版のなくさみ[一]

山本鼎ヤマモトカナエ(1882-1946) 作者一覧へ

山本鼎
『みづゑ』第二十一 P.3-6
明治40年2月3日

 畫と、版と、印刷、此三つのものゝ働きて、畫家の觀たる『自然』が、衆の人に頒たれる、多の人はまづ初めに畫の出來榮えを賞める、次に印刷の出來榮えを賞める、而してそれで了る、中なる『版』は兎角不遇な身の上です、近頃は種々なる美術的版畫が、七夕式に諸君の眼を眩惑して居る、あれらの多くは、印刷術を見よといふよりは、寧ろインキのカタログを示しておるのて、分けても、其應用されて居る版の種類、及び其技工などに立ち入つて觀ると、頗る單調である事が知れるのです。併しながら、此内にも二つの異つた目的で版畫が成されて居る。即ち一種は、原畫の趣きを尠しも缺損せざらしめんと欲し、たとえ其下描きの鉛筆の線も、おかしき繪の具の滲も、ありのまゝに現れん事を望むもの。一種は又、畫が、版と印刷の特性にいぢられて出來上つた「版畫」の甘味に惚れ込まふとするのとです。而して初めのを望むやうな畫は、寫眞術を應用した腐蝕版に依て以て遂ぐ可く、次のを望む畫は、手工に成り立つ版に依て、畫、刻、刷の熟和して、相害せざるの効果を収めねばなりません。所が、もつてゆき所を誤つて、出來たものは半間に、彫版家には空な勞力を費さしたといふやうな例は屡々見る所です。一二の例を擧げて見ると、藤島武二氏の畫かれた、詩集「毒草」の挿畫などがそれです、墨をかすらした畫用紙の肌目を、後生大事に彫ぢくつた、彫版家の無智、不見識は善しとして、あの畫の性質は、まさに寫眞術を用ひ、ジンク版とか、ゼラチン版とかにかゝつて、はじめて損害のない結果を収むべきものなのです。も一つは、此頃流行の、水彩畫を木版彫刻(板目木版)に附する事です、これは大に無理な所があるにせよ、出來た版畫を見ると、淡雅な、落ちついた、一種の捨て難い趣きがありますし、且又、我國特有の版畫を復活せられた諸君の厚意に對しては、決して敬意を吝むのではありません、併しながら、水彩畫といふ種々な色彩が勝手氣まゝに混くつて居るといふ畫を、濃淡を現す事に不束な、單朴な「板目彫」に負擔さするといふ事は、實際に於て彼の面目を打ち壊して居るものです。幸に世に「三色版」といふものがある、水彩畫ー色彩、濃淡の入り亂れ重り合た畫は、彼に依て、分身するがよろしい、吾々は今、新に此板目彫と眞から馴染むやうな畫を工夫して、恬淡に生れついて、今の世に幅のきかなくなつた彼の面目を、眞實に活してやらねばなるまいと思ふのです。曾て「明星」に載せられた中澤弘光氏の畫かれたる「春日の巫女」などは、同じ心持から試みられたものかと思ひますが、要するに世間一般、「版」といふ事に就ては、冷然として過ぎて居るのです。無駄な仕事、無理な仕事は、殆んど物毎に摘示し得といふも、決して誇張の言ではありません。併しながら、今は左様な批評をする機會ではなく、「素人にたやすく出來る版のなぐさみ」を説くのが僕の務めなのです。
 僕の知て居るのを、自畫石版エツチングチョーク版ニコルソン式木版木口本版の五種とします、此號に於ては、自畫石版の方法を説いて了る事と致しましやう。
 自畫石版
 一昨日さる河岸庫を寫生してかへり、椽に入れて壁に懸けたのを、昨朝味噌汁を啜りながらつくづく眺めて、「これはなかなか面白ろい、一つ自畫石版の畫はがきでも作つて見やうか」と思ひたてば氣が★く、直ぐ樣道具集みにと出かけて、正午頃には、石、クレヲンチヨーク、コロンペーパ、溶き墨、ゴム、針、といふやうなものを抱えて歸つた。全體是等のものは、石版屋に懇意があればそこへ往て一寸借りて來るのも妙ではあるが、瀧山町の、朝日新聞の筋對まで出かければ、一切のものが調つてしまふから、寧ろ其方が氣持がいゝ。