ぬきかき

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氷聲無思
『みづゑ』第二十一 P.18
明治40年2月3日

△二三年前の文庫にこんな事が出てゐた頗る吾が意を得たものだから一寸御覽に入れる
□ヴエラス、チヤギンはマカロフ將軍と共に戦死したゝめ、非凡な大畫家でもあるやうに、大層に評判が高くなつた。併し先生は露西亜でこそ成程大家てはあるが。世界の眼から見たら第二流以下で、モローや、デ、タイユと比べものにはならない、露西亜の美術は、歐洲でも極幼稚であることを忘れてはならない。
□戦争の罪悪を防止する積りで畫いたからエライの、彼は人道の爲に畫筆を揮つたのと、兎角教育や經世の方面に純美術を引込うとするのはよくない傾向だ、純美術は飽く迄も利害得失以上に超越したもので、實利に應用さるゝのはその目的ではない。加藤博士は學問を以て利害を離れて獨立したものだといはれたが、純美術もそれと同じだ。
□かくいへばとて勞働を描いたミレーや、人生の意義を畫き現はしたワッツを排するのではない。彼等はその人格の一部が其畫面に發露したといふまでゞ、銘々の技術がその名を高からしめたのだ。美術家はいくら眼の着けどころがよくても、技倆が伴はねば決して大名を博し得るものではない。
 數年前はコロー、其後ミレー近頃はターナーが大分流行してゐる、これは日本の目が明いて來たのではない、流行の本元はやはり英米の出版物にあるのだ。
□これはターナーですと一枚の寫眞を出すと、ろくに見もしないで『眞に天才だ』と反り身になつて感服する半可先生が多くある。ターナーの特色は尺にも滿たぬ寫眞や原色版でわかるものかこんな先生達をパリやロンドンへ引張つて行つて、ほんとの繪を見せてやりたい。
□ターナー先生の繪には無論感服はするが、評判程のものかは大に疑はれる。由來ラスキンといふ人は片意地ものであつたのだから、随分贔屓があるらしい。
□英國の風景畫家では、僕はターナーよりも寧ろコンステーブルに敬服する。ターナーの天才は大の字つきで我々凡眼にはよく解されぬ故であらう。
□カタログの中の綱目版程アテにならぬものはない。ローヤル、アカデミーのリーダーといふ先生の繪は、よ程佳いと思つてゐたが、實地を見て失望した。イースト先生のはこれと反對であつた。綱目版はたゞ其組成を知る丈けで、色彩は元よりだが、調子さへも想像が出來ない、詰り綱目版によつて繪の巧拙を知らうとするのは、繪を見て筆者の顔面付きを判するよりもむつかしい。

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