ジヨン、セル、コツトケン[四]
青人
『みづゑ』第二十一 P.16-17
明治40年2月3日
以上がコツトマンの略傳なり。殊更に氏が作品中の劣等なるものに言及せざりしは、美術家を品謄せんには其最上の作品を以てすべきものなればなり。
若し夫れコツトマンにして生活費の充分にてありしならんには、今日研究畫として殘れるものをも、立派なる作品とせられしなるべし。
さわれ如上はコツトマンの一方面のみにて、氏が早き頃の美しき水彩畫は曳いて日本畫にまで連接するに至りぬ。實に建築製圖家としては英國中獨歩なりき。海の畫はターナーのみ近き也あらゆる「美」の微風に感じ易かりしかば、氏か繪畫は凍寒の異れる空氣中に新しき美花を咲かしめたる感あるなりき。世人は氏をして充分に手腕を振るはしめず、また氏の技量を完全の域に至らしめざりしなり。
此の新趣味を幾度か操返しゝも、世人は一向に覺らざりき。實に風景畫家としては、獨りターナーのみ名を擅にして、此の單時代に二人のターナーあらしむるの餘地なかりき。此は決してコツトマンがターナーに劣るといふ事にはあらず。コツトマンは根本的に心情の異りければ、最初より勢力は全く別種たりしかば、互に尊敬し合ひりしなりける。コツトマンはターナーのリバースタヂオラムや其他のものより繪畫を寫して内一枚をターナーに贈りぬ。此の畫は後ターナーが自身の畫として友人に贈りけるなり。これを以て人或はコツトマンを咎むるものあれどもコツトマンは全く獨立の青年畫家たること明々白々たり。たまたまコツトマンがターナーの畫を寫しけるは、レンブラン、ルーベンスの徒がマンテグナを寫したると同精神に他ならず。
されど一時コツトマンの畫が同時代の大家と拮抗し得るとは思はれざりき。双方類似の點は双方の變化のある處と、地方的の限界を離れたる處にあるなり。双方の全く異れる點はターナーは叙事的にてコツトマンは叙情的なるなり。風景畫は其他のものに比して、作者獨特の思想感情が自然に顯はるゝものなること必然の勢なり。自然界に於ける科學的の趣味が近時繪畫の新要素となり來りしかば、此の趣味が美、感動等を度外視するに到つては、たゝ史上の一事として視るべきものなるべし。この科學的の趣味をも大いに顯はし、併せて國民の感情及び人道を描けるは欧洲に於てはそれターナーあるのみ。此の點より余は叙事的なる語を用ゐたるなり。由來叙事詩なるものは個人の心情をのみ描出するに止らず、人間の通有の心情をも寫すべきものなる事也。
扨てコツトマンの位置はいはゞ、これより稍劣れども、畫家及詩人の大多數は叙情的なり。氏が繪畫の重もなる特質は何なりしや。其繪畫中の新しきものは何なりしぞ。概してこれをいはゞ、それ極度に於ける熟錬か。頓て此の熟錬が人を吸引くる力あるなり。好く確に描ける繪畫を見れば、快感を覺ゆるは必然なれども、此の熟錬なるものは人物の大小を上下することの出來得るものならず。其非凡にして價値ある人にして初めてこれを上下することを得べけんなり。
風景畫の凡庸にして生命なきは、如上の資格なきが故なり。即ち實感を想像の最も實在的に印象的なる世界に融化せしむる火力の欠けたるに存するなリ、コツトマンは皮相の觀察に止らで、實に詩的の描寫を爲したるなり。コトマンはたゞ自然界の實在を模擬するに止らざりき。自己の方法に依りて良好と認めたるときは、あらぬ形あるは色をも作りしなり。氏はかく意匠家たりまた創作家たりしの故を以て品位を高うし居るなり。氏が思想の跡を作品によりて覗ふに、クロード、ターナーを除きては恐らくは歐洲に於ては風景畫の創作者は氏と比肩するものあるまじ。勿論氏とても研究畫あるは小品畫は自然を其儘に寫したるものなれども、一箇の繪畫として、形式を供えたるものにてはあらざりき。クロードに於てもこれに過きざるなり。氏の作品にゲーンスポローの妖艶なる美姓はなし、またギルチンが如き柔和かにして大膽なる運筆はなかりき。この二氏は共にルーベンスの流を酌みしものなり。世人は往々にしてコンステーブルの不自然なる繪を見て、清新なる自然畫と誤て稱賛するものあり。コツトマンが作品の巧妙なるはこれに異るものあれども、如上の質の欠けたらんには、これが爲に放逸に流れ、狹溢なる自己流の反覆に陷る危險あるは前陳の如きなり。もし夫れコツトマンの精神がクロード、コローに接近したらんには、かの憂愁無味の偏癖を少くして、その觀察の鋭敏に純潔となりしならん。而して更に思想及情緒の順序も立ちしなるべく。コツトマンは此の二氏の共に有せる美妙と崇高とに、想像の華奢的方面より建築的の嚴格布追加したるなるべし。詮ずるにコツトマンの價値を評定せんには其作品に依つて、其の天賦の才能に依らんには、優に此の二氏と共に比肩の士となすべけんなり。コツトマンを評定するに其の作品の大部分に依てぜんには、大いに公平を欠くの恐あることを記せざるべからず。
(完)