛りには都俗雜沓を極むれど、平素にありては至て閑靜なる爲め吾等寫生の好適地なり、この地も霜葉の期に早き爲め至極靜穏にてありき、只二三の風雅人の杖を曳けるのみなれば先づ仙境に近しとやいはん。正午となりぬ。余は一行の二三と晝餐を喫す可く園亭に到る。一行のあるものは寫生に熱中し、左手にパンを持ちて喫しつゝ右手に筆を握りて描寫しつゝあり。餐後一同と共に茶を喫さん爲め亭に會して談笑す。こゝを仙境と思ひきや、訪ふ人々を風雅人と思ひきや。扨ては大俗物も入り交りて、吾等が茶話の會合に人無きを機會とし吾が日傘を盗み去れり、惡む可きはこの惡魔憐む可きもこの下賤にこそ。朝より晴天なれば光線の變化多く、午後に至れば、最初描きし濃部の明となりて明部は濃と變化して別物の如く感じ、改寫の時無く之を描くは愚なる爲め午後三時こゝを去る事とせり。こゝより數丁にして小瀑ある某寺の境内に到る。こゝにもまた古楓五六株あり、坂路を下れば河に面して小瀑布あり、瀑といふよりは滴る水といふ可きか。崩れし崖ありて貝殼多く附着せるを見る、こゝも昔は海にてありしなり。天竺牡丹培養を以て有名なる瀧の川康樂園に入れば、數十種は皆花咲きて黄紅白紫亂れて麗はしかりき、切花三四輪求めて園を出で、こゝに一行の三四に別れ、美はしき初秋午後の日を浴びつゝ歸途に就けり。樂しき一日は茲に終りぬ。

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