日本の秋[下]

鵜澤四丁ウザワシテイ(1869-1944) 作者一覧へ

鵜澤四丁譯
『みづゑ』第二十一 P.10-15
明治40年2月3日

 自分と座頭とは直に親友となつて、自分の室で茶を呑みながら、自分の寫した畫等を見て、數時間を費すやうになつた。自分も怪しけな日本語で話はしたが、不幸にして座頭の演藝を見るの折を得なかつた。自分がこゝを去るときに座頭は型の附いた木綿の手拭を装飾のある包物に入れてあるのをくれた。で自分も黒の鉛筆を贈つて、互ひに敬意を表して別れた。此外に訪問者が澤山あつた。停車塲の驛長、警部等は自分の繪を見せてくれろといふので。タカキ、オシゲサン、それから小さなカヅ等は鳶色の天鷲絨のやうな眼色で、彦根から自分を呼びに來た。これは「ナガハママツリ」を見せるためである。此毎年の祭禮は十月の中頃にあるので、近郷からは夥しい人出であるらしい。多くの點に於て、これが英國の田舎の市に酷似して居るが、重な事は三日間、「ヤマ」と呼ぶ凱旋車を曳いて廻るので、其上では子供の連中が演劇をやるのである。幸にもすばらしい好天氣であつたので、米原から二人の屈強な車夫に車を曳かせて五哩の平坦な道を辿つた。途中祭禮へ行く人々に遇つた、年寄の百姓やら、美しく着飾つた若い娘や、二斗笊見るやうな大きな竹製の帽子を被つた行脚僧等に。町は町内の工夫で、旗や提灯で美しく飾りを施してある。群衆は陸路やら鐵道船舶で押掛けて來る。長濱は琵琶湖北端の商業頻繁な港で、こゝから南端大津の間には定期航行の汽船がある位である。日本に於ける新舊事物の混交は常に面白く思はれる。殊に長濱に於けるが如きは、新事物が少ないので。乗客を滿載して來る漕舟は船材は塗つてない、弓形に黒い形を置いて飾つてある。警官や鐵道の役人の外は洋服を着けた人は殆ど見ない。殊に婦人になつては、從來の服装をこれ墨守して居るのである。此町で外國人は自分が唯一人であつた。宿の亭主は自分に「ヤマ」が止まつて技を演するのを能く見える場所に注意してくれた。總て座敷の區畫を取彿つて、敷居で四角になつて居る床に、箇々に座布團を布て、食物等を置いて、家内の者かそこに座って居る。自分は美しい古代の漆塗のペントウ箱を丁寧に絹の布呂敷包から出したのを、見たときは、酷く渇望く思ふた。町には十二臺のヤマがあつて、各違つた團體が持つて居る。で其連中で演劇を子供等に教え、衣裳を準備して、祭日のヤマを曳くのである。車は大きなもので、普通日本の家よりは高い。狭い道では殆ど一ぱいだ。ヤマは木製の車輪の上に建つてあつて、人夫が綱で曳張る。其先には若者等が踊りながら聲を張上げて、日中は扇、暗くなつては提灯を振り廻して人夫を指揮して居る。で後から年寄の連中は白い幕を張つた荷車に乗つて尾いて行く。舞臺の周圍の木に細工は金、黒、赤の漆塗で、精密な黄銅製の装飾がしてある。屋根は塔のやうで、磨き金で張つて、其上には龍や鳳凰、或は其他の神仙の動物が載せてある。舞臺の後は支那の刺繍やペルシヤの織物、または絹の花紋織の幕が張つてある。其内の二つのフランダースの花毛氈の美しいもので、數世紀以前に和蘭から渡來つたものに相違ない。快活な婦人や戦士等が立派に武装しては居るが、何となく親しい嬉しい感じがして、自分はこの東洋の群衆中にありて、轉た天涯孤客の感を忘るゝばかりであつた。各舞臺の前には白紙の片を捻つたゴヘイの一束を掛けてある。これはシントウ宗教の一般の徽章で、華美な種々の色彩の中に、極單一なもので、全體の原譜であるかのやうに見える。シントウは祖先崇拝で、猶今國民に刺激を與へて居る、國が人々の英雄的事跡に對して宗教的の尊敬を與へるのである。で子供等が演じて居る短い劇は總て昔の話説に基して居るので、其話説といふのは、ヨリトモの子が何にして、若きミカドか救ひ賜はんが爲めに身を犠牲に供したか等で、其他皆日本の歴史の有名なる事跡である子供等は感服に藝を仕込んであつて、華美しい衣装を着けさせて、大人の本職と全く同じに、眼をぐりぐり睨め廻はし、顔を歪める。群衆は此顔を捻るのを熱心に稱讃して居るのてある。此踊の連中には二歳許の子供が居つた、語を話すことは皆無出來ないが、たゞ一二度聲を立てる、よく自己の役を覺えて居つて、適當の時にば自己の子供の父を見上げる、午後は市中を歩いた。第一には佛教の寺院へ、こゝには人々が集つて寝て、食ふて祈祷して居た。それから長い小路を通つてハチマンのシントウの宮へと行つた。こゝの小屋や板屋には魔術者や掏摸や、軍夫、賣藥行商等其他のものゝ飲食するので、一ぱいであつた。

