竹に就て

丸山晩霞マルヤマバンカ(1867-1942) 作者一覧へ

丸山晩霞
『みづゑ』第二十二
明治40年3月3日

 竹に種類多し。畫として興味深し。古來竹を四君子の中に數へて風懷の高士に愛され、詩に歌はれ繪畫に描かれしは、今の詩人が菫に於ける程である。日本畫を學んだといふ人に竹を描けぬものはあるまい、日本畫にて最初に竹を習はすのは西洋畫の三角や四角形を模寫さするのと同じてある。洋畫の脂色熱にかぶれて居つた十四五年前までは竹や松は日本畫の領分で西洋畫では描かぬものと心得て、夕陽の森や傾きかゝつた茅屋等を喜んで寫生し、美しい自然の色を脂色と見て脂色で無くては畫でない樣に、僕も思ふたその一人である。然るに先年英國の水彩畫家アルフレツド、パーソンス氏が日本に來遊し、日本の各地を漫遊して凡そ一ヶ年間に澤山の畫を作り、歸國に際してそれを今の美術學校で展覽した、そのとき氏の畫を見るとまのあたり自然に接した樣な感が起り、吾等が崇高して居りし脂色等は少しも無く、如何にも麗はしき自然通りの色彩を施してあつた、脂色派の連中は驚くの外はなく大に嘆賞した、その畫の中には竹林もあれば松もある、それが皆うまい、松や竹は西洋畫で描けぬもの又描くもので無いと思ふて居つた吾等は只唖然とするのみである。脂色崇拜はこのときに破れた。パーソンス氏は確かに日本の藝術界に新しき光明を授けた人である。竹林描寫は漸く展けて日本畫の領分は吾等の領分ともなつた。竹の寫生をなす手合は日一日と多くなりて、竹畫の展覺會も開ける位全盛を極めた。河合君は尤も竹に信仰厚き一人で、先年明治美術會の展覽會に清風徐來といふ畫題にて竹林の大作を出品して御用品になつた事がある、それから先年氏と共に京都に旅行したとき、氏は大原に行く途中の山端といふ處で竹林の寫生を始め、凡そ一ヶ月も通ふて研究した事がある、昨夏は又氏と共に上州吾妻の河原温泉に旅行したとき、その途中で竹林を描た、その畫は今春開かるゝ東京市の博覽會に出品するもので、巻頭の口繪は即ちその縮寫である、清穩の水は透明にして流れざるに似て流れ、竹を透した崖に午後の日の輝きて、夕凉の清風は翠滴る竹林に起り、老たれど聲若き鶯は遠く或は近く鳴きて感更に深き夏の色を現はしたのである。氏が竹に興をもつ世の常ならず、竹林を見れば虎と化して這入らでは止まぬのである。竹林に趣味を持つは河合君ばかりでは無い、僕も大に竹林に趣味を充たし、竹林研究も大になしたものであるが、畫に現はれし竹林に於ては、河合君に及ぼざる遠しである、員ける事を嫌ひの僕は口惜しくて堪へる事が出來ないが、河合君には員けて居る、河合君は竹を愛好する丈け竹の如き君子である。
 竹は面白い。中々に趣味がある。この頃講習所の生徒と大學植物園へ寫生に行く事を約した、約束した日は東京で稀なる寒じであつた、東京は信州や北海道に比して暖かいが、嚴寒の今日今頃の寒い日は郊外寫生等は出來ない、如何に熱心でも今日の約束は破れたものと獨斷して講習所の方へ出かけた、暖爐があつても寒い講習所に約束した連中は一人も見えない、約束を破つたのは僕である、約束した植物園の方へ行くと、約束を守つた生徒は、池畔の木の蔭の寒い處や、又は北風の吹き透す丘の上に散らばつて、氷つて紫色を帶びし手を寫生に動かし、僕の來たのも氣が附かず熱心に寫生して居る、僕は其熱心に驚き、而して大に感謝したのである、かゝる熱心の生徒があればこそ吾等が講習所の發展も進行するのである、一人一人に批評を下して寒い池畔をぐるぐるまわつて居ると一方に大きな竹林がある、竹に興味の深い僕は中に這入こんで、王維が竹林館といふ詩を口ずさんだ、獨坐幽篁裏弾琴復長嘯深林人不知明月來相照面白い!!、僕は其とき琴を持たないが敷島を喫しながら長嘯した、その長嘯は王維が長嘯と同じではあるまいかと思ふた。竹林を出づると又竹林がある、こんどの竹林は竹の種類を集めた竹林で一々名稱が附してある、名稱を知る等は愚の至りであるが一々スチツブツクに書きとめた、これも書て見やう、キツカウチク。タウチク。ナリヒラダケ。カンロダケ。カンザンチク。キンメイチク。メダケ。タイミンチク。ヤダケ。ハコネダケ。スヾダケ。シハウチク。シボリチク。ホウライチク。ゴマダケ、クロチク。マダケ。ウンモンチク。スダレチク。ブンゴザヽ。タイサンチク。セイヤウダンチク。スワウチク。ミヤマザヽ。ハチク。ヤミヤダケ。チゴザヽ。ホウワウチク。カンチク。ホテイチク。マウソウチク。ニガダケであつた、この多い種類が皆各々特長がある、一々研究したら餘程面白いであらふ、カンチクといふのが美的であつた。竹は元來日本のものであるか渡來したものであるかは知らないが、歐米に絶無の處を見ると東洋のものである事は確で、日本にも西南地方に多く北國地方に行くと漸々少く、靑森や北海道には無い、いづれ熱帶植物であらふ、大きな竹を見たのはシンガポールである、南清及びシヤムには殊に多いとの事である。僕は小供のときに母から聞た事は今も覺へて居る、深山に這入つて道を失ふて迷たときは、竹林を見出せば安心が出來るといふので、竹林の附近には必ず人家があると教へられた、僕は大の旅行好きで山の奥に這入と何時もこの事を思ひ出して竹林を注意すると、必ず人家に近い處にある事を確めた。さうすると竹は西南地方にも古來あつたもので、中國より東北地方は移殖したものであらふと思ふ。北國地方には古來の産として熊笹篠等が山を充して居る(みすゞがる)の語は信州で起たのである。
 竹の美は直線にあるので直線美の感じは壯嚴、神秘、幽邃、崇高、等で、獨逸のベクリン畫伯が東洋に來た事があつたら、竹林より神秘的の製作をなしたであらふ。日本の神話とし竹語物語は竹の感じより思付たであらふ、又下總の八幡の八幡不知といふ不思議の神秘的魔境を竹林にしたものも竹の感想より出でたものであらふ。竹と水との調和は流るゝ水より靜止した水の方がよい、竹の直線と水の水平線がよく調和するからである。竹の美感は曇天が趣きが深い、眞畫より夕に近い方がよい、竹林中の月も面白い。春にありては重みある春雪が積りて弓状になつた曲線から、春らしき優美の感を現はす、夏は凉といふ點に就て竹の直線と緑とが美しく感じらるゝ、竹の色の惡しきは初夏にてこのときを竹の秋といふ。竹は君子として高潔貞操を意味し九重の雪深き所を竹の園生といひ、支那の葛敏修が竹軒の詩中に世間無此竹風清とまで讃美されて居る、めで度き竹の口繪に就て聊か竹の感を述べたのである(完)

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