尤も、石、といふやつは、新しい大判のを買た日には一寸高價でもあり、持運びや置き所に不便極るから、これは石版屋か、石版用品を商ふ家に頼んでおいて、手頃な、まづ半紙判位なカケラを手に入れる方がいゝ。さて、晝飯が了と机を明るい處へ持ち出して、硯石の蓋を置いて、其上へ石をのせる。これはぐるぐる廻して描くのに都合のいゝためだ、それから原畫の輪廓を畫はがき大に、鉛筆なり、筆なりで謄寫して、其上に、薄美濃か何かよく透ける紙をのせて紅殻で鮮明と書き取る、それを石の上に伏せて、ずらないやうに上から茶碗の胴、若くは爪の尖などでこすると、紅殻は金剛砂で目を起した石の方へ移つてしまふ。此轉寫がすむと、今度はボールの空き箱を以て來て、其上でクレヲンチョークを削りはじめる、眞鍮で出來た挾むものに挾んで、切り出しの良くきれるやつで、とんと薩摩芋の皮を削ぐやうに、尖から手前へけづり取る。此チョークの筆は、なるべく數の多いことを望むが、柔かさの程のよいチョークが一本あればそれでもすむのである。斯くて一切の仕度が調ふと、原畫を傍の見よい所にたてかけて石に對ふ。まづ畫面中の、くつきりと明るくぬけて欲しい所、庫の蔭の所に、ひよろひよろと光つて出た竿とか、日に輝いた白壁の水に映つてきらきらして居る所とかいふ部分を手際能くゴムで塗ておく、否描いておく、これを十分間ばかり乾したのち、クレヲンの筆を把り上げて、畫學紙に鉛筆を走らす時のやうな氣持で、意勢よくずんずん描いてゆく、そして眞黒に現し度い所は溶墨を用ひる。併し此眞黒に現る溶き墨といふやつ、砂目と調和させるには、餘程巧にやらないと、卑しい感じになるから、寫眞的に、物の蔭影を現そふとする畫には、なるべくクレヲンチョーク一方で仕上げた方が良い。それから此黒版ー本版を作る場合に、色版との關係を精しく考へて見る事が肝要で、例えて見れば、ばらばらとした砂目の上に薄いブラウンがかゝつたらどんな調子に見えるだろうとか、此處の所は、寧ろ色版の方て調子を現した方が氣がきいて居やう、とかいふ風にだ。けれどもこれは、二三度失敗して見てからでないと、熟くのみ込めないかも知れない。
 それで、チヨークの仕事が了ると、次に針をとる、此針は、小さなナイフの尖、若くは疊針を平に砥いだものでよろしい、つまりは石ががりがりと容易に削れゝばよいのである。全體此針といふものを巧に使ふと、なかなか雅致のある面白いものが出來る、多くの場合は、ものゝハイライトをぬくとか、描きすぎの箇所を削りとるとかに用ひられて居るけれども、クレヲンや、溶き墨はたゞその地色を作るだけに用ひて、此針一本で巧に畫を現して居るものが、西洋の雜誌などでは屡々見る。これで墨版―即ち本版は出來上つたが、次に三枚の色版を作らねばならぬ、それには是非とも、石を石版屋に擔いで往て、他の石へなり、又石の餘白へなり色版の數だけの轉寫をしてもらわねばならむのだ。而して此本版の轉寫を見當にして、又本版の時と同じ方法で色版をかく。併し此色版といふのが、ものに由てはなかなかむづかしいので。本版の描き法が複雜な場合―即ちクレヲンの線が縦横にひつ絡んで畫が現て居るといふやうな時には、色版は殆んどつぶしのやうに單純な調子にやり、本版が單調に出來て居る場合には、色版は複雜な細工でゆけば無難であると言えるにもせよ、常に本版と色版の調和―即ち装飾的とか、寫實的とかいふ、性質の統一―整理を熟く考へてかゝらればならない。こうして一個の本版と、三個の色版が翌朝は石版屋に送られ、其日の内にもう、自畫自製の、珍らしい、愉快でたまらない版畫が出來上つた。直ちに印紙を貼つて、繪はがき狂の某々々に送る。彼等は何んといつて賞めるたろう。(自畫石版)了り

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