第三十一回一等枯野

 大きな花崗石のトリイと燈籠の近くには丈の低い松や、實のある橙の木や、杉其他の木のある植木屋があつた。一と處には蘭ばかりあつたが、不幸に花がなかつた。自分は★石へ畫を書く處を見て居る一群へ加はつた、これは★石がないので、地面へ薄灰色の砂を振蒔いた繪具は袋に這入て居て、黒白、赤、藍色の砂である。で袋の中から一握を握出して畫をかく、書方は握拳の下から砂を出すので握方の緩急で、太くも細くも出來るのだ。畫をやる時は、下を向いて、始終饒舌りながら、快速に畫く、出來上ると直に消してしまう。自分は女の形を書いて居るのを見た。初め藍色で女のキモノの形を置いた。それから衣服の蔭を自でそここゝへ線を引いて、顔と手を赤で書いて、終局に黒で大膽な輪廓を附けた。これで畫は出來上ったのである。此國では総て物をするには下を向いてするが、これは自分等の遣方とは全く反對であるのだ。
 

第三十一回一等歳の暮

 夕方が近いて來た。ヤマはのこらず他のシントウの宮の前へ、四角に集り初めた。それから封してある劍の納めてある大ハチマンの車や、神龕のミコシは多人數の肩に荷はれて、そこへ並べられた。此並んだ處の一方の川には舟が澤山碇泊して居る。藺の莚や、日本では極普通になつた赤毛氈や布いて、人々は持寄の宴會を開いて居る。川に掛けてある橋は、いかにもまとまりのつかない形で、これで市中から聲を上げて、群衆がねつて曳いて來る。各引返すときは宮の前で打出しの演劇を演じて、次に山車小屋へ引込むのだ。これが五時半に始まつて、六時に宮の石階の右の方へと、のこらず納めてしまつた。夜になると、山車は大きな提灯を下げて舞臺は硝子張の洋燈をともして、小さな役者が白を言ふときは、細長い棒の先へ蝋燭をつけたのを持つた人が役者の顔を照す。六つの華美なヤマは陪從者が盛装した踊子を乗せて、崇嚴な老杉の後景に對した路へ引出された。狂せんばかりの人々は、山車の前で提灯を振りながら踊つて居る。實にこの盛觀は、自分が筆紙に書せぬ程であつた。かくも人々が狂せんばかりなのにかゝはらず、喧嘩は唯一つしか見なかつた。それは一人の若者が舞臺の方へ近うとして、サケに醉ふて自己の身も持剰して居た大きな人夫を突除けたのだ。數秒の内に打合が始まるなと思ふて居ると、わたりの人々がこの憤激した人物を摘出して若者を舞臺近へ進ました。若者は近眼で眼鏡を掛けて居た。これで平和は直に克復したのである。自分の宿つて居る茶屋への歸途、テンネンジに居る友人と食を共にした。道路には店小屋が澤山並んで居つて、それに陳列てあるものは、煙管、袋物、高價の珠玉や、櫛、簪、其他當世の贅澤品である。自分も僅ばかりを求めた。オシゲサンが、そこの如オない店番であつた。品物は元價は何であらうとも何でも十センと限つてあつた。翌朝早く歩いて見ると、ヤマは既に各町の場所へ移されてあつて、其日に演ずる準備に掃除してあつた。町には火災の憂のない藏が建つて居つて、其内に貴い車を、一年の間安全に納めて置くのである。
 米原附近に、燃ゆるばかりの色彩の實を結んだ柿の木のある果樹園があつた。曾てアンドリユー、マーヴェル氏橙に附いて「緑の夜に金色の玻璃燈の如くに掛つて」といはれた事があつた。自分が寫したセイガンジの庭は、好く造ってあつて、柿が殊に美しかつた。でこれが寺院の庭の好摸範である。一團の常磐木が灰色の巖石に對して感じの可い後景を形造つて居て、丁寧に造つた松や奇麗に苅込んだ灌木があるが、柿の木か、少しばかり赤くなつた楓や、或草木の遅花や赤い實を除くの外は皆緑色や灰色であるのだ。
 

