ヴアンダイク氏繪畫鑑賞法の一節


『みづゑ』第二十二
明治40年3月3日

 藝術家の眼中には、「自然」に於ては砂礫の小より山岳の大に至るまで、猫獸の卑しきより帝王の尊きに至るまで、何等の區別もなし唯その陰陽の配合あるのみ。吾人は小學生徒の如く、地球儀の一部分の吾人の方面の夜なるごとくに、その世界の外觀に就てある觀念を收むべし、吾人猶地球の繪の、半ば明にして半ば晦なるを記臆すべし、外に明光あるときは、自然界の各物は明晦の不同によりて最も多く合調し、又は僅少なる度に於て顯はるべし。常に高明のある點には深晦なる反對の點あるものなり。されば藝術にありては、この周圍の事物及び、「自然」に持せる實在の外觀は附與する明晦の間の精密なる關係を維持するものなり。
 されば「チーアロスキユツ」即ち明晦は、平面に凸景を起し、實在の外觀を假定せしむる藝術の手段なりといふことを得べし。勿論これ劈頭第一の緊要なるものにして、若しこれなかりせば繪事は宛も埃及の壁畫の如く、唯輪廓に色彩を施しだるものなるのみ。實にこれを見てもその明晦の緊要なることを充分に釋明すべし。埃及の戰畫は少しも陰所を示さず、また山水畫は少しも光明を示さゞるなり。フアラコ時代の畫家は明晦の何たるを知らざりき、もし然らずとするも、少くとも彼等は如何なる場合に於ても實際に使用せざりしなり。彼等は形貌の輪廓にのみ目を注けり。この繪事に凸景のなき殆んど兒戯に類して不道理の觀あり。(ヴアンダイク氏繪畫鑑賞法の一節)

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