寄書 荒寥

露光主人
『みづゑ』第十九 P.18
明治39年12月3日

 此の頃、あまりに徒然に覺ゆるものから今朝しも我は、こよなき友寫生帖を懐ろにして、ふと家を出でぬ。常にかまびすしき鹽田浦も打ち續く四五日のあらしにて、休み茶屋などには人の氣はいもなし。只見るは太東岬の鯨の如ぐ、インヂゴ色に綾なせる大海原に横はり、近くの日在浦には地引の網ひけるあるのみ、寂莫荒寥こは、我が心の叫びなりけり。』兎角して、東の方は益々赫くなり雲は愈よ美はしの色彩を呈し來ぬ。先づ入ケッチブック取り出して明け行く空に映ずる砂原を前に、我が嗜好に適せる番小屋を主とし、又遠景には朝霧に霞む新出の山を見て、淋しき内にも平和なる畫一っを爲しぬ。』余念なく筆を走らすうち刻、一刻、日は高くなりぬ。我が畫も亦成功に近つげり。偶々前なる丘に人あるを見る。其の起居宛然景を寫す人の如し。やがて七時ともなりけるに、草は漸く色好く、日に白砂に照り榮えて、美云ふばかりなし。我が畫、茲に漸く成る。則ち立て前の丘に登るに、先きに我が瞥し人は果して畫家にして然も此の人が久しく逢はざりし親友秋月君ならむとは。『やあ君!!!あゝゝゝゝ』互に言ふに辭なく、述ぶるに筆なし、只懐舊の情た堪へず、走り寄りて手を握り合ふばかりなり。
 彼の語る所によるに、四年の昔、我と袂別して以來、彼は一只に洋畫を學び、今は可成の作も出來得との事なるが其の間、父兄の迫害、世間の冷酷、加ふるに資力の缺亡とにより、彼は大なる困苦をせしとの事。然し今は多少の餘裕を得て更に其の技を研くべくこの十日には渡米すべくこゝ四五日の休養に當地に遊べるなりといふ。實に友の顔には何處ともなき希望の光滿ちたりき。」其の日より、余は日毎彼を訪れぬ。彼も亦我が庵戸を叩くを例とせり。十日は早や明日となりぬ。乃ち豫ねての約とて、送別の小宴をこだび逢ひ見し彼の小丘に開きぬ。鳴呼、かの我が畫中の丘!!!汝は幾久しく我が紀念とこそなるならぬ。呑干す麥酒既に數を重ね、醉極まらむとして、興益々深し折しもよし近く管弦の客あり、我が爲めに離別の曲を奏す、其の聾泣くが如く悲しむが如く、慕ふが如く、訴ふるが如く、餘韻嫋々として斷膓の感あり。興は盡きねど夜は更けぬ、即ち近隣なる旗亭に入りて宿せり、翌早朝我が友は、違き海外に旅立てり。我も亦其の次ぎの日千葉の人となりぬ。無味にして單調なる寄宿生活、豈、希望ならむや。只我か心をして慰め且趣味多からしむるは、鹽田浦の某丘の寫生畫一葉のみ。鳴呼、如何にしてか、我、汝と離れ得べき。蝉の聲喧しき夏の緑陰に、白露野に光る初秋の夕、幾何の昔なりしか、今は紅葉の散り敷く晩秋となりぬ。然して變らぬ者は君ばかり。汝の荒れて淋しき其の姿何とて我には嬉しきものかな。」

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