雪和田寅彦筆

 富士の北で、東海道の一小驛鈴川附近の茅屋の庭等のある處に、十月末に少しばかり泊つて居つた。こゝで菊の花を見た。菊は殊更に美麗でもないし、繪にしても仕上がよくないけれども、繪は大分書いた。で日本に止まるべき日數も殘り少なになつて來た。村は老松の生茂つた砂山の後に位して居って、前は駿河灣で、灰色な火山砂が彩しく散かつてある。日本人はこゝを田子の浦と呼んで居る。こゝで漁夫等は碧海に對して、不樣な鳶色な綱で網を曳いて居るが、また淺黄と白い手拭で頭を縛つて、長い紺の着物を着て、網や藁で包んだ魚を提げて、砂原を往來して居る。自分の茶屋は甲州屋といふので、漁夫等の獲物を得て、自慢の料理番が調理した赤または灰色のタイや海老で立派な馳走に預つた。
 眞に美しい菊の花は、横濱へ來て初て見た。丁度十一月の初であつた。自分は菊を戸外で見たいと望んで居つたのに、計らざりき日光や風の爲に凋落の早いのを防禦ぐがために、覆をしてあつたのを見て、失望したが、菊は好く生長して居つて、油紙の覆て光線を柔げた爲に菊の色が見榮がした。菊を仕立てるには丁重なものて、春苗を鉢に植ゑてから、莟を持つ頃まで、肥料をやる。花の咲く前に大膽な配合によりて、鉢から準備された地所へ移すのである。或菊は莖をたゞ一本にしたのがある。これには非常な大きな花が咲く。でこれ等を一列に並べる、各竹を立てゝ花の莖を結んでさゝへて置くが見場はよくない。とはいふものゝ園藝家の上手なといふのは同日に同じ樣に大きな木に、四百有餘の花を咲かせるやうに仕立てるので、可く了解て居る東京の種々の菊花壇(これには皇居内の花園も含んである)、を見た英國の園藝師のいふ處を聞くと、一つの花としては可いのは十と見ないが、これに龍動の博覽會でもそうであつたが、斯樣に大きな木に數百の花を持たせるのは、園藝術の勝利であるといふべきである。菊をそだてる事に付て最不思議なは東京の一隅團子坂で見られる。長い小山のやうな町で、兩側に花園があつて、各竹の垣で境がしてある。各園に三セン宛拂ふて、這入つて見ると、菊の葉と花とで覆ふた人間大の人形がある。これ等は皆歴史、演劇、佛教の神仙傅やらから寫したもので、骨組は竹で造つて、中に植木鉢を潜めて置く、幹や葉の外へ出た處を平に刈込むのである。首と手は木を塗つて作つてある。刀劔や其他の附属物を着けて、猶人らしくしてある。生きた菊の葉と花との織物で巧に大きな褶を作つて、極普道のものは、昔のダイミヤウやサムライの衣服を摸寫してあるので、各入口で番附樣のもをのをくれた。それは廣い紙に木版の粗末な印刷で園藝師の廣告を兼ねて、各部の説明が書いてあるで。
 秋の色彩で、最も美麗しい處の一つは小石川の砲兵工廠の裏の大庭園である。こゝは前の水戸公が晩年の隠家であつたのだ。庭園は數エークル(一工ークルは我四反十八歩)に渉つて、池や島や崇嚴な森や神龕等があつて、確に美麗なものである、しかも幽蓬閑雅を極めて居るので。普通許可がなくてはこゝへは這入れぬのである。王子附近の瀧の川の楓がなかなか佳い。こゝには見物人が群れて、静肅に娯樂んで居る。茶屋の前へ腰を掛けて、茶やサケを飲みながら、樹々や紅楓樹下に逍遥して居る人々の畫のやうな景を見下して。小さな川が瀲★たる漣を湛え、楓葉の深紅色と金色の影を浮べて、緩流して居る。はしなくも日本の詩歌の「龍田川もみちみたれて流るめり渡らは錦中や絶えなん」(("I wish to cross the river,but the fear to cut the broate on its sur-face"))を想起した。其他の詩歌は、「此たび帛もとりあえず手向山紅葉の錦神のまにまに」(("This time I bringon offering,the gods can take the damas of the maple treeson Tamukeyama."))で、今日では附號としてある、「ゴヘイ」の換りにシントウの神々に綿布や絹布を献げる習慣であつた頃から始つて、國民一般に秋の木葉を稱讃することを示して居るのである。
 色彩に非常な變化はないにもせよ、日本は楓のやうに麗はしい草木に富んで居る、鬱金香の黒づんだ葉が、濃い黄色に變はるは。イチヤウ(Salisburia)は蒼白い金色で覆はれる。其他灌木や草や、落葉木やの輝いた種々の染色が常磐の岡丘を飾つて居る杉や松やの崇嚴なる不易の緑を引立たせるやうにつとめて居る。かくして榮光の火焔のうちに、日本の一年は終るのであるが、木の葉がのこらず落ちてしまう前に山茶花や椿がもう一度花が咲いて一月になつて梅が咲くまで續く、實にこれはこの幸福なる國を取巻いて居る美や花の鎖の繼目である。終りに東京で自分の繪を上野美術學校で生徒の爲に展覽會を開いた。其時の校長は岡倉教授で、西洋美術の善良なる智識と日本在來美術のそれとを結合せ美術の悲境を挽回し、既に頽敗滅亡せんとするのを復活せしめやうと企てつゝある人である。氏は他の學校の美術家をも紹介してくれた。中には巴里や羅馬で學んだ人等もあつたが、自分が最も感じたのは、純粋の日本學生の注意や質問であつた日本畫とは頗る相違のある作物中、自然の副産物の外に、或る動機を發見するに熱心であつたのである。
 淺草祭では多くは新年の飾物を賣る、金を爬集める藁の杷、藁袋、ダイコン、赤いタイ、これは皆緑起を祝ふもので、牛の目に矢を貫いた射的は、「目的に命中する」といふ意である。如上のものを福の神の假面の周圍へ並べてある。で自分も幸運を得んが爲に、これを購ふて、十二月の十日に淋い花のない太平洋を横切て航行し去つた。(了)

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